◎往生要集 下巻
【58】^大文第七に、 念仏の利益を明かすというのは、 大きく分けて七つある。 第一には
【59】^第一に滅罪生善とは、 ^¬*
一時の中を分けて少分とし、 その少分の中で、 よくしばらくの間でも仏の*
^また説かれている。
*
^また説かれている。
仏が、 *
^また説かれている。
老女が仏を見たてまつり、 *
^また説かれている。
もろもろの*
^また説かれている。
仏*
菩薩は、 また数千巨億万劫のあいだ、 愛欲の中にあって、 罪に覆われていても、 もし、 仏経を聞いて、 一遍でも善を念ずるならば、 その罪は、 すぐさま消え尽きるであろう。 以上の諸文は滅罪の文である。
もし善男・善女があって、 *
^すべての人々が縁覚となり たとい億数劫のあいだ
飲食・衣服やまた寝具
^もし一心に十指をくみ合わせ 心を専らにしてみずから一仏に帰依し
口にみずから 「南無仏」 と称えるならば この功徳の方が最上である
^たとい すべてのものがみな仏となって 聖の智慧は清浄第一となり
みな億劫を過ぎるまで 一偈の功徳を講説し
^入滅するまで その功徳をほめ
この三昧を説く一偈の功徳を 極め尽くすことはできない
^すべての仏国のあらゆる土地 八方および上下のうちに
満ちみちた珍宝を施し もって天中の天である仏に供養しても
^もしこの三昧を聞きうるものは その福徳を得ることが前の供養にまさる
安らかに
^一仏土を砕いて塵とし、 その一々の塵を取って、 また一仏土を塵にするように砕き、 この一塵を一仏土として、 それら多くの仏土の中に満ちている珍宝をもって諸仏に供養する。 これをもって比べるのである。 以上は生善の文である。
もし、 もろもろの人々の中で、 如来を念じて、 もろもろの
^¬観仏三昧経¼ に説かれている。
仏が阿難に告げたもう。 「われ*
【60】^第二に冥得護持とは、 ^¬*
*
^¬般舟三昧経¼ に説かれている。
劫が尽きて世界が壊れ焼ける時、 この三昧を
^¬般舟三昧経¼ の偈に、
^鬼神や*
ならびに*
^諸天は ことごとく共にその徳をほめ 天・人 竜神 *
諸仏もほめて願いのようにさせたもう 経を誦み説いて人のためにするからである
^国と国と相い戦って人民はすさび 飢饉がしきりにおこって苦しみが窮まっても
ついに その定まった
^いさましくもろもろの魔事を降伏し 心に畏れることなく 毛も
その功徳の行ははかることができぬ この三昧を行ずるものは このようになることができる
と説かれている。 ^¬*
*
【61】^第三に現身見仏とは、 ^¬*
仏が仰せられる。 「もし善男・善女が一行三昧に入ろうと思えば、 静かな処にあってすべての乱れ
衆生は障りが重く、 観察の行は成就しがたい。 そういうわけで*
^¬般舟三昧経¼ に説かれている。
「前に聞かなかった経巻を、 この菩薩がこの三昧を
^また ¬般舟三昧経¼ の偈に説かれている。
^阿弥陀仏国の菩薩たちが 百千の仏を見たてまつるように
この三昧を得た菩薩も そのように 百千の仏を見たてまつるであろう (中略)
^もし この三昧を
たとい命の終る時の大きな恐れにも この三昧を持てばおそれることはないであろう
^もしことごとく現在・未来および十方の すべての仏を見ようとおもい
あるいはまた妙なる法輪を転ずることを求めても また まずこの三昧を修め習え
^¬十二仏名経¼ の偈に説かれている。
^もし人がよく至心に 七日の間 仏のみ名を
浄らかな眼を得て よく無量の仏を見たてまつる
【62】^第四に当来勝利とは、 ^¬*
^もし如来のわずかな功徳を念じ さては一念の心ででも専ら仰ぎまつれば
もろもろの悪道の怖れはみな永く除き 智慧の眼はここによく深く悟る
^¬般舟三昧経¼ の偈に説かれている。
^その人はついに地獄に堕ちず 餓鬼道および畜生を離れ
世々の生まれる所で宿命を知る この三昧を学べば このようになることができる
^¬観仏三昧経¼ に説かれている。
もし人があって、 一たび上に述べたような仏身の功徳や相好や光明を聞くならば、 億々千劫のあいだ悪道に堕ちず、 よこしまな考えのけがれた所に生まれず、 常に正しい考えを得て、 勤めて止めないであろう。 ただ仏のみ名を聞いてさえ、 このような福徳を獲るのである。 まして念を繋けて観仏三昧するものは、 なおさらである。
¬*
^¬十二仏名経¼ の偈に、
^もし人が仏のみ名を
智慧があって
その華は千億の花びらで 尊い光の相が具わっている
と説かれている。 ^以上の諸文は、 永く悪趣を離れて浄土に往生することを明かすのである。
^¬観仏三昧経¼ に説かれている。
もし、 よく至心にして、 念が内に在り、 端座して心を静め、 仏の
このような念仏三昧は、 総じて一切の功徳を摂めていると知るべきである。 この故に、 かの*
^同じ経の第九巻に説かれている。
ただ、 よく耳にこの三昧の名を聞くならば、 たとい読まず、
^同じ経の偈に説かれている。
^もしもろもろの妙なる相を円満し 多くのすぐれた荘厳を具えようとおもい
また清浄の家に生まれることを求めるならば 必ず まずこの三昧を受け
^また、 ある経に説かれている。 (¬*
^もし仏の福徳を生ずる田に よくわずかの善を植えるならば
初めには善い境界に生まれ 後には必ず
仏を敬い
^¬宝積経¼ に説かれている。
もし、 人が如来のみもとにあって、 少しの善でも起こすならば、 苦の
^また説かれている。
もし菩薩が勝れた
^¬十二仏名経¼ の偈に説かれている。
^もし人が仏のみ名を
身の通力で虚空に遊び よく無辺の国に至って
^まのあたり諸仏を見たてまつり よく甚深の義を問うならば (中略)
仏は ために微妙な
^もし人が散り乱れた心のままに 塔廟の中に入り
一たびも南無仏と称えるならば みなすでに仏道を成ずる
^¬大悲経¼ の第三巻に説かれている。
仏が阿難に告げたもう。 「もし、 人があって、 仏のみ名を聞くならば、 わたしは ¬この人はついに必ず涅槃に入ることができる¼ と説くのである。」
^¬華厳経¼ の
一たび仏のみ名を聞くことを得るならば 必ず
^ただ、 名号を聞くだけでもこのような勝れた利益がある。 まして、 しばらくでも仏の相好・功徳を観念し、 あるいは、 また一華・一香を供養するものは、 いうまでもない。 まして一生のあいだに勤め修めた功徳はついに虚しくはならぬのである。
かくして、 仏法に
^むしろ地獄の苦を受けても 諸仏のみ名を聞くことを得よ
量りない楽を受けても 仏の名を聞かぬことがあってはならぬ
と説かれている。 ^以上の四項は諸仏を念ずる利益を総じて明かしたのである。 その中 ¬観仏三昧経¼ は釈迦仏を主とし、 ¬般舟三昧経¼ は多く*
^問う。 ¬観仏三昧経¼ に説かれている。
この人の心は、 仏心のとおりで、 仏と異なることはない。
仏が阿難に告げたもう。 「諸仏如来は、 これ*
^この意義はどうであるのか。
^答える。 ¬*
衆生の心に仏を観ずる時に当たって、 仏身の相好が衆生の心の中に現われるのである。 たとえば、 水が澄んでおれば、 物の形が現われ、 水とあらわれた形とは一でもなく、 また別のものでもないようなものである。 それだから仏の相好身が心想であると仰せられたのである。 ^「この心が作仏する」 というのは、 心がよく仏の相好身をそこに作り出すのである。 「この心がこれ仏である」 とは、 観ずる心の外に別の相好身はないのである。 たとえば、 火は木から現われて木を離れることはできない。 木を離れないから、 よく木を焼き、 木が火のために焼かれて、 そのまま火となるようなものである。
^また、 その他の解釈もあるが、 学ぶ者はさらに考えるがよい。
^わたくしにいう。 ¬大集経¼ の日蔵分に説かれている。
行者は、 次のような
^この文の意味は、 ¬観経¼ と同じである。 智光師の解釈も、 また違うことはない。
^問う。 心が仏を作ると知るならば、 どのような勝れた利益があるのか。
^答える。 もしこの道理を観ずるならば、 よく過去・現在・未来の三世の、 すべての仏法を
^¬華厳経¼ の
^もし人が三世一切の 仏を知ろうと望むなら
わが心がもろもろの如来を造ると このように観ずべきである
文明元年に、 都の人で、
【63】^第五に、 弥陀別益とは、 ^行者に、 その心を決定させるために、 特別に、 これを明かすのである。 滅罪生善と冥得護持と現身見仏と当来勝利とは、 次のとおりである。
^¬観経¼ の像想観に説かれている。
この観を成就するものは、 無量億劫という長い間の
^また説かれている。
ただ無量寿仏のみ名と*
^また説かれている。
ただ仏像を想うだけでも無量の福徳を得るのであるから、 ましてかの無量寿仏のまどかにそなえられた
たとい*
もし、 善男・善女で、 無量寿仏の*
^¬観経¼ に説かれている。
光明は、 あまねく十方世界を照らし、 念仏の衆生を修め取って捨てたまわない。
^また説かれている。
無量寿仏が無数の化身をあらわして、 観音・勢至の二菩薩と共においでになり、 つねにこの行者の所においでになる。
^¬*
清信士・清信女で、 この経を読み、 この経をひろめ、 この経を敬い、 この経を謗らず、 この経を信じ喜び、 この経を供養するものがあるとする。 ^このような人たちは、 この信じ敬った因縁で、 わたしが今日より常に、 前にのべた*
^唐土の諸師たちがいわれている。
二十五菩薩は、 阿弥陀仏を念じて往生を願う者を護りたもう。
これもまた、 かの ¬十往生経¼ の意に
^¬*
人々がわたしの名を聞いて、 身を地に投げて、 うやうやしく礼拝し、 喜び信じて菩薩の行にいそしむならば、 天・人ともに、 その行者を敬わぬものはないであろう。 そうでなければ、 わたしは決してさとりを開くまい。 以上は冥得護持である。
^¬大集経¼ の賢護分に説かれている。
善男・善女があって、 端坐して、
^¬観経¼ に説かれている。
眉間の白毫を観ずるならば、 八万四千の相好が自然に見られるであろう。 こうして、 無量寿仏を見たてまつるならば、 それはすなわち、 十方世界の無数の諸仏がたを見ることになる。 無数の諸仏がたを見るのであるから、 それによって諸仏がたは、 まのあたり成仏の記別を授けてくださるであろう。 これを ªあまねく一切の
十日十夜のあいだ一日に六度、 念を専らにし、 身を地に投げて、 かの阿弥陀仏を
仏が仰せられる。 「かならず斎戒を
^¬無量寿経¼ の偈に説かれている。
みなことごとくかの国に到らせ おのずから*
命の終ろうとする時に臨んで、 手をくみ合わせて合掌し 「*
命の終ろうとする時に臨んで、 地獄の猛火が一時にその人の前に押し寄せて来るが、 阿弥陀仏の*
命の終ろうとする時に臨んで、 臨終の苦しみにせめられて、 仏を念ずることができない。 そこで、 *
