0537◎皇太子聖徳奉讃
愚禿親鸞作
◎(1)
日本国帰命聖徳太子
仏法弘興の恩ふかし
ヒロクヒロメタマフト
有情救済の慈悲ひろし
タスケスクワセタマフト
奉讃不退ならしめよ
ホメタテマツルコトオコタラザレトナリ
(2)
四天王寺の*四箇の院
造建せむとて山城の
ツクリハジメタマフ
おたぎのそまやまにいりたまふ
そのとき令旨にあらわせり
タイシノオホセゴトナリ
(3)
ゆくすゑかならずこのところ
皇都たらむとしめしてぞ
ワウノミヤコナリ
未来の有情利せむとて
六角のつち壇つきたまひ
タイシノミテニテツチダンヲツキタマフナリ
イマノロカクダウコレナリ
(4)
六角の精舎つくりてぞ
閻浮檀金三寸の
タイシシチシヤウマデモチタマヘルクワンオムナリ
救世観音大菩薩
安置せしめたまひけり
オキタテマツルナリ
(5)
数十の年歳へたまひて
摂州難波の皇都より
ワウノミヤコトイフ
ツノクニナニハノミヤコナリ
橘のみやこにうつりてぞ
ヤマトノクニニウツレリシ
法隆寺をたてたまふ
(6)
橘のみやこよりしてこそ
奈良のみやこにうつれりし
ヤマトノクニナリ
数大の御てらを造隆し
ツクリタツトナリ
仏法さかりに弘興せり
ヒロクヒロメタマヘリ
(7)538
▲奈良に四帝をへてのちに
長岡にうつりたまひけり
ヤマシロノクニカツガワノニシノヲイフナリ
五十年をふるほどに
おたぎにみやこうつれりき
ヤマシロノクニイマノミヤコナリ
(8)
桓武天皇の聖代の
コノワウノミヨトイフコヽロナリ
延暦六年にこのみやこ
造興のとき救世観音
奇瑞・霊験あらたなり
ロカクダウノクワンオムフシギヲシメシタマヒキ
(9)
日本国にはこの御てら
仏法最初のところなり
ハジメナリトシルベシ
太子の利益そのゝちに
所所に寺塔を建立せり
テラ
ハジメタテタマフ
トコロドコロ
(10)
太子の勅命帰敬して
オホセゴトヲイフ
六角の御てらを信受す
皇宮の有情もろともに
恭敬尊重せしむべし
ウヤマヒタウトクオモクスベシト
(11)
聖徳太子印度にては
テンヂクナリ
勝鬘夫人とむられしむ
中夏震旦にあらわれて
ヨノナナリ
クニノナナリ
慧思禅師とまふしけり
(12)
震旦華漢におはしては
ヨノナナリ
クニノナヽリ
有情を利益せむとして
男女の身とむまれしめ
オトコオムナノミ
五百生をぞへたまひし
ムマレタマフトナリ
(13)539
仏法興隆のためにとて
オコシタツルナリ
衡州衡山にましまして
数十の身をへたまひて
如来の遺教弘興しき
シヤカニヨライノノコリノミノリヒロメタマフトナリ
(14)
有情を済度せむために
タスケワタシタマフトナリ
慧思禅師とおはします
衡山般若台にては
南岳大師とまふしけり
(15)
▲太子手印の御記にいはく
ミテニシルシタマフ
有情利益のためにとて
荒陵の郷の東に
寺を建立したまへり
ハジメタテタマフト
(16)
▲四天王寺の法号を
荒陵寺とぞ号しける
荒陵の郷にたつるゆへ
みてらの御なになづけたり
(17)
癸の丑のとし
荒陵の東にうつしては
四天王寺となづけてぞ
仏法弘興したまへる
ヒロクヒロメタマフトナリ
(18)
このところにはそのむかし
釈迦牟尼如来ましまして
転法輪所としめしてぞ
仏法興隆したまへる
(19)540
そのとき太子長者にて
如来を供養したまひき
この因縁のゆへにより
寺塔を起立したまへり
タテタマフナリ
(20)
四大天王造置して
