本書の著者は道綽禅師である。 道綽禅師は、 道宣の ¬続高僧伝¼ や迦才の ¬浄土論¼ によれば、 北斉の武成帝の河清元 (562) 年、 州の汾水に生れ、 唐の太宗貞観十九 (645) 年に八十四歳で入寂している。 禅師は、 三武一宗の法難の一つである北宗の武帝による廃仏 (574) の翌年に、 北斉において十四歳で出家したものの、 三年後に北周によって滅ぼされ、 その廃仏が旧北斉の地までおよんで雌伏を余儀なくされたという。 さらに三年後、 隋によって北周は滅び、 仏教が復興されたので、 禅師は ¬涅槃経¼ の研究に従事して二十四遍におよぶ講説を行ったと伝える。 その後、 戒律と禅定を主とした実践教団を主催していた慧瓚に師事して、 出離解脱の実践の道を歩んだ。 迦才の ¬浄土論¼ によると、 大業五 (609) 年、 四十八歳の時に曇鸞大師の事蹟を記した碑文をみて浄土教に帰入して西方往生の道を歩み、 曇鸞大師が住んでいた石壁玄中寺に居を構え、 二百遍におよぶ ¬観経¼ の講義を行ったという。 その道綽禅師の七十歳前後の頃、 若い善導大師が門に連なっている。
道綽禅師の在世時代は、 南北朝末期の北斉・北周・陳の三国が鼎立する戦乱の時から、 随・唐によって中国統一が図られる時代であり、 そのなか北周の武帝による廃仏が徹底して行われ、 さらに虫害や旱害などの天災も多く、 当時隆盛していた末法思想を強く意識させるものがあった。 またこの頃、 末法思想を述べる経典が多く訳出されており、 そのなか ¬大集月蔵経¼ には、 破戒・無戒の僧が続出し、 仏滅後に次第に仏教が衰退していくことや、 国土の天災事変、 疫病の流行、 戦乱の悪化といった無秩序な社会の様子が具体的に述べられている。 このような時代を生きられた道綽禅師の教学には、 末法においては時機相応の法でないと出離解脱できないとする考えが強くあったといえよう。
本書の撰述年代は、 道綽禅師が四十八歳にして帰浄してから入寂までの間に、 ¬観経¼ を二百遍講じたとあるので、 この間のことと考えられる。 なお本書の内容について、 迦才は 「文義参雑、 章品混淆」 と言い内容上に未整理で混乱があると批判しており、 日本においても ¬安楽集正錯論¼ が著され、 そこでは道綽禅師滅後に遺文を纏めた門弟の粗雑な書とする説もあった。 しかし、 迦才の批判は浄土教に対する見解上の立場の相違であり、 門弟編集説についても根拠はなく、 現在では道綽禅師の著述とされる。
本書は 「今此観経」 と論じるように ¬観経¼ の要義を述べて、 安楽浄土への往生を勧めた勧信求往の書である。 上下二巻からなり、 上巻三大門、 下巻九大門の十二大門で構成されるが、 時機相応の教法の重要性が述べられ、 第三大門において、 仏教全体を聖道門と浄土門とに分判され、 末法には浄土の一門のみ通入すべき道であることを述べる。 この往生浄土の教えは、 聖道自力の教えを尊重しつつ立てたもので、 その際にも大乗仏教の基本的理念をふまえて論証している。 また念仏についても観仏と念仏の区別が明瞭でなく、 念仏三昧を主としながら観仏も含んでいたのも特徴の一つである。
本書は、 「正倉院文書」 によれば、 天平十四 (742) 年に早くも書写されていて、 その後は、 源信僧都の ¬往生要集¼ において本格的に依用され、 源隆国の ¬安養集¼、 永観の ¬往生拾因¼、 珍海の ¬決定往生集¼ 等に引用されている。 ついで、 源空上人の ¬選択集¼ において、 冒頭の二門章に本書の聖浄二門判が引用され、 浄土教独自の重要な意義を持たせている。