^¬無量寿経¼ の阿弥陀仏の本願にいわれている。
あらゆる世界の衆生が、 わたしの名を聞いて、 涅槃を得るに定まった身 (*
他方の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、 ただちに不退の位に到ることができないようなら、 決してさとりを開くまい。 (第四十七願)
^¬観経¼ に説かれている。
もし、 念仏するものがあるならば、 その人こそ、 まことに人々の中で白蓮華ともたたえられる尊い人であると知るがよい。 それゆえ、 観音・勢至の二菩薩は、 その人のために勝れた友となってくだされる。 そこで、 その人は、 諸仏の家である無量寿仏の浄土に生まれて、 かならず成仏するのである。 以上は将来の勝れた利益である。 その他は上の別時念仏門のとおりである。
【64】^第六に引例勧信とは、 ^¬観仏三昧経¼ の第三巻に、 仏が弟子たちに告げて仰せられる。
^また説かれている。
^¬観仏三昧経¼ の第七巻には、 *
その時、 釈迦世尊は、
^また説かれている。
あるとき十方世界の仏が、 釈迦如来の所に来て、 *
^また説かれている。
四仏世尊が空から降りて、 釈迦仏の床に坐り、 讃めて仰せられた。 「善いかな、 善いかな。 釈迦仏は、 よく未来の時の濁悪の人々のために、 三世の諸仏の白毫の光の相を説いて、 もろもろの人々の罪咎を滅ぼすことを得させられる。 ^どういういわれかというと、 わたしの昔を
^また説かれている。
^また説かれている。
仏が仰せられる。 「わたしは、 今の世 (*
「むかし、 過去久遠阿僧祇劫に、
^さて、 仏は迦葉に仰せられた。 「この昔の大精進とは、 今のわたくしのことである。 かの仏像を観じたことによって、 いま成仏することができたのである。 もし、 よくこのような観を学ぶ人があるならば、 未来には、 必ず無常仏果を成就するであろう。」
昔、 ひとりの比丘があった。 その母を済度しようと思ったが、 母は、 はやすでに命がつきていた。 そこでさとりの眼で、 天上界や人間界や、 畜生・餓鬼の中をさがし求めたけれども、 遂に母を見つけられなかった。 地獄を観ると、 その中に母が落ちている。 そこで、 もだえ悲しみ広く方法をめぐらして、 その苦しみを逃れさせたいと思った。 ^時に、 父を殺して国を奪った辺境の王があった。 比丘は、 この王の命は余すところ七日で、 その罪を受ける処が、 この比丘の母と同じ所であることを知ったので、 ものしずかな夜に、 王の寝所に到り、 壁に孔をあけて半身を現わした。 王は怖れて、 刀を抜いて頭を切り、 頭はすぐに地に落ちたが、 比丘はもとのとおりであった。 数辺も頭を切って、 仮現の頭は地に満ちたけれども、 比丘は少しも変わらない。 ^王の
善男子よ、 わたしは、 昔、 邪見の家に堕ち、 煩悩の網がみずからわたしを覆っていた。 わたしは、 そのとき、
^また、
^問う。 ¬観経¼ にある下下品の人と、 ¬観仏三昧経¼ の五百の仏弟子とは、 臨終に同じく念仏したのに、 一は昇り、 他は沈むとは、 どうして区別があるのか。
五百の仏弟子は、 ただ父の教えに依って、 一たび仏を念じたけれども、 菩提心を
【65】^第七に、 悪趣の利益を明かせば、 ^¬大悲経¼ の第二巻に説かれている。
もし、 また人があって、 ただ心に仏を念じ、 一たびも敬い信ずる心を起こすならば、 この人はまた
^問う。 それはどういう事であるか。
^答える。 ¬大悲経¼ の第三巻に、 仏が阿難に仰せられる。
むかし、 大商主があった。 多くの商人をひきいて、 大海に入ったとき、 その船はにわかに、
^また ¬菩薩処胎経¼ の八斎品に説かれている。
竜の子が、 *
^生物を殺すのは これ不善の行で
この身は朝の露のようで 光を見れば すぐに命が終る
^戒を持って仏語にしたがえば 長寿天に生まれることができる
永劫に福徳を積めば 畜生道に堕ちることはない
^わが身は竜の身を受けているが 戒徳を浄く
畜生道の中に堕ちてはいるが 必ずみずから免れ出よう
^この時、 竜の子が、 この偈を説いたときの他の竜の子や竜の女たちは心が開けたのである。 かくて寿命が尽きた後には、 みな阿弥陀仏の国に往生することになるであろう。 以上。 これは八斎戒を守っている竜の子である。
^その他の悪趣のものも、 仏語を信ずるならば、 浄土に生まれることは、 これに準ずる。 地獄における利益は、 前に引いた ¬比喩経¼ の国王の因縁、 ならびに下に出す粗心の妙果に明かすとおりである。
^またもろもろのその他の利益は、 下に明かす念仏の功徳のとおりである。
【66】^大文第八に念仏の証拠とは、
^問う。 すべての善業には、 それぞれ利益があり、 それぞれ往生することができるのに、 どういうわけで、 ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
^答える。 今、 念仏を勧めることは、 決して、 その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。 ただ男でも女でも、 身分の高いものでも、 低いものでも、 その行住座臥の区別なく、
^まして、 またもろもろの聖教の中には、 多く念仏を往生の業としている。 その文ははなはだ多いが、 略して十文を出そう。
もし人あって、 他方の現在の浄土に生まれようとおもうならば、 かの世界の仏の名号に随い、 意を専らにしてとなえるべきである。 一心不乱にして、 上のように観察するならば、 まちがいなく、 かの仏の浄土に生まれることができ、 善根が増長して速やかに不退の位に入るであろう。 ^ここに 「上のように観察する」 というのは、 地蔵菩薩の法身と諸仏の法身と自分自身とは、 その体性が平等であって、 二つなく、 生ぜず滅せず、 *
^二つには、 ¬無量寿経¼ の*
一向にもっぱら、 無量寿仏を念ぜよ。
^三つには、 四十八願 (大経) の中で、 念仏の法について、 特別に一願を
少なくとも十念して、 もし往生しなかったならば、 仏にはなるまい。
^四つには、 ¬観経¼ に説かれている。
極重の悪人は、 他の方法がない。 ただ弥陀の名号を称念して、 極楽往生を得るばかりである。
^五つには、 同じ経に説かれている。
もし
^六つには、 同じ経に説かれている。
光明は、 あまねく十方世界を照らし、 念仏の衆生を摂め取って捨てたまわない。
自分が積むような、 わずかな善根功徳の
^八つには、 ¬般舟三昧経¼ に説かれている。
阿弥陀仏が仰せられる。 「わが国に来生しようと思うならば、 わたしをたびたび念ずべきである。 常にもっぱら念じて、 やめてはならない。 このようにすれば、 わたしの国に来生することができよう。」
^九つには、 ¬鼓音声経¼ に説かれている。
もし、 僧俗男女があって、 よくまさしくかの阿弥陀仏の名号を
かの阿弥陀仏の浄土や仏・菩薩の功徳を観念することをもって往生の業とする。
^この中で、 ¬観経¼ の下下品と ¬阿弥陀経¼ と ¬鼓音声経¼ とは、 ただ名号を称念することを往生の業としている。 まして相好や功徳を観念することについてはいうまでもないことである。
^問う。 念仏以外の行には、 どうして信を勧めるの文がないのであろうか。
^答える。 その他の行法は、 かの法のいろいろの
^これらの文で、 はっきりとしている。 どうして重ねて疑問を生ずることがあろうか。
^問う。 諸経に説くところは、 それぞれの*
^答える。 *
また次に、 初めてこの法を学ぼうとする人で、 その心がおびえて弱く、 信心が成就することのできがたいのをおそれ、 退転しようとおもう者は、 如来にはすぐれた方法があって、 信心を護ってくださると知るがよい。 すなわち、 専心に仏を念ずる因縁によって、 願いのままに、 他方の仏土に往生することができるのである。 ^経に、 「もし人があって、 専ら西方の阿弥陀仏を念じ、 作った善業を回向して、 かの世界に生まれようと願い求めるならば、 すなわち往生することができると説いてあるとおりである。
^これで明らかに知られた。 経には多く念仏を往生の要としているのである。 もし、 そうでないならば、 人々の依りどころとなる*
【67】^大文第九に往生の諸行を明かすというのは、 すなわち極楽往生を求める者は、 必ずしも念仏を専らにするとは限らず、 その他の行をも明かして、 それぞれの望みに任す必要がある。 これをまた二つに分ける。 一つには個々別々に諸経の文を明かし、 次には総じて諸業を結ぶ。
【68】^一つに、 諸経を明かすならば、 ¬*
斎戒し、 一心清浄にして、 昼夜に常に念じて阿弥陀仏の国に生まれようと願い、 十日十夜の間、 絶えないようにすべきである。 わたしはみなこれを愍み、 ことごとく阿弥陀仏の国に往生させるであろう。 特に、 そうすることができなければ、 みずから思うて、 よくよく計るがよい。 ^この身を救い脱れようと思うならば、 浄土への念を絶ってはならない。 愛着を去って、 家の事を
わたしは今、 そなたのために説こう。 十種の往生法がある。 その十種の往生法とは何であるかというと、 ^一つには、 身を観じて正念に、 いつも歓喜の心をいだき、 飲食・衣服を仏および僧に供養するならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 ^二つには、 正念にすぐれた良い薬をもって、 一人の病気の比丘、 およびすべての衆生に施すならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 ^三つには、 正念に、 生物の命を一つもそこなわず、 すべてのものをあわれむならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 ^四つには、 正念に師匠のもとに従って戒を受け、 浄らかな心で仏道の行を修め、 心にいつも喜びをいだくならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 ^五つには、 正念に、 父母に孝行し、 師長に敬いつかえて、 憍慢の心を懐かないならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 ^六つには、 正念に、 僧房に参詣し、 塔寺を敬い、 法を聞いて一義を領解するならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 ^七つには、 正念に、 一日一夜のあいだ、 八斎戒をたもち、 一日一夜のあいだ