ツクリオケリ
仏法弘興したまふに
敬田院をたてたまひ
コムダウヲマフスナリ
菩提を証するところとす
(21)
この地のうちに麗水あり
イサギヨキミヅトイフ
荒陵池とぞなづけたる
青竜つねにすみてこそ
仏法守護せしめける
(22)
丁の未のとしをもて
たまつくりのきしのうへに
青竜鎮祭せしめつゝ
トコシナニマツリオケリ
仏法を助護したまへり
マモリタマフトナリ
(23)
この地に七宝をしくゆへに
青竜つねに住せしむ
麗水ひむがしへながれいづ
イサギヨキミヅトイフナリ
百石玉出水といふ
(24)
慈悲心にてのむひとは
かならず法薬となるときく
令旨を信ぜむひとはみな
タイシノオホセゴトナリ
ながれをくみてたのむべし
(25)541
▲宝塔・金堂は極楽の
東門の中心にあひあたる
ひとたび詣するひとはみな
マイルナリ
往生極楽うたがはず
(26)
塔の心のはしらには
仏舎利六粒おさめしめ
六道の有情利益する
かたちとしめしたまひけり
(27)
敬田院に安置せる
テンワウジノコムダウヲマフスナリ
金銅の救世観音は
百済国の聖明王
シヤウミヤウ
太子滅後のそのゝちに
ハクサイコクニテタイシノゴニフメチノノチトマフスナリ
(28)
恋慕渇仰せしめつゝ
コヒシタヒタテマツレリキ
つくりあらはす尊像を
阿佐太子を勅使にて
きたりましますかたみなり
(29)
宝塔第一の露盤は
こがねを御てにてちりばめて
タイシノミテニテロバンヲヌリタマフトナリ
わが朝遺教興滅の
シヤクソンノミノリノヒロマリカクレタマハムコトヲ
かたちを表すとのたまへり
アラワスナリ
(30)
▲太子百済国にましまして
仏像・経律論蔵と
法服・比丘尼をこの朝に
ソウノコロモナリ
わたしたまひしそのときは
(31)542
欽明天皇治天下
ワウノミヨトイフナリ
壬申のとしなりき
如来の教法はじめてぞ
帰命せしめたてまつる
(32)
律師・禅師・比丘・比丘尼
呪師・仏工・造寺工
ブチシタクミ
バンジヤウタクミ
敏達天皇治天下
ワウノミヨトマフスナリ
丁酉にわたされき
(33)
生を王家にうけしめて
ワウノコトムマルトナリ
詔を諸国にくだしてぞ
センジヲイフナリ
人民をすゝめましまして
寺塔・仏像造写せし
ツクリウツス
(34)
用明天皇の胤子にて
聖徳太子とおはします
¬法華¼・¬勝鬘¼・¬維摩¼ 等
大乗の義疏を製記せり
ツクリシルセリ
(35)
太子崩御のそのゝちに
ウセサセタマフヲホウギヨトマフスナリ
如来の教法興隆し
有情を救済せむひとは
スクヒタスクルナリ
太子の後身と礼すべし
(36)
六宗の教法崇立して
アガメタテタマフトナリ
有情の利益たえざりき
つねに五戒をうけしめて
御名おば勝鬘とまふしけり
(37)543
▲往昔に夫人ありしとき
ムカシトイフ
釈迦牟尼如来ねむごろに
¬勝鬘経¼ をときたまふ
その因縁のゆへなれば
(38)
この経典を講説し
ナラヒトキタマフ
義疏を製記したまひて
ツクリシルス
仏法興隆のはじめとし
有情利益のもととせり
(39)
仏子勝鬘のたまはく
百済・高麗・任那・新羅
クニノナヽリ
クニノナヽリ
クニノナヽリ
クニノナヽリ
有情のありさまことごとく
貪狼のこゝろさかりなり
トムヨクノコヽロミダリガワシキトナリ
(40)
かれらのくにを摂伏し
オサメシタガヘムトナリ
帰伏せしめむためにとて
護世四天をつくりてぞ
西方にむかへて安置せる
