本書は、 蓮如上人が著された数多くの 「御文章」 から、 特に真宗教義について肝要なものを選定して五帖八十通に編集されたものである。
実如上人は、 「御文章」 を伝道教化の中心に位置づけた。 そのことは、 ¬蓮如上人一語記 (実悟旧記)¼ に 「明応八 二月十八日、 さんばの浄賢所にて、 前住上人へ対し御申候。 御一流の肝要をば、 御文にくわしくあそばしとゞめられ候間、 今は申まぎらかす者もあるまじく候。 此分をよくよく御こゝろゑあり、 御門徒中へも仰付られ候へと御遺言の申候。 然ば前住上人の御安心も御文のごとく、 又諸国御門徒も、 御文のごとく信をゑられよとの支証のために、 御判なされ候」 とあるように蓮如上人の遺言によるものであり、 蓮如上人と門弟が 「御文章」 で明かされているような同じ安心に住するよう支証として署名・花押をおくとされる。 実如上人が証判をおいた 「御文章」 を勧化の中心に位置づけたのはこのためで、 今日でも各地には数通乃至十数通を収めた実如上人の証判本が伝えられており、 多数の証判本を門弟に付与されたことが知られる。 このように 「御文章」 に対する意義が大きくなったことから、 蓮如上人自筆の手控えや自筆のもの、 また各地方の門徒や講に授与・書写された 「御文章」 を寡集して厳選する必要性が生じたのであるが、 すでに蓮如上人の門弟である蓮崇や道宗によってその端緒は開かれていた。
こうして集められた二百数十通から特に肝要なものを選定して五帖八十通としたのであるが、 この選定については、 ¬栄玄聞書¼ には 「しかれば蓮如上人五帖の御文披遊候て、 実如上人へまいられ、 これに御判を居られて、 天下の尼入へ御免あられ候へ」 と蓮如上人自身の選定のように書かれ、 また江戸時代中期に成立した ¬紫雲殿由緒記¼ には大永元 (1521) 年に円如上人によって選定されたとある。 しかし、 実如上人のもとで本願寺の一大事業として編集作業が行われたことは、 五帖八十通の輯録・編集本と目されている新潟県本誓寺所蔵の 「十帖御文」 と呼ばれる実如上人証判本 (百十一通収録)、 大阪府真宗寺所蔵の実如上人証判本 (三十八通収録) など、 実如上人の証判本が各地に存在することによって窺われる。 しかも実如上人の五帖八十通の証判本が、 愛知県本證寺所蔵本や滋賀県広済寺所収本、 福井県天谷氏所蔵本の三本が五帖の完本として存在し、 それ以外にも、 取り交ぜではあるが実如上人の五帖本と考えられる本があることで明らかである。 またその内、 本證寺本の奥書には 「右此五帖之文者為/末代興隆令清書/此外者聊爾仁不可/免者也」 とあって、 文明本の 「正信偈和讃」 の奥書や聖教書写の識語を彷彿とさせることなどから、 この時に五帖八十通が完成したと考えられ、 その時期は永正八 (1511) 年の親鸞聖人二百五十回忌が想定されるなど新しい見解もある。
証如上人の時代になると、 本書の開版が行われた。 開版の事情に関しては、 先掲の ¬紫雲殿由緒記¼ 等には、 蓮淳の申請によって証如上人二十二歳の天文六 (1537) 年頃に完成をみたとされる。 しかし、 花押の形状からすると天文十年以降 (早くとも同七、 八年) の開版とみられる。 この開版本は、 親鸞聖人の著述や、 乗専、 存如上人、 蓮如上人などにみられる聖教書写の伝統を受け継ぎ、 実如上人五帖証判本と同じく 「御文章」 を聖教とみて、 片仮名交じり文で漢字に右仮名を付し拝読しやすいように分別書方を用いるところに特徴がある。
本書の構成は、 前四帖が年紀をもつ 「御文章」 を時代順に配し、 五城目には年紀を記していない比較的短い法語を載せている。 時代別にみると本願寺教団が飛躍的に拡大した吉崎時代のものが四十通と最も多く、 次いで吉崎退去直後の河内出口時代のものが七通、 またその後の山科本願寺時代のものが五通、 実如上人に法灯継承後の、 大坂房舎において著されたものが六通、 そして無年紀のものが二十二通となっている。
本書の内容は、 口称正因・十劫秘事・善知識だのみなどの当時の浄土異流や宗門内で盛んに行われていた異安心や異義などを排しつつ、 真宗の正義である信心正因・称名報恩、 平生業成を明らかにされ、 他力の信心の相を詳しく説かれている。 その他力回向の信心を 「後生たすけたまへと一心に弥陀をたのむ」 と表現され念持の義を明らかにされているが、 これは機法一体とともに蓮如上人の教学の特色を示すものである。