「仏がお説きになったとおり、 阿弥陀仏の功徳利益を願って、 もしよく十念相続し、 たえずかの阿弥陀仏を念ずる者は、 往生することができるということでありますが、 それはどのように念ずべきでありましょうか。」 仏が仰せられる。 「これにはおよそ十念がある。 その十とはどういうものか。 ^一つには、 すべて衆生に対し、 常に
^¬宝積経¼ の第九十二巻に、 仏は、 またこの十心で弥勒菩薩の問に答えられている。 その中の第六心にいう。
仏の一切智を求め、 すべての時に、 これを忘れない心。
その他の九種の心は、 その文は少し異なるけれども、 その意味は前の経に同じ。 ^ただ、 その結びの文にいわれている。
もし、 人があって、 この十種の心の中で、 どれか一つの心を成就してかの仏の世界に往生しようと願い、 もし生まれることができないというならば、 そんな道理はない。
これで見ると、 かならずしも十心をすべて具えて、 往生の業とするのではないことが、 明らかである。
^¬観経¼ に説かれている。
「かの極楽世界に生まれようと願うものは、 つぎの三種の福徳を積まねばならない。 一つには、 父母に孝養をつくし、 よく師匠や目上の人に仕え、 慈悲の心をもって殺生をせず、 十善の行を修める。 二つには*
^また説かれている。
*
^さて、 上品上生というのは、 このような人々の中で、 つぎの三種の行を修める人をいうのであって、 それらの人々は、 いずれもみな往生することができる。 その三種の行を修める人とは、 どのようなものかといえば、 一つには、 慈悲の心をもって殺生をせず、 よくいろいろの戒行を守るもの。 二つには、 大乗の経典を読誦するもの。 三つには、 *
^*
^*
^*
^*
^*
^下品上生というのは、 人々の中で、 さまざまの悪業をつくっているもので、 大乗の経典を謗るようなことはないが、 いろいろの悪をつくって、 少しも心に恥じることを知らない愚かな人たちである。 こういう人が命の終ろうとするとき、 いろいろな経典の題号のいわれを聞き、 さらに合掌して 「南無阿弥陀仏」 と称える。
^下品中生というのは、 人々の中で、 五戒や八戒や具足戒などのおきてを犯し破っているものである。 このような愚かな人がいよいよ命の終ろうとするときには、 地獄のさまざまの猛火が一時にその人の前に押し寄せて来る。 このとき、 たまたま善知識が、 哀れみの心から、 その人のために阿弥陀仏の十力の威徳を説き、 さらにひろく光明の不思議の力を説き、 また、 その戒・定・慧と解脱と解脱智見のすぐれた徳をほめたたえるのに遇う。 その人はこれを聞いて、 ただちに八十億劫という長い間の
^下品下生というのは、 人々の中で、 最も重い罪である五逆や十悪を作り、 その他、 悪という悪のすべてを犯しているものである。 こういう愚かな人は、 その悪業の報いで、 かならず悪道におちねばならない。 ところが、 こういう愚かな人が命の終ろうとするとき、 たまたま善知識に遇い、 心に仏を念ずることはできないけれども、 ただ
^¬無量寿経¼ の三輩の行業も、 また、 この ¬観経¼ の九品の外ではないのである。 ^また ¬観経¼ には、 十六観の法を往生の
^¬宝積経¼ には仏前の蓮華に化生するのに、 四つの因縁があることを説いている。 その偈にいう。
^花香を仏や塔廟にささげ 他のものを害せず また仏像を造り
大菩提を深く信解すれば 蓮華にすわって仏の前に生まれることができる
^その他は、 煩雑になるから、 ここには出さない。
【69】^第二に、 総じて諸業を結ぶというのは、 *
一つには、 観を修めて往生する。 十六観のようなものである。 二つには、 業を修めて往生する。 *
^今、 私見を出すと、 諸経に説かれている行業は、 総じて言うならば、 ¬*
^¬大集経¼ の月蔵分の偈に説かれている。
^樹の実が繁ると速く 自ら枯れるように 竹や芦が実を結ぶのもまたそのとおりである
驢馬がはらめば みずから身を
^比丘がもし供養を受けて 利養を求めて
世に これ以上の悪はなく かくて
^このように利養を貪る者は すでに道を得ても またふたたび失う
釈迦牟尼仏は、 多く供養を受けるから、 その教法ははやく滅ぶであろう。
^如来の上においてさえ、 このような次第であるから、 まして凡夫にあっては、 いうまでもないことである。 大きな象が窓から出ようとして、 ついに、 ただ一つの尾のために妨げられ、 行者が家を捨てても、 ついに、 名聞利養のために縛られるということがある。 そこで、 この迷いの世界から出離する最後の
【70】^大文第十に問答料簡というのは、 略して十となる。 第一には
【71】^第一に、 極楽の依正とは、
^問う。 阿弥陀仏とその極楽浄土は、 どういう仏身と、 どういう仏土とであるか。
^答える。 天台大師がいわれている。 (観経疏・意)
*
^慧遠法師がいわれている。 (大経諸 観経疏・意)
応身であり、 *
*
^問う。 かの阿弥陀仏は、 成道したもうてから、 もう久しい時間がたったのかどうか。
^答える。 諸経には、 多く十劫といい、 ¬大阿弥陀経¼ には十小劫といい、 ¬平等覚経¼ には十八劫といい、 ¬称讃浄土教¼ には十大劫という。 どれが正しいのか、 よく分らない。 けれども ¬無量寿経¼ の*
十八劫の 「八」 というのは、 考えてみると 「小」 の字の書き誤りで、 その中の点を欠いたものであろう。
^問う。 阿弥陀如来の未来の寿命はどれほどであるか。
^答える。 ¬阿弥陀経¼ に説かれている。
無量無辺、 阿僧祇劫である。
阿弥陀仏の寿命は、 無量百千億劫であるが、 その終極があるはずである。 仏が入滅したもうて後、 正法が世に住まることは仏の寿命と等しいであろう。 ^善男子よ、 この阿弥陀仏の正法が滅んで後、 夜中を過ぎて夜が明ける時、 観音菩薩は菩提樹の下でさとりをひらいて、
^問う。 ¬大乗同性経¼ には 「報身」 といい、 ¬観音授記経¼ には 「入滅する」 という。 この二経の相違を諸師は、 どのように矛盾なく解釈しているか。
^答える。 道綽禅師は ¬観音授記経¼ を解釈していわれている。
これは、 如来の報身が、
^迦才は ¬大乗同性経¼ を解釈していわれている。
浄土での成仏を報身と判定するのは、 *
^問う。 どちらを正しいとするのか。
^答える。 迦才がいわれる。
人々の修行には、 すでに千差があるから、 往生して仏土を見るにも、 また万別あるわけである。 もし、 このような解釈をするならば、 もろもろの経や論の中に、 あるいは報と判定したり、 あるいは化と判定したりしても、 みな妨げはない。 ただし、 諸仏の修行は、 具さに報と化の二土を感得するということを知るべきである。 ^¬摂大乗論¼ の釈に 「前方便の行 (加行) は化を感じ、 証を得るための正しき行 (正体) は報を感ずる」 というとおりである。 報であっても、 化であっても、 みな、 人々を救い遂げたいと思われるのである。 つまり仏土は
^この迦才の釈は善い。 専ら称念すべきであって、 苦労してかれこれと分別しないようにせよ。
^問う。 かの阿弥陀仏の相好は、 どうして同一でないのか。
^答える。 ¬観仏三昧経¼ に、 諸仏の相好を説いていわれている。
人間の相に同ずるために、 三十二相と説き、 もろもろの天人の相好に勝れていることを示すために八十好と説く。 もろもろの菩薩のためには八万四千のもろもろの妙なる相好と説くのである。
かの阿弥陀仏の相好の不同についても、 これに準じて知るべきである。
^問う。 ¬無量寿経¼ には、
かの仏の菩提樹は、 高さ四百万里である。
といい、 ¬宝積経¼ には、
菩提樹は高さ十六億由旬である。
といい、 ¬十往生経¼ には、
菩提樹の高さ四十万由旬で、 樹の下に獅子座があり、 その高さは五百由旬である。
といい、 ¬観経¼ には、
仏身の高さは、 六住万億那由他恒河沙由旬である。
などと説かれている。 菩提樹と仏座と仏身と、 どうしてつりあわないのか。
^答える。 いろいろな解釈があって不同である。 あるいは 「仏の境界は、 大小ともに互いに
^問う。 ¬華厳経¼ に 「*
^答える。 たとい恒河沙劫を経るまで、 蓮華が開けなかったとしても、 もはやわずかな苦もないのであるから、 どうして極楽でないことがあろうか。 ^¬無量寿経¼ に説かれているとおりである。
その*
^ある師がいう。
胎生とは、 中品と下品とである。
^ある師がいう。
胎生は、 九品には摂めないのである。
^このように異説があるけれども、 そのうける快楽には変わりがない。 ましてかの九品の経る日時を判定することについては、 諸師の説は不同であるから、 なおさらのことである。 懐感や智憬などの諸師が、 かの国土の日夜・劫数であると認める立場からいえば、 まことに疑問の起こるのは当然である。 しかし、 ある師が言う。
仏は、 この娑婆世界の日夜で、 これを説いて、 人々に知らしめたもうのである。
^いま、 私が考えるには、 この最後の解釈には
^一つには、 かの阿弥陀仏の実の高さが若干由旬であるというのは、 かの仏の指の長さをかさねて、 かの由旬としたのではない。 もし、 そうでないならば、 須弥山のように
^二つには、 ¬尊勝陀羅尼経¼ に説いてあるとおりである。
忉利天上の善住天子は、 空中の声に 「そなたは、 七日を過ぎると死ぬであろう」 と告げるのを聞いた。 その時、 帝釈天が、 仏のお指図をうけて、 かの天子に、 七日の間、 修行させたところ、 七日を過ぎて後に、 その寿命が延びることができたのである。 意味を取った。
^これは、 人間世界の日夜で説いたのである。 もし、 天上界の七日に依るならば、 人間世界では七百年に当るから、 釈迦仏が世におられた八十年の間では、 そのことが決定しないであろう。 九品の日夜も、 またこれと同様であろう。
^三つには、
胎生の人は、 五百年を過ぎて、 仏を見たてまつることができる。
¬平等覚経¼ に説かれている。
蓮華の中に化生して、 城の中にいる。 この娑婆での五百年の間は出ることができない。 意味を取った。
^憬興などの諸師は、 この文によって、 この娑婆世界の五百年であることを証している。 いま、 考えてみると、 かの胎生の年数を、 すでに、 この娑婆の年数によって説いてあるとするならば、 九品の時間は、 どういう特別の理由から、 かの胎生の場合と異なるとするのであろうか。
^四つには、 もし、 かの極楽世界の時間によって、 九品を説いたのであるとするならば、 上品中生の一夜、 上品下生の一日一夜は、 この娑婆世界の半劫と一劫に相当することになる。 もし、 そういう事を認めるならば、 胎生の疑心の者でさえも、 なお娑婆世界での五百年を経て、 速やかに仏を見たてまつることができるのに、 上品の信行の者が、 どうして、 半劫や一劫を過ぎて、 遅く蓮華が開けるのであろうか。 こういう道理があるから、 後の解釈は