オケルトナリ
(41)
阿佐太子を勅使にて
センジノツカイナリ
ハクサイコクノワウノコナリ
わが朝にわたしたまひし
金銅の救世観世音
敬田院に安置せり
テンワウジノコムダウニオキタテマツルトナリ
(42)
この像つねに帰命せよ
聖徳太子の後身なり
オムミトマフスナリ
この像ことに恭敬せよ
弥陀如来の化身なり
(43)544
仏子勝鬘うやまひて
十方諸仏を奉請す
シヤウジタテマツレリ
梵・釈・四王・竜神等
ボムテンタイシヤク
一切護法まもるべし
ホトケノミノリヲマモルカミナリ
(44)
新羅の日羅まふしけり
ヒジリナリ
敬礼救世観世音
伝灯東方粟散王と
八耳皇子を礼せしむ
(45)
▲百済の阿佐太子礼せしむ
敬礼救世大慈観音菩薩
妙教流通東方日本国
四十九歳伝灯演説とまふしけり
(46)
震旦にしては慧思禅師
慧文禅師は御師なり
タイシノオムシナリ
勝鬘比丘の御時は
恵慈法師は御師なり
(47)
像法第十三年に
漢の明帝の時代にぞ
ミヤウタイ
天竺の摩騰迦・竺法蘭
ヒジリ テンヂクノヒジリフタリナリ
仏教を白馬にのせきたる
(48)
四百八十余年へて
漢土にわたしきたりては
みやこの西にてらをたて
白馬寺とぞなづけたる
(49)545
大日本国三十主
ワウナリ
欽明天皇の御ときに
仏像・経典この朝に
奉献せしむときこえたり
ワタシタテマツルトナリ
(50)
像法五百余歳にぞ
聖徳太子の御よにして
仏法繁昌せしめつゝ
いまは念仏さかりなり
コノヨハマチポフノヨナリ
(51)
御手印の縁起にのたまはく
タイシノオムニチキナリ
崇シユ 峻天皇元年に
百済国より仏舎利を
たてまつるとぞ記したまふ
シルシタマフトナリ
(52)
太子の御ことにのたまはく
われ入滅のそのゝちに
国王・后妃とむまれしめ
クニノワウキサキトムマレシムトナリ
くにぐに所所をすゝめては
トコロドコロ
(53)
数大の寺塔を建立し
ハジメタツ
数大の仏像造置せむ
カズオホクオホキナルホトケヲツクリオカムト
数多の経論書写せしめ
カキウツシオカムトナリ
資材田園施入せむ
タスケノタカラタソノヲテラニオカムトナリ
(54)
▲長者卑賤のみとなりて
イヤシキモノトナリ
経論・仏像興隆し
比丘・比丘尼とむまれても
有縁の有情を救済せむ
タスケスクワントナリ
(55)546
これは他身にあらずして
わが身これならくのみ
タイシノワガミナリトシルベシトオホセゴトナリ
奉讃の一字一句も
ホメタテマツルコトバヽミナタイシノミコトナリトシルベシ
みなこれ太子の金言なり
ミコトナリトシルベシ
(56)
儲君のくらゐをさづけしに
トウグノクラヰヲマフスコトバナリ
仏法興隆のためにとて
再三固辞せしめたまひしに
ミタビカタクジセシメマシマスヲモチヰラレズ
天皇これをゆるされず
(57)
*太子の御とし三十三
なつ四月にはじめてぞ
憲法製して十七条
ツクリタマフ
御てにて書して奏せしむ
カヽセタマフ
(58)
十七の憲章つくりては
皇法の規模としたまへり
朝家安穏の御のりなり
国土豊饒のたからなり
クニ
ユタカニユタカナラセムトナリ
(59)
天喜二年甲午に
忠禅宝塔たてむとて
ホフリウジノヂウソウニテアリケルヒトノタウヲタテムトテ
てづから大地をけづりしに
金銅の凾をほりいだす
(60)
はこの蓋の銘にいはく
今年かのとのみのとしに
かうちのくにいしかわに
しながのさとに勝地あり
