本書は、 存覚上人の撰述とされる。 存覚上人については ¬存覚一期記¼ を参照されたい。 本書の撰者を巡っては、 ¬浄典目録¼ にその名が見られないことや、 一般的に考えられている存覚上人の文体と本書とが異なる点から、 上人の真撰ではないとする見方がある。 一方で、 寂慧の ¬鑑古録¼ によれば、 延文元 (1356) 年、 存覚上人六十七歳の時の書であると伝えられていることから、 存覚上人の真撰とする見方もある。 このように、 二つの見解はあるものの、 真宗典籍の真偽を明確にした ¬真宗法要¼ に存覚上人の著作として収録されていることを根拠として、 存覚上人の真撰書とされている。
 本書の跋文に 「はじめは ¬十輪経¼・¬十王経¼ 等のこゝろをとりてこれを鈔す、 おはりは ¬教行証¼ 等の文類を見聞するゆへに、 浄土見聞集と題す」 とあることから、 題号は、 浄土の教えを見聞し蒐集した書という意であることがわかる。
 内容は大きく二段に分けられ、 十王信仰を明かす前半部分と、 浄土真宗の宗義を示す後半部分とで構成されている。
 前半では、 ¬十輪経¼・¬十王経¼ などの経典の意をとって、 死後に亡者の生前に犯した罪が裁かれる地獄の苦しみの様相が明かされている。 すなわち、 その罪の裁断は秦広王をはじめとする十王によって七日ごとに行われ、 七七日を過ぎた後は、 百箇日、 一周忌を経て、 三回忌にまで及ぶ。 そして最終的には亡者はその罪により 「熱鉄身をこがし、 寒氷くびをとぢ、 融銅はらをわかし、 生革かしらにまつふ、 銅柱これをいだき、 熱地これをふす」 といわれるような苦しみに苛まれることが示されている。 しかし、 結びには、 このような苦しみの果報を厭うべきことが強調されており、 六道の中で最も迷いの世界から離れることに適している生所こそが人界である旨を述べ、 生死出離が勧められる。
 後半では、 「仏法万差なりといへども、 浄土真宗はこれ時機相応の法なり」 とあり、 時機相応の教えこそ浄土真宗の他力の教えであることが示され、 ¬教行信証¼・¬大経¼ の説示などによって、 生死出離のために聞信を勧めることに主眼が置かれている。 また、 聞信のためには善知識に値遇することが重要であると説くことも本書の特徴の一つである。 その中、 「善知識にあひたてまつり、 法をきゝて領解するとき、 往生はさだまるなり。 そのゝち名号のとなへらるゝは、 大悲弘誓の恩を報じたてまつるなり。 それも行者のかたよりとなへて御恩を報ずるにはあらず。 他力の信よりもよほされたてまつりてとなふれば、 をのづから仏恩報謝となるなり」 という文からは、 他力を強調した信心正因・称名報恩説が示されていることが窺える。
 このように本書は、 はじめに地獄の苦相が示され、 後に浄土真宗の宗義が説かれる特殊な形式で示されている。 そのことは跋文に 「鸞聖人の御相伝には、 欣求をさきにし、 厭離をのちにせよとのたまへり……されば ¬教行証¼・¬浄土文類聚鈔¼・¬愚禿鈔¼ 等の御作にも、 また ¬浄土和讃¼・¬正像末和讃¼ 等にも、 かつて穢土をいとへとも、 无常を観ぜよとも、 あそばされたる一文なし」 とあることから窺い知ることができる。 すなわち、 当流の論述形式としては欣求を先として厭離を後とすることが通例であり、 本書のように厭うべきものを先に説示するという論法の例は見られないと述べられている。 続けて、 本書でこのような形式が取られている理由を、 「まことに信心ひとたび発起せしめたまひぬれば、 をしへざれども穢土はいとひぬべし。 またたとひいとふこゝろかつてなくとも、 信をえば往生うたがひなし。 一言なりとも、 他力発起の法門もとも大切なり。 はじめの十王讃嘆なんどはすでに厭離をさきにする義なり。 当流にはしかるべからざることなれども、 浅智愚闇のものを誘引のためにとて、 願主の所望黙止がたきによりて、 わたくしの見聞をしるしわたすなり」 と記されている。 これによれば、 浄土真宗の宗義より先に十王信仰に関する記述を示し出離を勧めることが説かれているのは、 願主の所望に応じながら 「浅智愚闇のもの」 を誘引するためであると示されている。 そして、 何より信心を得ることが大切であることが説かれていることを考え併せると、 存覚上人の意図するところは、 「浅智愚闇のもの」 を浄土真宗の他力一実の教えに帰せしめることにあったと窺うことができ、 本書の特徴としては全体に亘って、 聞信の一念に帰すべきことを勧めている点にあるといえるであろう。
 本書が後世へ及ぼした影響については、 本願寺第八代宗主蓮如上人の教義形成の一助となっていることが指摘できる。 たとえば、 獲信の縁由について、 「これ宿善のひとなり。 善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、 一念もうたがふこゝろのなきは、 これすなはち摂取の心光、 行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。 光明は智慧なり……仏智より信心はをこり、 信心より名号をとなふるなり」 と示す文がある。 この説示は、 蓮如上人が善知識だのみなどの誤った見解を是正するために立てた五重の義の淵源の一つと捉えることができる。 五重の義とは、 他力信心の由来を示した五種の因縁のことで、 宿善・善知識・光明・信心・名号をいい、 その五種の瞑目と順序は本書のそれと軌を一にしている。 その意味で本書は注目すべきものであり、 ¬口伝鈔¼ や ¬執持鈔¼ とともに蓮如上人の教学に影響を与えた書であるといえるであろう。