^問う。 もし、 この娑婆世界の日夜の時間で、 かの九品の相を説いたのであるとするならば、 かの上上品の人は極楽国に生まれて、 ただちに無生法忍を悟るはずはない。 その理由は、 この娑婆世界でのわずかの間の修行を勝れたものとし、 かの極楽国での長い間の善根を劣ったものとするからである。 ^すでに、 そうであるとすると、 上上品の人は、 この世界にあって、 一日から七日に至るまで、 三福の業を具えても、 なお無生法忍を証ることができないのに、 どうして、 かの極楽国に生まれ、 法を聞いて、 ただちに悟ることができようか。 そこで、 かの国土の長い時間を経て無生法忍を悟るのであるということがわかるのである。 ^そうすると、 かの極楽国での立場からただちに悟ると名づけても、 この娑婆世界に対照してみると、 億千歳となるのである。 あるいは、 上上品の人は、 必ず方便位の最後心の行 (無生法忍の直前の位) の円満した者であるといってよかろう。 もしそうでなければ、 多くの文が矛盾するであろう。
^答える。 かの極楽国の多善は劣り、 この娑婆世界の少善が勝れているということは、 まだよくわからない。
^問う。 ¬無量寿経¼ に説いている。
この世において、 ひろく徳のもとを積んで、 恵みを施し、 戒めを犯さず、 よく耐え忍び、 努め励み、 心を静め、 智慧をみがき、 またそれを人にも教えて善根功徳を修めるがよい。 心を正しくして浄らかに斎戒を守ることが、 わずか一昼夜であっても、 それは無量寿仏の国で、 百年間善を修めるよりも、 一層まさるといえよう。 なぜなら、 かの国は無為自然の境界であって、 努めなくても、 おのずから多くの善根を積むことができ、 少しも悪のない所だからである。 また、 この世界で、 昼夜十日間善を修めたなら、 他方の諸仏の国で、 千年間善を修めたよりも、 さらにまさるといえよう。
^この文が、 その勝劣を示すのである。
^答える。 極楽と娑婆との二つの世界における善根は、 厳密に対照すれば、 そうでもあろう。 けれども、 仏に
仏の在世にあって信解するのは、 まだ勝れたものとするには足らぬ。 仏のなくなられた後の信解を勝れたものとするのである。
^あるいは、 その他の解釈もあるけれども、 これを詳しく述べることができない。
^問う。 娑婆世界における修行の
^答える。 だいたいは差別がないけれども、 細かい点では差別がある。 ^¬*
もし、 人があって、 香華・衣食などを供養しなければ、 かの浄土に生まれても、 香華・衣食などのいろいろの供養の報いを得ない。 この文は、 かの仏の因位の願に相違する。 さらに、 よく思い考えるべきである。
その実について論ずるならば、 また勝劣もある。 けれども、 その
^問う。 極楽世界は、 この娑婆世界を去ること、 どれほどの所であるか。
^答える。 ¬阿弥陀経¼ に説かれている。
これより西の方、 十万億の諸仏の国々を過ぎたところに、 極楽世界がある。
^ある経 (称讃浄土教) に説かれている。
これより西の方に、 この娑婆世界を去ること、 百千倶胝那由他の仏土を過ぎて、 仏の世界がある。 名づけて極楽という。
^問う。 この二経は、 どういうわけで異なるのか。
^答える。 ¬浄土論¼ についての智光の ¬疏¼ の意にいわれている。
倶胝とは、 漢訳して億とする。 那由他とは、 この国では
^この解釈によって思うべきである。
^問う。 かの阿弥陀仏が教化したもう場所は、 ただ極楽だけとするのか。 また、 その他にもあるとするのか。
^答える。 ¬大智度論¼ にいわれている。
阿弥陀仏にも、 また、 浄土と浄土でない国土とがあることは、 ちょうど釈迦牟尼仏の国土と同じである。
^問う。 いったい、 どれがそうなのか。
^答える。 極楽世界が、 いうまでもなく浄土である。 けれども、 阿弥陀仏の穢土が、 どこであるかは分らない。 ただし、 道綽禅師などの諸師は、 ¬鼓音声経¼ に説いてある国土を阿弥陀仏の穢土としている。 ^かの経に説かれているとおりである。
阿弥陀仏は声聞たちと一緒におられる。 その国を
^問う。 かの阿弥陀仏が教化したもう所は、 ただ極楽と清泰との二国だけであるのか。
^答える。 経典の文は、 それぞれの機縁にしたがって、 しばらく一端を挙げられているのにすぎない。 その実際の場合を論ずると不可思議である。 ^¬華厳経¼ の偈に説かれているとおりである。
^菩薩がもろもろの願界を修行せられるのは あまねく衆生の心の願いにしたがう
衆生の心は広くて
^また説かれている。
^如来は十方にあまねく出現せられ 一々の塵の中に無量の国がある
その中の世界もまた量りなく ことごとく無辺無尽の永劫に住みたもう
^問う。 如来が教化を施したもうことは、 ひとりで起こるものではなく、 かならず機縁に対するのである。 どうしてあまねく十方にゆきわたるのか。
^答える。 永劫に修行して、 無量の衆生を教化することを成就したもうから、 その機縁も、 また十方世界にゆきわたるのである。 ^¬華厳経¼ の偈に説かれているとおりである。
^その昔 勤修することが多劫であって よく衆生の重い障りを転ぜられた
それ故 よく身を分けて十方にあまねく ことごとく菩提樹の下に現われたもう
【72】^第二に、 往生の階位とは、
三地の菩薩が、 まさに浄土に生まれる。
それなのに、 今、 *
^答える。 浄土には差別がある。 それ故に
もろもろの経論の文に、 浄土に生まれることを説くのは、 それぞれ一義に
^また
三地の菩薩になって、 はじめて、 報身仏の浄土を見ることができる。
^問う。 たとい、 報土でないにしても、 煩悩悪業の重い者は、 どうして浄土に往生することができようか。
^答える。 天台大師がいわれている。
無量寿仏の国は、 果報がことにすぐれているけれども、 臨終の時に懴悔して念仏すると、 悪業の
^問う。 もし、 凡夫もまた往生することができると認めるならば、 ¬弥勒聞経¼ の文は、 どういうように、 さし障りなく解釈することができようか。 経の文に説かれている。
仏を念ずるのは、 凡愚の念ではない。 煩悩の念を
^答える。 ¬*
娑婆世界は苦であると知って、 永く煩悩に汚れた世界を離れようとするのは、 決して浅薄な凡夫の心ではない。 当来には仏となって、 その意は専ら広く、 あらゆる世界の衆生を済度しようとするのである。 このような
^この意味をいうと、 凡夫の行者でも、 このような徳を具えているというのである。
^問う。 かの国の人々は、 みな*
^答える。 いまいう不退転というのは、 必ずしも聖者の徳に限られたものではない。 ^¬西方要決¼ にいわれているとおりである。
いま不退を明かすと四種に分かれる。 ¬十住毘婆娑論¼ にいう。 ^一つには
^問う。 九品の階位には、 いろいろな解釈があって不同である。 ^慧遠法師のいうのでは、
上品上生は*四・五・六地であり、 上品中生は、 *初・二・三地であり、 上品下生は*初地以前の三十心である。
上品上生は十行・十回向であり、 上品中生は十解 (十住) であり、 上品下生は十信である。
上品上生は十回向であり、 上品中生は十解・十行であり、 上品下生は十信である。
といい、 ^ある師は、
上品上生は十住の初心であり、 上品中生は十信の後心であり、 上品下生は十信の初位である。
といい、 ^ある師は、
上品上生は十信、 およびそれ以前のよく*
^このように、 諸師の判定が不同である理由は、 無生法忍の位の取り方に不同があるからである。 すなわち ¬*
^中品の三生については、 慧遠は、
中品上生は*前三果であり、 中品中生は*七方便であり、 中品下生は*解脱分の善根を植えた人である。
といい、 力法師は、 この説と同じである。 ^基法師は、
中品上生は四善根位であり、 中品中生は三賢位であり、 中品下生は方便 (三賢・四善根位) 以前の人である。
といい、 ^ある師は、
次第のように、 *
といい、 ^ある師は、
三生はいずれも、 解脱分の善根を植えた人である。
といわれている。 ^以上の六品については、 また、 その他の解釈もある。 懐感禅師の ¬群疑論¼ や、 *
^下品の三生には、 特別の階位はない。 ただ煩悩にしばられた造悪の人である。
^これで、 往生する人には、 その位に限りがあるということが明白になった。 それでも、 どうしてこれがわれわれの分であるということが知られようか。
^答える。 上品の人は、 その階位がたとい高くても、 下品の三生は、 どうして、 われわれの分でないことがあろうか。 ましてかの後の解釈では、 すでに、 十信以前の凡夫を指して、 上品の三生としているのだから、 なおさらのことである。 ^また、 善導禅師の ¬*
^問う。 もし、 そうであるならば、 かの極楽浄土に生まれても、 早く無生法忍を悟ることはできないであろう。
^答える。 天台の教義では、 無生法忍の位に二つがある。 もし、 別教の人であるならば、 永劫に修行して、 無生法忍を悟るのである。 もし、 円経の人であるならば、 たとい悪趣の身であっても、 次第を超えて、 ただちに
^問う。 上品生の人の得益の早さは、 一定してそうなのであるか。
^答える。 経文の中では、 しばらく一類を挙げたにすぎない。 ^それ故に慧遠和尚の ¬*
九品の人が、 かの浄土に生まれてから、 利益を得るまでの劫数は、 その勝れたものに依って説いてある。 道理として、 また、 これに過ぎる者もあるべきである。 意味を取った。
^いま考えてみるに
^問う。 ¬無量寿経¼ の中にも、 また*
^答える。 かの極楽浄土に生まれて、 始めて無生法忍を悟ることの前後・遅速について、 これを 「勝れたものに依って」 といったのである。 かの上位の菩薩を論じたわけでは決してない。 しかも、 かの大菩薩を九品の中に摂めるか、 摂めないかについては、 改めて考えるべきである。
^問う。 もし、 凡下の輩も、 また往生することができるならば、 どうして、 近頃かの浄土の往生を求めるものは千万人であるのに、 往生を得るものが一、 二人もないのであるか。
^答える。 道綽和尚がいわれている。
信心が深くない。 あるときは存し、 あるときはないからである。 信心が一つでない。 信が決定しないからである。 信心が相続しない。 他の念がまじるからである。 この三つが相応しなければ往生することはできない。 もしこの三心を具えて、 往生しないというならば、 そういう道理のあるはずがない。
^善導和尚がいわれている。
