本書は、 覚如上人の次男従覚上人の撰述である。 従覚上人は、 慈俊・慈法などと称し、 宗祖の御消息集である ¬末灯鈔¼ の編集をはじめ、 覚如上人口述の ¬最要鈔¼ を筆記するなど、 よく覚如上人を補佐した。
本書は、 十巻二十六段から成る覚如上人の伝記である。 第一巻第一段に 「さて慕帰と題する心は、 彼帰寂を恋るが故に、 此後素の名とし侍り」 とあるように、 「慕帰」 という題号は、 覚如上人の帰寂を慕うことに由来している。
本書各巻の内容は、 概略以下の通りである。
第一巻の第一段では、 浄土の教えに帰すべき旨と本書の造由、 覚如上人の出自について述べられている。 第一巻の第二段目以降、 第三巻の終わりまでは、 覚如上人の幼少期から青年期にかけての修学の様子がまとめられている。 八、 九歳で ¬倶舎論本頌¼ 三十巻を暗誦し、 慈信房澄海より天台の秘書 ¬初心抄¼ 五帖を付属され、 十三歳の時、 宰相法印宗澄のもとで天台を学んだ。 ところが、 十四歳の頃に、 覚如上人の垂髪の稚児ぶりを聞きつけた南瀧院浄珍に連れ去られた。 その後は、 一乗院前大僧正信昭の執心によってその室に入り寵愛を受け、 さらに信昭の後継となった僧正覚昭に給仕した。 しかし、 このような生活に満足できず、 次第に来生についての思いが萌していった。 十七歳で孝恩院三位僧正印覚により出家受戒し、 行寛法印に法相を学んだが、 いよいよ浄土欣求の思いが強まり、 十八歳の頃、 公安十 (1287) 年十一月十九日夜、 大谷で如信上人に他力法門の口伝を受け、 さらに正応元 (1288) 年冬、 上洛した河和田の唯円に法文の不審を質した。
第四巻では、 東国巡見の折、 慈信房善鸞と出会ったこと、 高田の顕智上人が宗祖と善鸞の密談を目撃したという逸話、 善鸞に対する証果などが記されている。 東国から帰洛した後は大谷へ入室した。
第五巻の第一段では、 唯善との間に起こった宿善に関する法論について述べられているが、 大谷廟堂継承に絡んで唯善と紛議した、 いわゆる唯善事件については記されていない。 第二段では、 宗祖の遺徳を讃仰して ¬報恩講私記¼ を著したことが、 第三段では、 若の素養が高く、 自作の若千首を収めた上下二帖二十巻にわたる大部の和歌集 ¬閑窓集¼ を撰集したことが記されている。
第六巻から第九巻は、 縁にふれ折にふれ詠んだ漢詩・和歌などの風雅の道に関する話題で占められている。 北野聖廟・みちのく松島・機執玉津嶋明神・南都春日社・大原勝林院・単語天橋立などの所々で詩歌を詠んだこと、 日野俊光や日野資名らと歌会に興じたこと、 従覚上人との贈答や返歌のやりとり、 孫の宗康による桜の立花と歌の応答、 孫の光長童子の初七日や西山久遠寺における亡き妻善照尼の墓参の際に詠んだことなど、 本書全体の中でも多くの紙数が詩歌について割かれており、 覚如上人の文人としての姿が強調されている。
第十巻の第一段では、 ¬口伝鈔¼・¬改邪鈔¼・¬願願抄¼・¬執持鈔¼・¬最要鈔¼・¬本願章¼・¬出世元意¼ などの撰述の経緯と、 門弟名が列挙される。 第二段では、 臨終から葬送にいたる有様と奇瑞に関することが述べられ、 本書が結ばれている。
なお、 本書と ¬最須敬重絵詞¼ は共に、 覚如上人の留守識就任、 大谷廟堂の寺院化、 存覚上人義絶については触れられておらず、 それらの記録は ¬存覚一期記¼ に詳しい。
本書の成立は、 第一巻第一段に 「于時観応二歳 辛卯 初冬十月日書記せり」 とあるように、 観応二 (1351) 年正月十九日に覚如上人が示寂して僅か九ヶ月後の同年十月三十日である。 また、 第十巻第一段によれば、 覚如上人の門弟である乗専の勧めによって著されたことが分かる。 なお、 本書の制作に当たっては、 存覚上人が関わっていたとも考えられている。
また、 本書の詞書は後に別行されていたことが、 ¬真宗法要¼・¬真宗仮名聖教¼ 所収 ¬慕帰絵詞¼ の奥書に、 「日来書留之本求失之間命綱厳大僧都令書写也/応安元年 戊申 六月二日記之/存覚御判」 「右於⊂⊃本部慈観之以真筆之本令書写処也/于時享徳四年七月十九日書写之訖/右筆蓮如 四十一歳」 とあることから窺える。 これによると、 詞書を存覚上人は書写して手許に置いていたが、 その写本が紛失したので、 応安元 (1368) 年六月二日に子の慈観上人 (綱厳) に命じて書写させた。 さらにこの慈観上人書写本を享徳四 (1455) 年七月十九日に蓮如上人が書写したという。 ただし、 慈観上人書写本及び蓮如上人書写本の現存は不明である。