本書は、 蓮如上人の生涯や行実を記して、 その遺徳を讃嘆するために撰述されたものである。 その遺徳を第三代覚如上人の ¬報恩講私記¼ に準じて、 「真宗再興の徳」 「在世の不思議」 「滅後の利益」 という三意で明らかにされている。 また全体を通して源空 (法然) 聖人の化現であり、 親鸞聖人の後身であるといった蓮如上人の奇瑞を織り交ぜつつ語られている。
先ず巻上では、 「しかるに寛正初暦の比より、 末代の劣機を鍳て、 経論章疏、 師資の銘釈を披閲して、 愚凡速生の肝府を摂取して数通の要文をつくり玉へり。 是末代の明灯なり。 偏に濁世の目足なり。 しかれば祖師聖人より以来、 一念帰命のことはりを勧といへども念持の義を教へず。 爰に先師上人この義を詳にして、 无智の凡類をして明かに難信金剛の真信を獲得せしむることを致す。 実に是れ先師上人の恩徳なり」 とあり、 蓮如上人が 「御文章」 を述作して難信金剛の真信を明らかにされたとして、 浄土真宗の再興の意義が述べられている。 次いで蓮如上人の行実が述べられ、 幼少期における聖母との離別、 吉崎での教化や山科本願寺の建立など概ね年代順で構成されている。 巻中では、 蓮如上人が親鸞聖人の再来として誕生されるとの未来記や、 西方権化の来現であることが示され、 永徳元 (1489) 年の隠居から大坂御坊の建立、 そして病床から往生に至るまでの奇瑞が語られる。 巻下では、 滅後の利益として蓮如上人示寂直後の葬儀や数々の奇特不思議、 あるいは夢想などを挙げて、 衰勢であった浄土真宗の教えを再興し、 遠国に至るまで教法を広めて利益を遐代にまで現したという権化としての蓮如上人を讃えている。 これらを構成する文言については、 ¬報恩講私記¼ などの親鸞聖人の伝記を参照していることや、 ¬蓮如上人御一期記¼ などの言行録諸本と関連していることが窺われる。
本書が一般に流布したのは、 保延七 (1679) 年に刊行されてからである。 以後、 多くの蓮如上人伝の原型となり、 その行実を伝える正統な書物として位置づけられた。 また、 明和二 (1765) 年に¬真宗法要¼ が刊行されて、 本書が蓮如上人の伝記として収録され、 さらに文化八 (1811) 年に ¬真宗仮名聖教¼ にも収められたことも、 本書がより一層流布する一因となったといえる。
著者・成立年代については、 奥書によれば、 大永四 (1524) 年から天文二 (1533) 年の間に制作され、 編纂過程において少なくとも三人の手が入っていることが窺われる。 まず 「此遺徳記、 本泉寺兼縁蓮悟所↠集、 其後実悟記↠之」 の文から、 蓮如上人の第七男である蓮悟が蓮如上人の言行を集め、 それを第十男である実悟が記録したものであることがわかる。 さらに続いて 「釈兼与 七十歳 先年…聊加↢添削書↢改之↡」 とあることから、 兼与という七十歳になる人物の添削を経て言行の形に成ったとされている。 すなわち、 大永四年に実悟が記述したものを天文二年に兼与が添削を加えて一応の完成を見たと考えられる。 この 「兼与」 を蓮悟の第三子の兼与実教であるとするならば、 蓮悟・実悟・実教という二俣本泉寺の三代にわたって著された書物といえる。
しかし、 この奥書の記述をそのまま受け入れることは難しい。 兼与実教は、 加賀一向一揆の内部抗争である享禄の錯乱で能登に逃れた後、 天文二年七月に二十六歳という若さで早世しているので、 添削を加えた 「兼与」 なる七十歳の人物像と実教とは合致しないことになる。 また奥書にある 「為↠消↢閑窓之徒然永日之懶睡↡」 等の言葉は、 老境を表すものであって、 二十六歳の若者の言葉とはみることはできないといえる。 そこで兼与を実教とする説は成立しえないことになり、 ¬増補真宗法要典拠¼ では、 天文二年は蓮如上人の第六男である兼誉蓮淳の七十歳の年にあたることから、 「兼与」 という記述は 「兼誉」 の誤記であるとした。 しかし、 この説の根拠が 「天文二年に七十歳という年齢に該当する」 という一点しかないため、 兼与を蓮淳とする説もいまだ 「兼与」 の人物像を決定づけるものとしては受け入れられておらず、 「兼与」 を比定する一つの可能性でしかないといえる。
また、 近年、 奥書の 「兼与」 が実教あるいは蓮淳に該当しないことや、 修辞を重ねた識語が実悟の著作としては異質であることなどから、 蓮悟撰・実悟記説を否定する見方もある。 すなわち、 その成立年代を蓮悟・実悟等の時代ではなく、 本書がはじめて刊行された延宝七年頃、 あるいはそれより少し遡る時期と推定している。
このように 「兼与」 の人物比定及び著者問題については、 いずれの説も決定的な証拠を有してはおらず、 定説を見るには至っていない。 しかし、 本書の辿った歴史をみると、 撰述したように江戸時代においては唯一の正統な蓮如上人伝であった。 これは、 その奥書に蓮悟撰・実悟記という旨が明記されていることから、 蓮如上人の実子らの著作であるという確固とした位置づけにあり、 それによって蓮如上人の行実を伝える書物としての一応の信憑性の高さが評価されたことに要因があるといえる。 すなわち、 刊行当時から奥書の記述がそのまま受け入れられたことによって、 本書の地位が高まったことや本書が蓮如上人伝の祖型として後世の蓮如上人伝の構築に多大な影響を与えたことは事実である。 その点において蓮悟・実悟・兼与の名が入った奥書は大きな意味を持つものであったといえる。