もし、 よく上に述べたように、 命終るまで念仏を相続するものは、 十人は十人ながら往生し、 百人は百人ながら往生する。 もし念仏を専修することを捨てて、 自力の雑業を修める者は、 百人の中で希に一、 二人が往生を得、 千人の中で、 希に三、 五人が往生を得るにとどまる。 「上に述べたように」 というのは、 礼拝・讃嘆などの*
^問う。 もし必ず命終るまでというならば、 どうして懐感和尚が 「長時も短時も、 多修も少修も、 みな往生することができる」 というのであるか。
^答える。 機類は同一でないから、 善導と懐感との二師の説は、 ともに
この世界 (*
^この経によって考えると、 極楽浄土に生まれることは難しいのではないだろうか。
^答える。 ¬群疑論¼ には、 前に引いた善導大師の文を引いて、 この問題を解釈し、 また懐感自身が善導の文を助釈して述べられてある。
この ¬菩薩処胎経¼ の次の文に 「なぜかというに、 みな*
^問う。 たとい三心を具えなくても、 また命終るまで相続しなくても、 一たびも名を聞いただけで、 なお成仏することができるというではないか。 まして、 しばらくでも称念することは、 どうして無駄になるであろうか。
^答える。 一応は無駄なようにみえても、 結局はそらごとではないのである。 ^¬華厳経¼ の偈に、 経を聞いた者が、 生を変えた時の利益を説いていうとおりである。
^もし経を聞くに堪えたものがあれば 大海に在っても
劫末の大火の中に在っても 必ずこの経を聞くことができる 「大海」 というのは、 竜のいる海である。
^¬華厳経¼ の釈にいわれている。
その他の業によるからかの難処に生まれ、 前の信 (前生の聞経) によるから、 この ¬華厳経¼ を聞きうる根器と成るのである。
^¬華厳経¼ を信ずる者であっても、 すでにこのような利益がある。 念仏を信ずる者に、 どうして、 この利益のないことがあろうか。 かの一生涯に悪業を作ったものでも、 臨終に善知識に遇い、 わずかに十たび念仏して、 ただちに往生することができる。 このような人たちは、 多くは前世に浄土を欣い求めて、 かの阿弥陀仏を念じていた者で、 その宿善が内に熟して、 いま開発したのに外ならぬ。
^それ故に ¬十疑論¼ にいわれている。
臨終に、 善知識に遇うて、 十念が成就する者は、 みな宿善が強いので、 始めて善知識に遇うことができて、 十念が成就するのである。
^懐感師の
^問う。 下品下生の往生が、 もし宿善に依るならば、 十念往生の本願は、 名だけあってその実は無いのであろうか。
^答える。 たとい宿善があっても、 もし十念することがないならば、 かならず*
【73】^第三に、 往生の多少とは、
^¬無量寿経¼ に説かれている。
世尊が弥勒菩薩に仰せられる。
「この世界に、 六十七億の不退の菩薩がいて、 かの国に生まれるであろう。 それらの菩薩は、 みな今までに、 無数の諸仏を供養したものであって、 その位は、 弥勒よ、 おんみとあい等しい。 そのほか、 行の劣った菩薩たちや、 わずかな功徳を修めた人々は、 数えきれぬほどいるが、 いずれもみなかの国に往生するであろう。 ^他方の仏土からも、 また同様に、 多くの人々がかの浄土に往生するのである。
^このもろもろの仏土の中に、 いま娑婆世界でわずかな善を修めて往生することになっているものがある。 われわれは、 いま幸いにも釈尊の遺されたみ法に遇いたてまつり、 億劫の時に、 一たびわずかな善で往生するというなかまに入れていただいたのであるから、 つとめて行ずべきである。 時を失ってはならぬ。
^問う。 もしわずかな善根でも、 また往生することができるならば、 どうして ¬阿弥陀経¼ に、
わずかな善根功徳の因縁では、 とてもかの国に生まれることはできない。
と説かれているのか。
^答える。 これには、 いろいろ異なった解釈があるけれども、 多く出すことはできない。 いま私見を述べると、 大小は一定したものではなく、 相対して名づけられるものである。 大菩薩と対すれば、 わずかな善と名づけられようけれども、 輪廻の業に対すれば大善根とするのである。 こういうわけであるから、 二経 (大教・小経) の意味は
【74】^第四に尋常の念相を明かすと、 これには多くの種類があるが、 大きくわけて四つとする。 ^一つには定業、 すなわち、 坐禅し入定して仏を観ずるのである。 ^二つには散業、 すなわち、 行住座臥に散乱の心で念仏するのである。 ^三つには有相業、 すなわち、 あるいは仏の相好を観じ、 あるいは仏の名号を念じて、 ひとえに穢土を厭い、 専ら浄土を求めるのである。 ^四つには無相業、 すなわち、 仏を称念し、 浄土を欣い求めても、 身も国土もその究極は空であって、 幻のようであり、 夢のようである、 本体に即して空であり、 空であってしかも有であり、 有でもなく空でもないと観じ、 この無二に通達して、 真に第一義にさとり入るのである。 これを無相業と名づける。 これが最上の三昧である。 ^それ故、 ¬無量寿経¼ に、 阿弥陀仏が仰せられる。
ひたすら浄土を求めて かならずかような国を成就しよう
^また ¬止観¼ の常行三昧の中に、 三段の文がある。 詳しくは、 すでに別時念仏門の尋常別行の中に引いたとおりである。
^問う。 定・散の念仏は、 ともに往生するのか。
^答える。 ねんごろな心で念ずるならば、 往生しないということはない。 ^それゆえ懐感師は念仏の差別を説いていわれる。
あるいは深く、 あるいは浅く、 定にも通じ、 散にも通ずる。 定は凡夫から始めて十地に終る。
^問う。 有相と無相との業は、 ともに往生することができるのか。
^答える。 道綽和尚がいわれている。
もし学び始めの者は、 まだ相を離れることができないから、 ただよく相によって専ら行ずるならば、 往生することは疑いをまたない。
^また懐感和尚がいわれている。
往生にも、 すでに品位の種類に差別があるから、 修めるところの因にもまた浅深があって格別である。 ただ無所得 (無相) を修するものだけが往生することができて、 有所得 (有相) の心では往生することができぬとはいえないのである。
^問う。 もしそうであるならば、 どうして ¬仏蔵経¼ に、
もし比丘があって、 他の比丘に 「そなたは仏を念じ、 法を念じ、 僧を念じ、 戒を念じ、 施を念じ、 天を念じなさい。 このように思惟して、 涅槃の安楽寂滅であるのを観じ、 ただ涅槃が究極して清浄であるのを愛しなさい」 と教えるものがあるとする。 このように教える者を ª
と説き、 ^また、
むしろ、 五逆罪のような重い悪事をそなえても、 我見・衆生見・寿見・命見・陰入界見などをそなえてはいけない。 以上。 抜き書きした。
といわれてあるのか。
^答える。 懐感師が解釈していわれる。
ある聖教にはまた 「むしろ、 我見を起こすことが須弥山のようであっても、 空見を芥子粒ほども起こしてはならぬ」 といわれてある。 このようなもろもろの大乗の経典に、 有を叱り、 空を叱り、 大乗を讃め、 小乗を讃めたりしてあるのは、 みないずれも機類に応じて異なるのである。 ^また、 ある経に説かれている。 「いま阿弥陀如来は、 つぶさにこのような三十二相八十随形好があって、 その身色光明は融けた黄金の
^また ¬観仏三昧経¼ に説かれている。 「如来には、 また法身・十力・四無所畏・三昧・解脱、 もろもろの神通のことがある。 このような
^それ故に、 学び始めの人々は、 仏の色身を観じ、 学ぶことの進んだ人は、 法身を念ずるのであるということが知られる。 そこで 「このようにして、 次第に空三昧を得るであろう」 というのである。 ぜひとも、 よく経文の意味を解釈して、 むやみに謗ったりする心を起こしてはならぬ。 こうして、 仏は巧みに
^問う。 念仏の行は九品の中において、 いずれの品に摂められるか。
^答える。 もしいろいろな経論に説かれてあるとおりに行じたなら、 道理として上品上生に当たる。 このように勝劣にしたがって九品を分けるべきである。 ところが、 ¬観経¼ に説かれた九品の行業は、 一端を示されただけで、 その実は無量である。
^問う。 もし、 定・散の行はいずれでも往生することができるというならば、 また現身で定・散いずれの行でも仏を見たてまつることができるとするのか。
^答える。 経や論などには、 多く三昧 (定) が成就して、 そこで仏を見たてまつることができると説いてあるから、 散業では見たてまつることができないということは、 明らかに知られる。 ただ特別の因縁のあるものは、 この限りではない。
^問う。 有相の観と無相の観とは、 いずれも仏を見たてまつることができるのか。
^答える。 無相の観で、 仏を見たてまつることは、 その道理を疑うことはできぬ。 有相の観でも、 あるいはまた仏を見たてまつる。 故に ¬観経¼ などには仏の色相を観ずることを勧めてある。
^問う。 もし、 有相の観も、 また仏を見たてまつるというならば、 どうして、 ¬華厳経¼ の偈に、
^凡夫があらゆる
法の無相をさとらないから それゆえ仏を見られないのである
^見るということがあれば煩悩である これではほんとうに見るのではない
すべての見るということを離れて そうしてはじめて仏を見たてまつる
といい、 ^また、
^すべての
このように
といい、 ^¬金剛般若経¼ には、
^もし色相の上から わたしを見 音声の上から わたしを求めるならば
この人は邪道を行ずるもので 如来を見たてまつることはできない
といってあるのか。
^答える。 ¬西方要決¼ にこれを解釈していわれている。
仏の説かれた教えはその義にいろいろの別がある。 それぞれ時節と根機とに応じて説きたもうので、 実は等しくて異なるところはない。 ¬般若経¼ は、 それはそれで一理のあるものであり、 ^¬阿弥陀経¼ なども、 また一理がある。 何故ならば、 一切の諸仏には、 みな三身がましますのであって、 法身仏には
^問う。 凡夫の行者は、 勤めて修習しても、 その心が純浄ではない。 どうして、 たやすく仏を見たてまつることができようか。
^答える。 いろいろの因縁が合して、 仏を見たてまつるのである。 ただ自力だけではないのである。 ¬般舟三昧経¼ に三つの因縁がある。 前の九十日の行の所 (別時念仏門の尋常別行) で引いた ¬摩訶止観¼ の文のとおりである。
^問う。 どれほどの因縁によって、 かの極楽浄土に往生することができるのか。
^答える。 経に依って考えてみると、 四つの因縁を具えている。 一つには、 自身の善根の因力であり、 二つには、 自身の浄土を願い求める因力であり、 三つには、 阿弥陀仏の本願の縁であり、 四つには、 多くの聖衆がたが助け護念したもう縁である。 釈迦仏が護念し、 助けてくださるのは ¬平等覚経¼ に出ており、 六方諸仏の護念は ¬阿弥陀経¼ に出ており、 山海慧菩薩などの護持は ¬十往生経¼ に出ている。
