本鈔は、 覚如上人の撰述である。 覚如上人については ¬慕帰絵¼・¬最須敬重絵詞¼ を参照されたい。 「改邪鈔」 という題号の由来については、 奥書に 「右此抄者祖師本願寺聖人 親鸞/面授口決于先師大網如信法師之/正旨報土得生之最要也餘壮年/之往日恭従受三代 黒谷 本願寺/大網 伝持之血脈以降鎭所畜二尊/興説之目足也……爰近曽号祖/師御門葉之輩中構非師伝之今/案自義謬黷権化之清流恣/称当教自失誤他 云々 太不可然/不可不禁遏因茲為砕彼邪幢而/挑厥正灯録斯名曰改邪鈔而已」 とあるように、 まず、 覚如上人自身が ª源空-親鸞-如信º の三代伝持の血脈を相承し、 その正統な教旨を受け継いでいることを主張している。 そこには、 大谷本願寺を中心として真宗教団を統一していこうとする意図が窺われる。 この立場から、 宗祖の門弟の中に、 師伝とは異なる異義を主張して教えを乱す者があらわれたため、 邪義を砕破して正義を顕彰することを意図して本鈔を制作したことが記されている。
本鈔の内容は、 それらの邪義二十項目を挙げて批判したものである。 第一条では、 名帳に自身の名が記されることで往生が決定するとする者を批判し、 他力信心をもって往生が決定されることを述べている。 第二条では、 諸人の姿を描いた絵系図を、 礼拝の対象である本尊や、 教えを示した祖師・先徳の尊像と同列に扱って崇めることを批判している。 第三条では、 遁世の形にこだわって裳無衣や黒袈裟を用いることは祖意に反すると批判している。 第四条では、 弟子と称して同行を私物化し、 放言・悪口を浴びせること、 第五条では、 同行に対して落ち度を責めて過度に罰することを誡めている。 第六条では、 師弟の取り決めに背いたとして、 与えていた本尊・聖教を奪い取ること、 第七条では、 本尊や聖教の外題の下に、 願主の名をおろそかにして善知識の名を載せることを批判している。 第八条では、 自他の同行を区別し言い争うこと、 大九条では、 同行が従わなければ厳罰を受ける旨の起請文を書かせることを批判している。 第十条では、 在俗の身であるにもかかわらず法名を用いること、 第十一条では、 春秋の彼岸会を特別に念仏修行の時分として定めることを批判している。 第十二条では、 念仏者が集まるための道場を近隣に建立すること、 第十三条では、 「得分せよ」 という経論章疏に見られない語を頻りに用いることを批判している。 第十四条では、 わざと訛りを用いて声明や念仏することを誡められている。 第十五条では、 信心が正因であることをさしおいて称名念仏を往生の正因と思い込むこと、 第十六条では、 往生浄土の信心を沙汰せず没後葬礼を本として勧めることを批判し、 第十七条では、 因果の道理を否定することが真宗の教えであるかのように主張するものを批判している。 第十八条では、 善知識を阿弥陀仏に擬して善知識の居所を報土として崇めることを批判し、 第十九条では、 凡夫自力の三心を金剛心とみなし、 自力念仏を一向一心とみなして自力・他力の区別をたてないものを批判している。 第二十条では、 末弟が建てた草堂を本所と自称し、 宗祖の本廟である本願寺を軽んじて参詣を妨げることを批判している。
以上二十箇条の異義を大別すると、 寺院観、 門徒の行儀、 教義に関することなどに分けることができる。
本鈔について、 ¬慕帰絵¼ 第十巻第一段には、 「建武四年九月 日春秋六十八にして ¬改邪鈔¼ といふ一巻書をつくれるは、 末寺の名をつり当流に号をかる花夷のあひだ貴賎のたぐひ、 大底僻見に住して恣に放逸無慚の振舞を致し、 邪法張行の謳歌に就て外聞実義しかるべからず。 ことさら本寺として禁遏厳制のむね、 条々篇目をたてゝ是も口筆せらる」 とあり、 また ¬最須敬重絵詞¼ 第七巻第二十六段には、 ¬口伝鈔¼ に続いて 「又末流迷倒の邪路をふさがんがために条々規式を定られたる一巻の書あり、 ¬改邪鈔¼ といふ。 ともに和字なり。 この二部は小僧願主として望申せしゆへに、 口筆によりて短毫をそめき」 とある。 このように、 本鈔は当時の真宗教団内にあった邪義・異義に対する批判を述べた書と位置づけられる。 願主は ¬口伝鈔¼ と同じく門弟乗専で、 覚如上人の口述を乗専が筆記して制作された。
本鈔の成立については、 奥書に 「建武丁丑第四暦季商下旬/廿五日染翰訖不図相当/祖師聖人遷化之聖日是/知不違師資相承之直語/応敬可喜矣/釈宗昭 六十八」 とあり、 建武四 (1337) 年、 覚如上人六十八歳の時の著作と知られる。