本書は曇鸞大師による天親菩薩の ¬無量寿経優婆提舎願生偈¼ (浄土論) の註釈書である。
曇鸞大師は、 道宣の ¬続高僧伝¼ によれば、 曇巒とも書き、 中国山西省五台山の近くにある雁門 (山西省代県) の生まれで、 東魏の興和四 (542) 年に 「春秋六十有七」 で没したとされる。 しかし生誕地について迦才の ¬浄土論¼ には、 州の汾水 (山西省汾水) としており、 また示寂年も同 ¬続高僧伝¼ 道綽伝に 「石壁谷玄中寺。 寺即斉時曇鸞法師之所立也」 とあることや、 迦才の ¬浄土論¼ に 「魏末高斉之初猶在」 とあることなどから、 北斉朝 (550年~) まで生存したという説もある。 曇鸞大師は、 若年に出家して四論の教学と仏性義を深く研鑽したが、 ¬大集経¼ の註釈のために不老長生の法を求め、 道教の大家として知られる江南の陶弘景を訪ね、 仙経十巻を授けられた。 帰る途上、 洛陽で菩提留支に会って浄教を授けられ、 仙経を焼き捨てて浄土教に帰入したと伝えられている。 その後、 曇鸞大師は浄土教の宣布に尽力し、 東魏の孝静帝はその徳を 「神鸞」 と讃え、 梁の武帝も菩薩と礼したという。 曇鸞大師は、 汾州 (太源) 石壁の玄中寺に移り住み、 平遥の山寺にて往生したという。 曇鸞大師には、 本書に加えて ¬讃阿弥陀仏偈¼ や、 真撰であるか否か結論をみていないが ¬略論安楽浄土義¼ がある。
本書は、 具名を 「無量寿経優婆提舎願生偈註」 といい、 「無量寿経論註」、 「浄土論註」、 「論註」、 「註論」 などと略称される。 天親菩薩の ¬浄土論¼ を註釈したもので、 上巻では ¬浄土論¼ の大綱を示して、 ¬浄土論¼ の偈頌を総説分と名づけ、 それを長行に顕されている五念門に配当して解釈し、 下巻では ¬浄土論¼ の長行を解義分と名づけ、 願偈大意・起観生信・観察体相・浄入願心・善巧摂化・障菩提門・順菩提門・名義摂対・願事成就・利行満足の十重の章に分けて解釈し、 願生偈の一心に摂められている。 こうして、 上巻最後にある八番問答によって ¬観経¼ 下下品の悪機が、 上巻初と下巻末に顕される阿弥陀如来の本願力によって往生するという他力の法義が明らかにされている。
本書の撰述年代について、 その詳細を知ることはできないが、 諸経録によれば、 菩提留支の ¬浄土論¼ 訳出が、 北魏の永安二 (529) 年か普泰元 (531) 年といわれていることから、 本書の撰述はそれ以降となる。
本書の流伝については、 道綽禅師の ¬安楽集¼ に引用されるのみで、 唐代中期以降の浄土教典籍に依用の形跡が見られず、 中国でひろく流伝したかどうか疑問視されている。 ただし、 日本へは早くから伝来していたようで、 「正倉院文書」 の天平二十 (748) 年の項には、 写経記録として 「往生論私記」 の名が見えている。 これが本書を指すのであれば、 この時すでに伝来していたことになる。 また、 奈良時代には、 元興寺智光が ¬無量寿経論釈¼ を著すが、 その註釈は本書に依拠したものとされる。 その後、 源隆国の ¬安楽集¼、 東大寺の永観による ¬往生拾因¼、 三論宗覚樹の弟子珍海による ¬決定往生集¼ などに本書が引用されている。 このように、 南都・北嶺を中心にして本書は流布していたと推測されるが、 本書に特別の教学的意義を見いだしたのは、 宗祖である。 源空 (法然) 聖人の ¬選択集¼ や隆寛律師の ¬具三心義¼ などにも本書は引用されているが、 特に ¬教行信証¼ では、 本書の大部分が依用され、 宗祖の他力回向義の重要な理論的支柱となっている。