【75】^第五に、 臨終の念相を明かすと、
^問う。 下品下生の人も、 臨終に十念して、 ただちに浄土に往生することができるとある。 その十念とは、 どのような念であるのか。
^答える。 道綽和尚がいわれている。 (安楽集)
ただ阿弥陀仏を憶念して、 仏の全体のお
一心に 「南無阿弥陀仏」 と称え、 この六字を経る間を一念と名づけるのである。
^問う。 ¬弥勒問経¼ に説いてある十念往生は、 その一々の念は深広である。 それにどうして、 いま十声念仏して往生することができるというのであるか。
^答える。 諸師の解釈は同一でない。 ^義寂法師がいわれている。
これは、 専心に、 仏のみ名を称える時、 自然に、 このような十念を具足すると説くのである。 なにも、 一々格別に慈心などを
^また十念を具足して、 南無阿弥陀仏と称えるがよいというのは、 よく、 慈心などの十念を具足して、 南無仏と称えることをいうのである。 もしよくこのようであるならば、 称念するにしたがって、 一称でも多生でもみな往生することができるのである。
^懐感法師がいわれている。
それぞれ仏の教えであって、 いずれも浄土に往生する法門を説くのであるから、 みな、 浄土往生の業を成就するのである。 どういうわけで、
^迦才師がいわれている。
この十念は平生の時に
この意味は懐感師と同じである。
^問う。 ¬無量寿経¼ に説かれている。
少なくとも一念すれば、 往生することができる。
これと十念往生とは、 どうして矛盾するのか。
^答える。 懐感師がいわれる。
極めて重い悪業を作った者は、 十念を満たして往生することができるが、 その他の者は、 わずか一念でもまた往生するのである。
^問う。 生まれてからこのかたもろもろの悪業を作って一善も修めぬ者が、 命終の時に臨んで、 わずかに十声の念仏をしただけで、 どうしてよく罪を滅して、 永く迷いの三界を離れ、 ただちに浄土に生まれることができようか。
^答える。 ¬*
時に
^そこで、 那先比丘は、 弥蘭王に問う。 「もし人が、 小石を持って、 水の中に置くならば、 石は浮かぶでしょうか、 沈むでしょうか。」 王がいう。 「石は沈むに決まっている。」 比丘がいう。 「もし、 百丈の大きな石をもって、 船の上に置いたならば、 石は沈むでしょうか、 どうでしょう。」 王がいう。 「沈みはしない。」 ^比丘がいう。 「船の中の百丈の大きな石は、 船の力に
^十念の念仏で、 多くの罪を滅し、 阿弥陀仏の大悲の願船に乗って、 たちまちのあいだに往生することができるのも、 その道理はまたこのようなものである。
^また ¬十疑論¼ に解釈していわれている。
^いま、 三種の道理によって比べはかってみると、 罪の軽重は一定せず、 時間の長い短い、 多い少ないには依らないものである。 三種とは何か。 一つには心にあり、 二つには縁にあり、 三つにはその時の心の決定にある。
^心にあるというのは、 罪を造る時は、 みずからの虚妄の間違った心より生ずるが、 念仏する心は、 善知識が阿弥陀仏の真実功徳の名号を説くのを聞いた心より生ずるのである。 一は虚仮であり、 一は真実である。 どうして比べることができようか。 ^譬えていえば、 万年の暗室に、 日の光がしばらくでも入れば、 闇はただちに除かれるようなものである。 ながい間の闇だからといっても、 どうして
^縁にあるというのは、 罪を造るときには、 虚妄の愚かな心が、 虚妄の対象を所縁とする顛倒の心から生ずるが、 念仏する心は、 仏の清浄真実の功徳の名号を聞いて、 無上菩提を所縁とする心から生ずる。 一は真実で、 一は虚偽である。 どうして比べることができようか。 ^たとえば、 人があって、 毒の矢にあてられたとする。 その矢は深く、 毒は激しく、 肌を傷つけ骨に到るほどであっても、 一たび*
^決定にあるというのは、 罪を造る時は、 いろいろの間雑する心、 まだ後があるというゆっくりした考えであるが、 臨終に念仏する時は、 専念の心、 もはや後がないという考えであって、 ついに命を捨てる時まで、 善心は
^また ¬安楽集¼ には七つの喩で、 この意義を顕わしている。
^一つには、 わずかな火の喩。 これは前に述べたとおりである。 ^二つには、 いざりでも船に乗れば、 風に帆かけて走る勢いによって、 一日で千里の遠きに至る。 ^三つには、 貧しい人がある珍しい宝物を得て、 それを王に献上したところ、 王は喜ばれて重く賞せられ、 しばらくの間に富貴が望みどおりになる。 ^四つには、 劣夫が、 もし天輪聖王の
^いまこれに加えていう。 一つには、
^問う。 臨終の心念はどれほどの力があって、 よくこのような大事を成しとげるのであるか。
^答える。 その力は百年の行業よりも勝れている。 ^故に ¬大経¼ にいう。
この心は、 時間は少ないけれども、 心力の猛くてするどいことは火のようであり、 毒のようであるから、 少ないけれども、 よく大事を成しとげるのである。 今にも死にそうな時の心は、 決定して勇健であって、 百年間の行業よりも勝れている。 ^この最後の心を大心と名づけるのである。 自分の身体およびいろいろの感覚を捨てることが急だからである。 ちょうど戦陣に臨んで、 身命を惜しまぬ人を、
^これによって、 ¬安楽集¼ にいわれている。
すべての衆生は、 臨終の時には、 刀のように鋭い風が、 その身体を解き、 死の苦しみが迫って来て、 大きな怖れを生ずる。 (中略) そこで往生を得る。
^問う。 深い観念の力が罪を滅することは、 そのとおりであろう。 しかし仏の名号を称えて、 どうして無量の罪を滅するのであるか。 もしそうであれば、 指をもって月を指すような場合、 この指がよく闇を破らねばならぬではないか
^答える。 道綽和尚が、 これを解釈していわれる。
すべての
^¬西方要決¼ にいわれている。
諸仏は願と行とをもって、 この
^問う。 もし、 五逆罪を造った下下品のものも、 十たび念仏することによって往生することができるというならば、 どうして、 ¬仏蔵経¼ の第三巻に、 次のように説かれているのか。
^このように、 十万億年の間、 頭についた火を払うように励んだけれども、 それでも、 罪を滅しないで、 またもや地獄に生まれたというのである。 どうして一声や十声の念仏で、 ただちに罪を滅して浄土に往生することができようか。
^答える。 懐感師が解釈していわれる。
念仏には五つの縁があるから、 罪を滅するのである。 ^一つには、 大乗の心を
^問う。 もし、 そうであるならば、 どうして ¬無量寿経¼ に、 十念往生を説いて、
ただ五逆の罪を犯し、 正法を謗るものだけは除かれる。
というのであるか。
もし、 ただ五逆だけを造った者は、 十念によるから、 往生することができるけれども、 もし、 五逆罪を造った上に、 また正法を謗った者は、 往生することができないのである。
^ある師がいわれる。
五逆の不定業を造ったものは、 往生することができるけれども、 五逆の定業を造ったものは、 往生することができない。
^このようにして、 十五家の解釈がある。 ところで懐感法師は、 それら諸師の解釈を用いないで、 みずから、 こういっている。
もし、 五逆罪を造らない人は、 念仏の多少を論ずることなく、 一声でも十声でも、 ともに浄土に生まれることができる。 もし、 五逆罪を造った人は、 必ず十声を満たすべきである。 一声でも欠けたなら往生できない。 それ故に 「除く」 というのである。
^いま試みに解釈を加えるならば、 他のところでは、 あまねく往生の種類を顕わしているけれども、 本願では、 ただ決定して往生する人だけを挙げている。 それ故に、 「そうでなければ、 決してさとりを開くまい」 といわれてある。 ^五逆罪を犯さぬ人の十念は決定して往生することができるが、 五逆罪を犯した人の一念は、 決定して往生することができない。 五逆罪を犯したものの十念と、 そうでない人の一念とは、 みな不定である。 それ故に本願には、 ただ五逆罪を犯さぬ人の十念を挙げ、 他のところでは、 かねて五逆罪を犯した人の十念と、 犯さない人の一念とを取り扱っているのである。 この義はまだ決定したものではない。 別に考えるべきである。
^問う。 五逆罪を犯した人の十念は、 どういうわけで不定であるのか。
^答える。 宿善の有無によって、 念力が別だからである。 また、 臨終と尋常 (平生) との念ずる時が別だからである。
^問う。 五逆罪というのは、 次の生に報いを受ける業 (順生業) である。 その報と時とは、 ともに定まっている。 どうして、 この罪を滅することができようか。
^答える。 懐感師が、 これを解釈していわれる。
九部 (小乗) の不了教の中には、 もろもろの業因の果報を信じない凡夫のために、 奥深い思召しをもって、 「定まった報いの業がある」 と説いているが、 もろもろの大乗の了義教の中では、 「一切の業は、 ことごとくみな不定である」 と説いてある。 ^¬涅槃経¼ の第十八巻に解かれているとおりである。 *
^問う。 いま引いた紋の中に、 「智慧のある人は、 重い業を転じて軽い報を受ける」 というが、 下品生の人はただ十念しおわって、 すぐさま浄土に生まれるのであるから、 どこで、 軽い報を受けるのか。
^答える。 ¬無量寿経¼ に、 かの極楽浄土の胎生の者を説いていわれる。
五百年のあいだ、 仏・法・僧の三宝に値うことができず、 諸仏を供養して、 もろもろの善根を修めることができぬ。 それだけが苦とせられるので、 ほかの楽しみはあるけれども、 かの宮殿に居たいとは思わないのである。
^この経文に準じてみると、 七七日 (四十九日)・六劫・十二劫のあいだ、 仏を見たてまつらず、 法を聞かないなどのことを、 軽く受ける苦しみとすることが知られる。
^問う。 もし臨終に、 一たび仏の名を念ずると、 よく八十億劫の多くの罪を滅するというならば、 平生の念仏の行者も、 またそうあるべきなのか。
^答える。 臨終の時の心は、 力が強いから、 よく無量の罪を滅するけれども、 平生にみ名を称えたのでは、 臨終のようにならないであろう。 けれども、 もし観念が成就すれば、 また無量の罪を滅するであろう。 もし、 ただ名を称えるだけならば、 その心の浅深にしたがって、 その利益を得ることは差別があるであろう。 くわしくは、 前の念仏利益門に述べたとおりである。
^問う。 浅い心の念仏でも、 また利益があるということは、 どうして知ることができるのか。
