経釈文聞書 解説
 本書は、 宗祖面授の門弟真仏上人が経論釈などの文を抄出・書写したものである。 真仏上人は、 ¬親鸞聖人門侶交名帳¼ などによれば、 多くの門弟を抱える高田門徒のリーダーで、 宗祖の御消息にもその名が見られる。 初期真宗教団の代表的人物である。 正嘉二 (1258) 年三月、 宗祖が八十六歳のときに、 五十歳で示寂している。
 真仏上人の筆による書写本は、 本書以外に宗祖の ¬教行信証¼、 ¬入出二門偈頌¼、 「三帖和讃」 (一部、 宗祖筆)、 ¬皇太子聖徳奉讃¼、 ¬如来二種廻向文¼ や ¬西方指南抄¼、 断簡類の 「本尊影像讃文」・「六角堂夢想偈文」・「四十八誓願」・「光明寺和尚善導言」・「往生要集云」、 また源空 (法然) 聖人の ¬三部経大意¼、 「法然聖人御消息」 や ¬弥陀経義集¼ がある。 これらの書写本は、 従来、 宗祖の真筆と混同されてきた。 それは、 真仏上人の筆跡が宗祖と酷似していることに加えて、 奥書に自身の署名がないためであった。 筆跡が酷似しているのは、 宗祖への敬慕の念の表れであるといわれ、 宗祖の筆跡研究の進展に伴って、 多くの書写本の筆跡が真仏上人のものであることが明らかになった。 その中でも、 本書は真仏上人の筆跡の基準とされるものである。 また、 宗祖の著作には、 真筆が失われたもの、 真仏上人の書写によって後世に伝えられたものも多い。 さらには、 宗祖に先立ち示寂された真仏上人の書写は、 すべて宗祖在世中のものであることから、 本書の資料的価値は極めて高いといえる。
 本書が収載する内容を分類して示すと、 正依の ¬大経¼ とその異訳である ¬平等覚経¼、 ¬華厳経¼・¬法華経¼・¬涅槃経¼ などの諸経典、 善導大師の ¬法事讃¼、 ¬述文賛¼ など諸師の著作、 そして宗祖の ¬教行信証¼・¬親鸞夢記¼ など二十五文である。 本文は整然と書かれてはいるが、 系統立てて構成されてはおらず、 見聞に従って書写されたものと考えられている。
 本書の内容において、 とくに注目されるのは ¬教行信証¼ の書写であり、 ¬教行信証¼ の抜粋書写本としては最古のものである。 そこには 「親鸞聖人曰、 教行証言」 として 「行文類」 行一念釈が引用されているが、 本文に付された右訓の内容が、 板東本・高田本・西本願事本のいわゆる鎌倉三本のいずれとも異なっている。 また、 この抜粋された文は、 宗祖自身が自著に 「聖人」 と記すはずがないことから、 宗祖真筆とされてきた本書を、 袖書に名前のあった真仏上人の筆とする有力な根拠となっている。
 また、 宗祖に関連する重要な文としては ¬親鸞夢記¼ がある。 本書には 「親鸞夢記云」 とあり、 「聖人」 の号がないことから、 宗祖自身が残した記録を書写したものと考えられている。 内容は、 いわゆる行者宿報偈および前後の詞書である。 なお、 江戸時代には、 宗祖真筆とみられていた本書から諸文をとりはずし、 法物展示などに用いるために別表具されたことがあったようで、 ¬親鸞夢記¼ をはじめ第十二文の ¬華厳経¼、 第十五文の ¬法句譬喩経¼ が現在でも別表具されている。 また、 ¬親鸞夢記¼ をとりはずした箇所には白紙を挿入して、 「聖人六角堂御夢想之記此所有之 壹枚半也 依仰抜出御掛物被仰付也/享保十四年五月廿四日」 と墨書されている。  他にも、 宗祖の著作と関連する内容としては、 後述するように冒頭の ¬蓮華面経¼ および第二文の ¬法事讃¼ は、 御消息との関連が指摘され、 第六文の ¬華厳経¼ は 「信文類」 や御消息にみられる。 また、 第七文の ¬涅槃経¼ は 「信文類」 に、 第九文の ¬大経¼ は ¬唯信鈔文意¼ の正嘉元年本において加筆された部分に見られる。 さらに、 第十二文の ¬華厳経¼ の経文も 「信文類」 にあり、 第十八・十九文の ¬浄土本縁経¼ からの二文は、 宗祖の真筆断簡と一致している。 これらのことから、 真仏上人がいかに宗祖に近い立場にいた人物であったかが知られる。 また、 宗祖の著作の本文ではないが、 第十二文の ¬華厳経¼ の経文およびその釈文と第十六文の 「焼法門誦文」 とは、 ¬尊号真像銘文¼ 正嘉二年本 (宗祖真筆) の巻尾に別筆で記され、 また滋賀県光延寺蔵の ¬浄土文類聚鈔¼ 延慶二年書写本の巻尾にも同内容が記されており、 本書との関連が窺われる。
 なお、 最後に引かれる ¬法華経¼ の文は、 内容が中途で終わっている。 その理由については判然としておらず、 今後の研究が待たれる。
 本書には、 年紀を示す記述がなく、 他に書写本もないことから、 撰述年時は明らかではないが、 成立について以下の二説がある。
 第一説は建長八年に、 真仏上人が宗祖のもとを訪れ、 そこにあった種々の経文・釈文から抜き出し制作したという説である。 ¬三河念仏相承日記¼ によれば、 建長八年の十月に真仏上人は顕智上人・専信房専海を伴って上洛している。 これは、 宗祖が ¬皇太子聖徳奉讃¼ を脱稿した建長七 (1255) 年の翌年にあたる。 正嘉二 (1258) 年三月に示寂する真仏上人が ¬皇太子聖徳奉讃¼ を書写したのはこの上洛時であると考えられ、 そうであれば本書の書写も同時になされたのではないかと推定されている。
 第二説は、 建長七年に、 真仏上人が当時の関東での異義に関連した諸文を自ら集めて制作したとする説である。 本書冒頭の ¬蓮華面経¼ とは、 慈信房宛の九月二日御消息 (建長七年と推測されている) に出る 「獅子の身中の蟲の獅子をくらふがごとし」 の典拠とされ、 続けて本書に記される ¬法事讃¼ は、 同じく九月二日御消息に記される ¬法事讃¼ の前後を含めた一節である。 すなわち、 慈信房宛九月二日付御消息に関連する二文が、 本書の冒頭に引かれていることになる。 このことから、 九月二日付御消息を見た真仏上人が自ら、 宗祖が記した内容の原文にあたって記したのが本書冒頭の二文ではないかと推定されている。