本書の著者は隆寛律師とされ、 宗祖は、 隆寛律師に対して深く敬慕の念を寄せられていた。 隆寛律師は久安四 (1148) 年、 少納言肥後守資隆の四男として誕生し、 幼少より比叡山で修学に励んでいる。 比叡山では伯父の皇円阿闍梨より天台宗を学び、 次いで阿闍梨の法兄にあたる範源法印に師事している。 その後、 建久三 (1192) 年に根本中堂における安居結願の導師を勤め、 元久三 (1205) 年には、 権律師に任ぜられている。
 隆寛律師と源空 (法然) 聖人との関係がいつ頃始まったものかは明らかではないが、 隆寛律師の弟子の信端が著した ¬明義進行集¼ によると、 元久元 (1204) 年三月十四日、 隆寛律師五十七歳の時、 源空聖人より ¬選択集¼ の伝授を受けていることから、 少なくともそれ以前であることが知られる。 また、 同年に出された 「七箇条制誡」 では、 聖覚法印とともに隆寛律師の名はみられないものの、 ¬明義進行集¼ によると、 源空聖人が自らの伝灯者として隆寛律師と聖覚法印との名を挙げられており、 二人は源空聖人のよき理解者であったことが窺われる。 建暦二 (1212) 年には、 隆寛律師は源空聖人の五七日の中陰法要で導師を勤めている。
 嘉禄三 (1227) 年、 天台の常照が ¬選択集¼ に対する論難書である ¬弾選択¼ を著すと、 対して隆寛律師は ¬顕選択¼ を著して反駁をなしたが、 これが天台衆徒の怒りを買うこととなった。 事態はついに嘉禄の法難という念仏弾圧事件へと発展し、 隆寛律師は八十歳という高齢ながら奥州へ流罪の身となった。 しかし、 ¬法然上人行状絵図¼ 巻四十四によると、 隆寛律師は、 護送人の森入道西阿 (毛利季光) によって相模国飯山にかくまわれ、 その地で示寂している。
 隆寛律師には、 本書をはじめとして多くの著作があるが、 本聖典には ¬一念多念分別事¼ 及び ¬後世物語聞書¼ (伝隆寛律師) を収録している。
 本書の内容は、 本文冒頭に 「念仏の行につきて自力・他力といふことあり」 とあるように、 自力の念仏と他力の念仏との相違を明らかにし、 その上で他力の念仏を勧めるものである。 まず自力の念仏とは、 身口意に悪事をなさず、 行いを慎んで念仏しようとするものであると示される。 しかし、 そのような念仏は修し難く、 できたとしても辺地にしか往生できず、 そこで本願に背いた罪をつぐなった後、 真実の浄土に往生できると示されている。
 次に他力の念仏とは、 我が身の罪悪の深いことを思い、 阿弥陀仏の本願を信じて二心なく念仏することであり、 そうすれば常に阿弥陀仏に護念されて、 命終の時には浄土に必ず往生せしめられると明かされている。 そして本文は 「おなじく念仏をしながら、 ひとへに自力をたのみたるは、 ゆゝしきひがごとにてさふらふなり」 と結ばれており、 凡夫が浄土に往生できるのは阿弥陀仏の本願力によるのであり、 念仏しながら自力をたのむということは、 まったく心得違いであると誡められている。
 ところで、 宗祖が関東の門弟達に与えられた御消息には、 「たゞ詮ずるところは、 ¬唯信鈔¼・¬後世物語¼・¬自力他力¼、 この御文どもをよくよくつねにみて、 その御こゝろにたがへずおはしますべし」 (¬親鸞聖人御消息集¼ 第十八通) 等とあり、 ¬唯信鈔¼・¬後世物語¼ 等とともに、 本書もまた繰り返し門弟達に書き写し与え、 拝読を勧められたことが窺われる。
 また、 本書には隆寛律師自筆本や、 宗祖真筆の書写本がなく、 現存する諸本には根本奥書がないことから、 撰述年代を確定することはできない。 ただし、 隆寛律師は安貞元 (1227) 年に示寂しており、 本書の成立はそれ以前である。
 なお、 本書は ¬真宗法要¼ には未収であるが、 ¬真宗法要¼ に数年先んじて編纂された、 僧鎔の ¬真宗法彙目録¼ においては、 「旁通部」 に収録されている。