本書は、 覚如上人の撰述である。 覚如上人については ¬慕帰絵¼・¬最須敬重絵詞¼ を参照されたい。 本書の題号にある 「拾遺」 とは、 当時既にあった源空 (法然) 聖人の伝記に洩れている記事を拾い補うという意味で、 「古徳」 とは源空聖人の遺徳を指すといわれる。
 本書は、 九巻七十二段にわたって源空聖人の行状が記されている。 第一巻は第一巻は誕生から比叡山に入るまでである。 長承二 (1133) 年、 美作国稲岡庄で誕生し、 保延七 (1141) 年、 九歳の時に父の漆間時国が夜討ちに遭い、 その時の遺言により仏門に入った。 久安三 (1147) 年に比叡山に登り、 源光、 続いて皇円に師事した。 第二巻は、 山家・登壇・受戒以後の動向である。 十八歳で遁世し、 黒谷の慈眼房叡空に付いて諸宗の章疏を学んだ。 このとき法然を房号とし、 諱を源空としたとされる。 保元元 (1156) 年には求法のために嵯峨清涼寺を訪れ、 さらに南都の蔵俊僧都や醍醐寺の寛雅、 慶雅法橋と対論し、 中川実範のもとで受戒したことが記されている。 第三巻は、 浄土教への帰入である。 ¬往生要集¼ の序によって浄土門に入ることを決意し、 黒谷報恩講で一切経を五遍読誦した。 そして、 ¬観経疏¼ を披見して深く浄土の宗義を得たという。 叡空の没後、 承安五 (1175) 年に黒谷を出て吉水に住するようになったとある。 第四巻は源空聖人の経説の内容である。 東大寺での 「浄土三部経」 や 「浄土五祖伝」 の講説の内容が示されている。 また、 文治二 (1186) 年のいわゆる大原問答、 明遍による ¬選択集¼ への不審、 河内みてくらしまの耳四郎への教化が記されている。 第五巻は、 清水寺での説戒、 霊山での不断念仏、 後白河法皇の御前での ¬往生要集¼ の講義、 建久三 (1192) 年に修された後白河院の菩提を弔うための七日念仏など、 諸所での行状が挙げられている。 その中、 「聖人自筆の記」 として ¬西方指南抄¼ の文が引かれ、 また、 元久元 (1204) 年、 比叡山衆徒による念仏停止の訴えをうけて起請文を記した事も示されている。 第六巻には、 建仁元 (1201) 年、 宗祖が二十九歳にして吉水に入室した頃の事績や、 「七箇条起請文」 が収載されている。 また、 元久二 (1205) 年に宗祖が ¬選択集¼ の書写と真影の図画を許され、 それぞれ源空聖人自筆の内題・名号などが加えられたことなど、 宗祖に関連した記事が盛り込まれている。 第七巻は、 源空聖人や宗祖など八名が流罪、 住蓮・安楽など四名が死罪に処せられた、 貞元 (建永) の法難と流罪について記されている。 流罪の道中、 室の泊での遊女教化や、 讃岐塩飽庄での教化の姿も描写されている。 第八巻は、 流罪赦免から示寂までである。 承元三 (1209) 年に摂津の勝尾寺で隠棲し、 建暦元 (1211) 年に赦免され帰洛して以降は、 東山大谷で浄土の教えを勧めていたが、 翌年八十歳で示寂された。 第九巻は、 源空聖人示寂後の内容で、 中陰法要の本尊や導師、 願文が詳しく記されるとともに、 源空聖人の遺徳が記されている。
 以上のような内容については、 共通する事項が多いことから、 ¬法然上人伝絵詞¼ (琳阿本) や ¬法然上人伝法絵¼ を中心に、 その他 ¬法然上人伝記¼ (醍醐本) や ¬源空聖人私日記¼ (¬西方指南抄¼ 中末巻収載) など種々の源空聖人伝の影響があるとされる。 また、 本書に見られる宗祖の行実のうち、 第六巻の吉水入室・選択付属・真影図画や、 第七巻の師資遷謫のように、 ¬親鸞上人伝絵¼ と重複する記述もある一方で、 第六巻の起請文連署や第七巻の親経卿申宥、 第九巻の追善供養のように、 ¬親鸞上人伝絵¼ に無い記事も含まれている。 このように、 本書において源空聖人の伝記類の中に 「拾遺」 されたものとは、 宗祖に関する内容であるといえる。 高弟としての宗祖の姿を示すことで、 両者の師弟関係を強調しており、 ¬親鸞上人伝絵¼ の補遺的な正確も併せ持つのが本書の特徴である。
 本書の成立については、 奥書に 「于時正安第三年辛丑歳従黄鐘/中旬九日至太呂上旬五日首尾十/七箇日扶痻忍眠草之縡既卒爾/短慮縛迷惑紕繆胡靡期俯乞披/覧之宏才要加取捨之秀逸耳/衡門隠倫釈覚如 三十二歳」、 また ¬存覚一期記¼ に 「十二歳 正安三、 冬比、 長井道信 鹿嶋門徒 依↢¬黒谷伝¼ 九巻 新草所望↡在京。仍大上令↠草↠之給」 とあり、 正安三 (1301) 年に上洛した鹿島門徒の長井道信の所望に応じて、 僅か十七日間で制作されたものである。 覚如上人は、 先述のような、 源空聖人の伝記類を蒐集し参照した上で本書を制作したと考えられる。 なお、 本書執筆の期間が短いことから、 この時に完成したのは詞書のみで、 図絵を含んだ絵詞伝としての成立は、 道信帰郷以後であると推測されている。