すぐれた薬があって滅除と名づける。 もし、
^菩薩でさえも、 すでにそうである。 まして仏の場合はなおさらのことである。 み名を聞くことでさえも、 すでにそうである。 まして念ずる場合はなおさらのことである。 浅い心で念じても、 その利益はまた空しくないということを知るべきである。
【76】^第六に、 粗心の妙果というのは、
^問う。 もし菩提を得るために、 仏に対して善根をなすならば、 妙果を
^答える。 あるいは煩悩に汚れていても、 あるいは浄らかであっても、 仏に対して善根を修めるならば、 速い遅いはあっても、 必ず涅槃に至るのである。 ^それ故に ¬大悲経¼ の第三巻に、 仏が阿難に告げて仰せられる。
もし人々があって、
^問う。 作った業は、 その願いにしたがって果を受ける。 どうして、 この世間の
^答える。 業によって果をえる道理は必ずしも同一であるとは限らない。 もろもろの善業を仏果にふりむけると、 これはそのなした行業が心にしたがって仏果を得るための因となる。 鶏や犬のまねをする業で、 天上の楽を願い求めるのは、 これは悪見であるから、 天上界に生まれる因とはならないのである。 こういうわけで、 仏に対して、 もろもろの善業を修めるならば、
たとえば長者が時節に依って種を良い田の中におろして、 時節にしたがって潅漑し、 常によく世話をし、 もし、 この長者がほかの時に、 かの田の所に到って 「おい、 種子よ。 おまえは種となってはいけない。 生えてはいけない。 おおきくなってはいけない」 と、 このように言ったとしよう。 それでも、 かの種子は必ず実を結ぶので、 決して果実ができないのではないようなものである。 意味をとって抜き書きした。
^問う。 そういう人は、 いつになったら、
^答える。 たとい、 久しい時にわたって、 生死に輪廻するとしても、 その善根は亡びないで、 必ず
仏が阿難に告げたもう。 「漁師が、 魚を取ろうとして、 大きな池で、 釣り針に餌をつけて、 魚に食わせる場合、 魚が食いおわると、 池の中にいても、 やがては引き上げられて出るようなものである。 (中略) ^阿難よ、 すべての人々が諸仏の
^問う。 この ¬大悲経¼ の意のとおりであれば、 敬信することによって遂に
^もしもろもろの人々があって まだ菩提心を発さなくても
一たび仏のみ名を聞くことができるならば 必ず
と説かれてあるのか。
^答える。 あらゆる
^問う。 汚れた心で如来を縁ずる者も、 また利益があるだろうか。
^答える。 ¬宝積経¼ の第八巻に、
耆婆医王が、 もろもろの薬を合わせ集め、 薬草を取って、 童子の形を作った。 その姿は端正でうるわしく、 世にも稀なものである。 その動作は安らかで、 あらゆるものはととのい、 たぐいなくすぐれたものであった。 その
^法身を奉行する菩薩の場合でさえ、 なおこのようである。 まして法身を証り得られた仏の場合にあっては、 なおさらのことである。
^問う。 愛欲の想で縁じても、 この利益があるように、 謗ったり憎み厭うても、 また利益があるのか。
^答える。 すでに、 愛欲と怒りと
むしろ如来に向かって、 悪業を起こしても、 外道や邪見の者の所に供養を施すことがあってはならぬ。 なぜかというと、 もし如来の
^問う。 この文は因果の道理に
^答える。 悪い心があるから三悪道に堕ち、 一たび如来を縁ずるから、 必ず涅槃に至る。 こういうわけで因果の道理には
かの人々は、 地獄に堕ちる時、 仏に対して信を生じ、 後悔の心を生ずる。 これによって後には必ず
^このように汚れた心で如来を縁ずる利益でさえ、 かくも大きいのである。 まして浄らかな心で一たび念じ、 一たび称える場合はなおさらである。 仏の大恩徳は、 これでわかるであろう。
^問う。 もろもろの経文などに説く菩提涅槃は、 三乗の中にあっては、 どういう果であるか。
^答える。 初めには、 機類にしたがって、 それぞれ三乗の果を得るけれども、 ついには必ず無上の仏果に至るのである。 ^¬法華経¼ に説かれているとおりである。
^十方の仏土の中には ただ一乗の
二もなく また三もない 仏が
^また ¬涅槃経¼ には、 如来の決定の説の
一切衆生にはことごとく仏性がある。 如来は常住であって変わることがない。
^また説かれている。
一切衆生は、 かならず無上の仏果を得るのであるから、 わたしは、 一切衆生にはことごとく仏性があると説くのである。
^また説かれている。
一切衆生には、 ことごとくみな心がある。 およそ心がある者は、 かならず無上仏果を成就することができるのである。
^問う。 どういうわけで、 もろもろの経文などに説くことが同じでなく、 あるいは一たび仏のみなを聞くならば、 かならず菩提を成就すると説いたり、 あるいは頭についた火を払うように勤めよと説いたり、 ^また ¬華厳経¼ の偈には、
^人が他人の宝を数えても 自分には半銭の分け前もないように
と説かれているのか。
^答える。 もし、 速やかに
【77】^第七に、 諸行の勝劣というのは、
^問う。 往生の業の中では、 念仏を最勝とするが、 その他の行業の中にあっても、 また最勝とするのか。
^答える。 その他の行業の中にあっても、 これはまた最勝である。 ^それ故 ¬観仏三昧経¼ には六種の
仏が阿難に告げたもう。 「たとえば、 長者が、 まもなく死のうとするとき、 多くの蔵をその子に委ねた。 その子は、 これを得てから、 思いのままに遊び戯れた。 突然ある時、 国の乱れに
^第二にいわれている。
たとえば、 貧しい人が王の宝印を盗み、 逃走して樹の上に登った。 多くの兵が、 これを追うたところ、 貧しい人はそれを見て、 すぐに宝印を呑みこんだ。 兵たちは早くも追いついて、 その樹を倒してしまった。 貧しい人は地に落ちて身体は
^第三にいわれている。
たとえば、 長者がまもなく死のうとするとき、 ひとり娘に、 「わたしには、 いま宝の中の最もすぐれた宝がある。 そなたは、 この宝を受けたら、 堅く密蔵して、 王に知られてはならない」 と告げた。 ^娘は、 父の言葉を受けて、 *
^第四にいわれている。
たとえば、 はげしい
^第五にいわれている。
たとえば力士が、 しばしば王法を犯して、 牢屋に幽閉せられたが、 逃げ出して海辺に至り、
^第六にいわれている。
たとえば、 この劫が尽きるときには、 大地は燃え尽きるけれども、 ただ金剛山だけは砕かれることなく、 やはり本のままに
^また ¬般舟三昧経¼ の問事品に、 念仏三昧を説いていわれる。
常にこれを
^また不退転の位に至るには、 *
世間の
阿弥陀などの仏たち および多くの大菩薩たちの
み名を称えて一心を念ずれば また不退転を得る
^この ¬十住毘婆娑論¼ の文の中には、 過去と現在の百余の仏と、
^また ¬宝積経¼ の第九十二巻に説かれている。
もし菩薩があって、 多くさまざまの行をつとめ、 七宝の塔を造って、 あまねく三千大千世界に満たしても、 このような菩薩は、 わたしを喜ばせることはできぬ。 また、 わたしを供養し恭敬するのでもない。 もし菩薩があって、 波羅蜜に相応した法を、 すくなくとも四句の一偈でも受け
^¬大集経¼ 月蔵分の偈に説かれている。
^もし人が百億の諸仏の
もしよく七日のあいだ閑静な処に居て 身心を摂めて禅定を得る福徳は彼よりも多い (中略)
^閑静無為は仏の境界である かしこにおいて よく浄い
もし人がかの禅定に住する者を謗るならば もろもろの如来を謗ると名づける
^もし人が塔を壊すこと幾百年 また百千の寺を焼いたとしても
もし禅定に住する者を謗るならば その罪ははなはだ多くて彼よりもまさる
^もし禅定に住する者に 飲食・衣服および湯薬を供養するならば
この人は無量の罪を消滅し また三悪道に堕ちることもない
^この故私は今あまねくそなたたちに告げる 仏道を成就しようと思うなら常に禅定に住せよ
もし閑静な処に住むことができないならば 禅定に住する者を供養するがよい
^一般の禅定でさえも、 すでにこのような功徳がある。 まして念仏三昧は三昧 (禅定) の王であるから、 なおさらのことである。
^問う。 もし、 禅定の行が、 経を読誦したり仏法の義理を了解するなどよりも勝れているなのならば、 どうして ¬法華経¼ の分別功徳品に、 八十億那由他劫の間に修めたところの前の五波羅蜜 (布施・持戒・忍辱・精進・禅定) の功徳を、 ¬法華経¼ を聞いて一念に信じ
^答える。 これらの諸行には、 それぞれ浅深がある。 すなわち、 *
【78】^第八に信・毀の因縁というのは、 ^¬般舟三昧経¼ に説かれている。
般舟三昧を聞くことは深い因縁によるもので、 ただ一仏の
^問う。 もしそうであるならば、 聞く者はかならず信ずるはずである。 どういうわけで、 聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。
^答える。 ¬平等覚経¼ に説かれている。
善男・善女があって、 無量清浄仏のみ名を聞いて、 喜び踊り、 身の毛がよだって抜けるように思う人は、 みなことごとく過去世にすでに仏道を修めているものである。 もしまた人があって、 仏を疑って信じないものは、 みな悪道から来て、 その罪がまだ尽きないもので、 なおまだ解脱を得ることができないのである。 抜き書きした。
^また ¬大集経¼ の第七巻 (第六巻) に説かれている。
もし衆生があって、 すでに無量無辺の仏の所において、 もろもろの徳本を植えたものは、 この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。 (中略) 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。 たとい聞くことができたとしても、 まだ必ずしも信ずることはできないのである。
^これによってわかるであろう。 生死の因縁は不可思議なものである。 功徳が少ないものでありながら、 聞くことができるのは、 そのわけを知ることが難しい。 沢山の黒豆の中に、 一粒の青豆があるようなものである。 そういう人が聞いても、 信じ領解しないのは、 功徳が少ないからである。
^問う。 仏は昔つぶさにもろもろの菩薩の行を修めたもうたが、 八万年に及んでも、 この
^答える。 この義は、 なかなか難しいが、 試みにこれを考えてみよう。 だいたい衆生の善悪については、 四種の位の別がある。 ^一つには、 悪のはたらきが
*
^二つには、 善のはたらきが偏に増す。 この位にあっては、 常に仏法を聞くのである。 十地や十住以上の大菩薩などのようなものである。
