聞書 解説
 本書は、 宗祖面授の門弟顕智上人が経論釈などの文を抄出・書写したものである。 顕智上人は宗祖在世時から示寂後の大谷廟堂の造営・維持の時期に至るまで、 出色の活躍をした関東門弟集団の中心的な人物である。 宗祖の御消息や ¬三河念仏相承日記¼ などの記述から、 たびたび関東と京都の間を往復していたことが知られ、 宗祖の臨終の際にも常随の門弟であった蓮位などとともに宗祖のそばについていた。 その活動の中で特筆すべきは、 宗祖の著作をはじめとした聖教や伝記を数多く書写したところにあり、 ¬愚禿鈔¼・¬浄土和讃¼・¬正像末和讃¼・¬一念多念文意¼ や宗祖の御消息、 あるいは ¬唯信鈔¼・¬西方指南抄¼ (下末)、 ¬大阿弥陀経¼・¬法然上人伝法絵¼・¬西方発心集¼ などが今日に伝えられている。
 本書に収載する文の数は真仏上人の ¬経釈文聞書¼ をはるかに越え、 八十種百五十四文が蒐集されている。 おおよその内容は、 正依の 「浄土三部経」 とその異訳、 ¬涅槃経¼・¬華厳経¼・¬法華経¼ などの経典、 ¬往生礼讃¼・¬述文賛¼・¬往生要集¼・¬往生拾因¼・¬三昧発得記¼ など祖師の著作、 ¬教行信証¼・「獲得名号自然法爾御書」 といった宗祖の著作、 瞋恚熾盛蛇蝎・十二類生者・七種生死・四王生八子・仏十大弟子・御入滅日記事・六地蔵・三有・四重などの仏教に関する各事項の記述などである。 この中で、 宗祖に直接関連するものとしては、 ¬教行信証¼ 「化身土文類」 から三つの文が連引される。 まず、 「一 ¬教行証¼ 六云」 として三願転入の文、 続けて 「又云」 として三願転入直後の ¬大智度論¼ 四依四不依から ¬安楽集¼ までの文、 さらに 「一 親鸞上人云」 として ¬観経¼ 隠顕の最後の箇所が抜書されている。 また、 よく知られているのは、 三条富小路善法坊において顕智上人が八十六歳の宗祖より聞書した 「獲得名号自然法爾」 の法語である。 この内容は、 本書以外にも顕智上人自筆の古写消息や ¬見聞¼ にも収載されていることから、 その重要性が知られる。 そのほかには、 源空 (法然) 聖人に関連するもとのして、 ¬金剛宝戒章¼ や ¬法然上人伝記¼ (醍醐本) に収録される 「一期物語」 や 「三心料簡事」、 ¬三昧発得記¼ などもみられる。 さらに特徴的なのは、 ¬法華経¼ のような宗祖の著作には引用されない経典が多数ある点や、 顕智上人が持戒堅固な人物であったと伝えられることと合致するように、 戒律に関連する抜書文がみられる点などである。 このように本書は、 宗祖の門弟がどのような聖教・資料に触れていたかを知る上で、 極めて貴重なものである。
 本書の成立については、 いずれも顕智上人による抜書集という点で、 本書と同じ性格を持つ ¬抄出¼ (二冊) と ¬見聞¼ との関係が深いことが指摘されている。
 まず、 ¬抄出¼ と本書との間には、 ¬抄出¼ を綴じていた糊が剥がれたことにより、 たびたび内容の錯綜が起こり、 とくに十四丁分ある ¬抄出¼ 第二冊が、 現状では本書の冒頭に錯入されている点が挙げられる。 また、 それ以前にも 「散善義」・¬観経¼・「散善義」・¬選択集¼・¬続選択文義要鈔¼ の順に五文が書かれた二丁分が、 本書の冒頭に錯入していた記録がある。 なお、 ¬抄出¼ 第一冊の巻尾には 「延慶己酉七月七日之書写也」 との奥書がある。
 次に ¬見聞¼ と本書とは、 重複する抜書文をもち、 従来より、 この ¬見聞¼ を整理して制作されたのが本書であると考えられている。 ただし、 近年ではその整理・制作の作業は、 編集過程において相互になされたものとの見方が示されている。 それは、 ¬見聞¼ には顕智上人の筆だけでなく複数の筆が含まれ、 その異筆部分に本書を手本に書き継いだ形跡が見られることによる。 すなわち、 顕智上人が ¬見聞¼ を元に本書を清書本として制作した後に、 複数の人物が本書を元に ¬見聞¼ に補記・追筆を行ったのである。 また、 ¬見聞¼ の巻尾には、 専空聖人の筆で 「顕智上人浄土文類ヲアツメテ/八十四歳御年 専空十八歳ニシテハル/延慶二歳 七月八日」 との奥書がある。
 以上のことを踏まえて三書の年紀を並べると、 本書 「延慶第二 初秋上旬 書写之畢」、 ¬抄出¼ 「延慶 己酉七月七日之書写也」、 ¬見聞¼ 「延慶二歳 七月八日」、 となる。 一見してわかるように、 本書・¬抄出¼・¬見聞¼ の三書の年紀は、 延慶二年七月の六、 七、 八日と連続しているのである。 顕智上人は延慶三 (1310) 年七月四日に八十五歳で示寂している。 その前年に三日続けて書写されたこの三部は、 ¬見聞¼ の奥書にあるように、 十八歳の専空聖人への師資相承のために一組として制作されたと考えられている。 ただし、 本書の年紀は残り十丁ほどもある位置に書かれていることから、 顕智上人は一旦この時点で筆を擱き、 その後、 再度筆を執って書き足したのではないかと考えられ、 本書の成立は三書のうち最後であったと推測されている。