スグレタルトコロアリ
(61)547
▲墓所を点じおわりにき
タイシノミサヽギヲサダメオカセタマヒケリトナリ
われ入滅のそのゝちに
タイシノオムシルシブミヲトヾメオカセタマヒタリケルナリ
四百三十余歳に
この記文は出現せむ
オムシルシブミノマヽニホリイダサレタリケルナリ
(62)
▲仏法興隆せしめつゝ
有情利益のためにとて
かの衡山よりいでゝ
この日域にいりたまふ
コノクニナリ
(63)
守屋が邪見を降伏して
仏法の威徳をあらわせり
いまに教法ひろまりて
安養の往生さかりなり
(64)
如来の遺教を疑謗し
ウタガヒソシル
ホトケノノコリノミノリナリ
方便破壊せむものは
ヤブリヤブル
弓削の守屋とおもふべし
したしみちかづくことなかれ
(65)
▲有情教化のためにとて
仏法を弘興したまふに
ヒロクヒロメタマフ
弓削の守屋は破賊にて
ヤブリアダナリ
かげのごとく随従せり
シタガヒシタガヘリ
タイシノ御ミニソエリトナリ
(66)
▲物部の弓削の守屋の逆臣は
ふかく邪心をおこしてぞ
寺塔を焼亡せしめつゝ
ヤキホロボス
仏経を滅亡興ぜしか
ウシナヒホロボサムトスルナリ
(67)548
このとき仏法滅せしに
悲泣懊悩したまひて
カナシミナキナヤミタマフトナリ
陛下に奏聞せしめつゝ
コクワウヘマフシアゲタマヒキ
軍兵を発起したまひき
イクサ
オコシタマヒキトナリ
ツワモノ
(68)
定の弓と慧の矢とを
和順してこそたちまちに
有情利益のためにとて
守屋の逆臣討伐せし
ウタレシナリ
(69)
寺塔・仏法を滅破し
ホロボシヤブル
国家・有情を壊失せむ
コクワウヲウシナヒヨロヅノウジヤウヲヤブリウシナワムトセムハ
これまた守屋が変化なり
厭却降伏せしむべし
イトヒシリゾケシタガヘムトスベシトナリ
(70)
物部の弓削の守屋の逆臣は
生生世世にあひつたへ
かげのごとくにみにそひて
仏法破滅をたしなめり
(71)
つねに仏法を毀謗し
ソシリソシルナリ
有情の邪見をすゝめしめ
頓教破壊せむものは
ヤブリヤブラム
守屋の臣とおもふべし
(72)549
聖徳太子の御名おば
八耳皇子とまふさしむ
八人して一どに奏することを一度にきこしめすゆへに八耳皇子とまふすなり
▲厩屋門の皇子とまふしけり
皇后御まやに御遊ありけるにそのところにしてむまれさせましますによりてむまやどの皇子とまふすなり
上宮太子とまふすなり
つのくにわたのべの東の楼のきしのうえに宮ありけりその御所にましますゆへに上宮太子とまふすなり
(73)
憲章の第二にのたまはく
三宝にあつく恭敬せよ
四生のついのよりどころ
万国たすけの棟梁なり
バンコク
ムネトストイフナリ
(74)
いづれのよいづれのひとか帰せざらむ
三宝よりまつらずは
いかでかこのよのひとびとの
まがれることをたゞさまし
(75)
とめるものゝうたえは
いしをみづにいるゝがごとくなり
ともしきものゝあらそひは
みづをいしにいるゝににたりけり
南无救世観音大菩薩
哀愍覆護我
南无皇太子勝鬘比丘
願仏常摂受
皇太子仏子勝鬘
550是縁起文、 納↢置 金堂 内監↡、 不↠可↢披見↡。 手跡猥。
乙卯歳正月八日
拝見奉讃 人者
南无阿弥陀仏
可唱可唱
*建長七歳乙卯十一月晦日書之
愚禿親鸞 八十三歳
底本は高田派専修寺蔵真仏上人書写本。
四箇の院 「一きやうでんゐん 二せやくゐん 三れうびやうゐん 四ひでんゐん」 と下註。