^三つには、 善と悪とが入りまじる。 すなわち、 凡夫を捨て離れて聖者に入ろうとする時である。 この位の中には、 一類の人があって、 法を聞くことははなはだ難しいが、 たまたま聞くことができると、 すぐさま悟るのである。
^四つには、 善と悪とがゆるやかである。 この位の善悪は、 同じく生死流転の
^ところで、 この義は、 まだ決定したものではないから、 後の賢い方々は取捨していただきたい。
^問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。
もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗りこぼつ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。
^問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。
^答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。
^¬無量寿経¼ に説かれているとおりである。
もし、 人々の中で、 疑いの心を持ちながら、 いろいろの功徳を修めて、 かの国に生まれたいと願い、 仏智、 思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、 はかり知られぬ智慧、 すべての者を救う智慧、 ならびなくすぐれた智慧を知らず、 いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、 しかもなお罪の報を恐れ、 おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、 それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、 ^これらの人は、 かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、 五百年のあいだ、 少しも仏を拝むことができず、 教法を聞くことができず、 菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。 それゆえ、 これをたとえて胎生というのである。
^仏の智慧を疑うのは、 悪道に堕ちる罪に相当する。 けれども、 その願いにしたがって往生するというのは、 仏の大悲の願力によるのである。 ^¬平等覚経¼ には、 この胎生を中輩や下輩の人としている。 しかしながら諸師の解釈については、 詳しく述べることはできない。
^問う。 「仏智」 などというのは、 その
^答える。 憬興師は、 ¬*
【79】^第九に助道の資縁というのは、
^問う。 凡夫の行者は、 必ず衣食を用いる。 これは、 小さな資縁ではあるけれども、 よく大事をととのえるものである。 衣食に事欠いて不安であれば、 仏道修行もどこにあろうか。
^答える。 行者には二種がある。 すなわち、 *
たとえば、 比丘で、 貪り求める者は供養を受けられず、 貪り求めない者は、 欠けることのないようなものである。 心もまたこのとおりである。 もし分別して相に執われるならば、 実の宝を得ることはできない。
^また ¬大集経¼ の月蔵分の中に、 欲界の第六天、 日月星宿・天竜八部などが、 それぞれ仏の前で次のような誓願を発していう。
もし、 仏の声聞の弟子で、 法にもとづき、 法にしたがい、 三業がこれにかなって修行するならば、 わたくしたちはみな共に護り育て、 その必要な物をさしあげ、 欠乏しないようにいたしましょう。 もしまた世尊の声聞の弟子で貪り蓄えない者を護り育てましょう。
^また説かれている。
もし、 また世尊の声聞の弟子で、 貪り蓄え、 そして三業が法と相応しないような者は、 またこれを棄てましょう。 また養育いたしません。
^問う。 凡夫は、 いつも三業が相応するとは限らない。 もし欠けることがあるならば、 よるべがないであろう。
^答える。 そのような問難は、 懈怠で道心のない者のすることである。 もし本当に菩提を求め、 心から浄土を欣うものは、 たとい身命を捨てても、 どうして禁戒を破るであろうか。 この世の勤めを果たして永劫の妙果を期すべきである。 ましてまた、 たとい戒を破っても、 その人に分け前がないのではないから、 なおさらである。 ^同じ経 (大集経) に、 仏が仰せられるとおりである。
「もし衆生の中で、 わたしの法を聞いて出家し、 髪を剃り、 袈裟を着けるものがあれば、 たとい戒を
^そのとき、 また一切の天・竜をはじめ一切の*
^また説かれている。
その時に世尊は、 首座の弥勒菩薩、 および今の世 (賢劫) の一切の菩薩がたに次のように告げて仰せられた。 「もろもろの善男子よ。 わたしが昔、 菩薩の道を修行していた時に、 過去の諸仏がたに対して、 このような供養をしたてまつった。 この善根で、 わたしのための仏果の
^破戒の者でさえも、 このような利益を受ける。 まして持戒の者はなおさらである。 声聞でさえも、 このとおりである。 まして、 大菩提心を発して、 まごころから念仏するものの利益は、 いうまでもないことである。
^問う。 もし破戒の人も、 また天・竜のために護念せられるならば、 どうして ¬梵網経¼ には、
五千の鬼神が、 破戒の比丘のいた跡を払い浄める。
と説かれ、 ¬涅槃経¼ には、
国王・群臣、 および持戒の比丘は、 破戒の者をねんごろに取締り、 追いやって責めるべきである。
と説かれているのか。
^答える。 もし道理にかなってねんごろに取締るならば、 仏の教えに
国王・群臣は、 出家した者の大きな罪業、 すなわち、 大殺生・大偸盗・大邪婬・大妄語、 およびその他の不善をなした者を見るならば、 このようなものを、 ただ
^問う。 人間が追い出し、 取締るという差別は、 そのとおりであろう。 天・竜などの非人がどうするかについては、 なおまだ明らかではない。 すなわち ¬梵網経¼ には、 ひたすらその跡を払い浄めるとあり、 ¬*
^答える。 罪悪と福徳との旨趣を知るためには、 人間がどのようにするかについての決定が必要なのである。 人間以外の天・竜八部などのいわゆる非人がどうするかを必ずしも決定する必要はない。 あるいは止めるのも許すのも、 それぞれに大きな利益を生ずるのである。 あるいはまた、 人の
^問う。 ちなみに言う。 かの戒を犯した出家の人を供養したり悩ますならば、 どれほどの罪、 あるいは福を得るのであるか。
^恒河の沙の数ほどの仏の
この人に対して悪心を起こすならば かならず無間地獄に堕ちるであろう 袈裟のことを 「解脱幢相の衣」 というのである。
^¬大集経¼ の月蔵分に説かれている。
もし、 かの人を悩ますならば、 その罪は、 万億の仏身から血を出す罪よりも重い。 もし、 この人を供養するならば、 やはり無量無数の大きな福徳を得る。 意味を取った。
^問う。 もし、 そうであるならば、 ひたすらこの人を供養すべきであろう。 どうして、 この人を取締って、 大きな罪の報を招いてよかろうか。
^答える。 もし、 その力がありながら、 破戒の者を、 ねんごろに取締らないならば、 その人もまた
法を
^また説かれている。
もし比丘が、 たとい禁戒を
^これによって、 あるいは過ぎてもあるいは及ばなくても、 みな仏の仰せに相違するということが明らかに知られたのである。 その間の
【80】^第十に助道の人法というのは、 略して三つある。
^一つには明師で、 内心・外相についての
また雨が降ると、 山の頂には
^二つには、 けわしい道を共に
善知識は、 大因縁である。
^また言われている。
阿難が 「善知識は半分の因縁であります」 というと、 仏は 「そうではない。 全分の因縁である」 と仰せられた。
^三つには、 念仏と相応する聖教の文を常に受け
^この三昧を説く経は真の仏の
^たとい往き求めて聞くことができなくても その功徳の福は尽きることがなく
よくその徳義を量ることはできない まして聞きおわって すぐに受け持つ者はなおさらである
と説かれている。 「遠方」 というのは、 四十里・四百里・四千里などのことである。
^問う。 どういう聖教の文が念仏に相応しているのか。
^答える。 前に引いた西方極楽の証拠の文のごときは、 みなその文である。 ^けれども、 正しく西方浄土に往生するための観行、 ならびに九品の行果を明かすことは ¬観無量寿経¼ 一巻。 畺良耶舎の訳 には及ばない。 ^阿弥陀仏の本願、 ならびに極楽のくわしい
^問う。 行者は自分でかのいろいろな聖教の文を学べばよい。 どういうわけで、 いまわずらわしくこの ¬往生要集¼ を著作したのであるか。
^答える。 序文でいっておいたではないか。 わたくしのようなものは、 多くの聖教の文を
^問う。 ¬大集経¼ に説かれている。
あるいは経文に抜き出し写すのに、 文字を抜かし、 あるいは他の法を損ない壊し、 あるいは、 他の経を覆いかくす。 こういう悪業の縁で、 いま
ところで、 いま経や論を抜き書きする際、 あるいは多くの文を省略したり、 あるいは前後の順序を乱している。 これは生まれながらの盲目になる因であろう。 どうして、 みずから
^答える。 印度・中国の論師や人師たちが、 経論の文を引用する時、 多くは省略して意味だけを取っている。 それ故に、 経文の旨を
^問う。 引かれたそのままの文は、 誠に信を生ずべきである。 ただ、 しばしば私の
^答える。 そのままの文ではないけれども、 決して道理は失われていない。 もし、 それでもまだ
^¬華厳経¼ の偈に説かれている。
^もし菩薩の いろいろの行を修めるのを見て
善心または不善心を起こしても 菩薩はみな摂めとるであろう
^これによって、 そしりを生ずるのもまた結縁になることが知られる。 わたしがもし
^問う。 ちなみにいう。 長い間、 筆を染めて、 身心をわずらわしたことである。 その功は無いとはいえないが、 どういうことを期しているのか。
^答える。
^このもろもろの功徳によって 願わくは 命終の時に
阿弥陀仏のはかりなき 功徳のおん身を見たてまつらんことを
^わたくしおよびその他の信者たちはともに かの仏を見たてまつりおわり
願わくは煩悩を離れた智慧の眼を得て 無上菩提を
往生要集 下巻
【81】^永観二年 冬十一月、 天台山 延暦寺 首楞厳院でこの文を撰び集め、 明くる年の夏四月に、 その功を終えたのである。 ある僧の夢に、 毘沙門天が髪をあげまきに結った二人の童子を
^すでに 聖教と正理とに依り
人々を勧めて極楽に生まれさせる
さても めぐりめぐって一たびでも聞く者は
願わくは共に速やかに無上仏果を証りたいものである