¬宋玄聞書¼ は、 単独の書物として書写が伝来されているものではなく、 ¬蓮如上人御自言¼ という二百二十三箇条にわたる言行録の一部を抄出し、 仮に 「宋玄聞書」 と名付けたものである。 ¬蓮如上人御自言¼ とは、 数度の書き継ぎによりなったもので、 五分割することができると考えられている。 すなわち、 第一項 (百三十五箇条) の終りには 「天正十二 八月三日 了勝判」 との奥書があり、 第二項 (百三十五箇条) に続いて、 第三項 (六箇条) の初めには 「蓮如上人御代之時之事去御方御物語少々書記之候」 と表し、 終りには 「天文十四之暦初冬仲旬之比去方ニ所持候ヲ写置之七ヶ条」 との奥書がある。 また、 第四項 (十四箇条) の初めには 「蓮如上人御往生之奇瑞条々 明応八年三月二十五日」 と表し、 終りには 「右已上十四箇条加州河北大田受徳寺栄公ヨリ恩借候テ令書写畢」 との奥書があって、 第五項 (三十三箇条) が記され、 最後に 「于時元禄第二暦 卯 弥生下旬候写之書也」 との奥書がある。 このうち、 第一項と第二項内の二百四十九箇条は、 先述の通り ¬蓮如上人一語記 (実悟旧記)¼ と共通し、 第三項は 「蓮如上人御若年砌之事」 の変形ともいわれる。
また、 本集成に収録したのは第四項と第五項とであり、 三十三箇条ある第五項が ¬栄玄聞書¼ である。 その内容は ¬一語記¼ などの言行録には見られないもので、 蓮如上人に関するものだけでなく、 第九代実如上人、 第十代証如上人にまで至っている。 第三十三条を除いて典拠が示され、 第二十八条までは受徳寺栄玄の記し置いたところで、 第二十九条が荒川興行寺蓮恵の聞書、 第三十条から第三十二条までが照台寺正勝の聞書によることが註記されている。 第四項の奥書にもその名が見える栄玄とは、 ¬大谷一流諸家系図¼ によれば、 第五代綽如上人の大三男である興行寺の玄眞の曾孫で加賀の受徳寺に住したといわれる。 また蓮恵は、 玄眞の子である祐慶の子孫で、 永禄十二 (1569) 年に示寂したとされ、 正勝とは照台寺系の系図にその名が見られず、 同音異字の 「性勝」 かといわれている。
また ¬蓮如上人御往生之奇瑞条々¼ は、 ¬栄玄聞書¼ と同じく ¬蓮如上人御自言¼ からの抜粋で、 先述の第四項にあたる十四箇条である。 内容は ¬空善聞書¼ ¬蓮如上人御一期記¼ ¬仰条々¼ などと関連する事項がみられる。 その奥書にこの十四箇条を栄玄から借りて書写したとあることから、 ¬奇瑞条々¼ の編者は栄玄と見られている。