◎ 安楽集 巻下
【28】^第四大門の中、 三つの解釈をする。 第一に、 印度の*
【29】^第一に、 印度ならびにこの国に出られた大徳の行ぜられたところによるとは、
^日月が五
^しかるに、 これらの六人の大徳は、 みな仏教の*
^問うていう。 すでに浄土の法を嘆じて帰依された。 すなわち念仏が肝要な門であるというならば、 これらの諸大徳の臨終の時には、 みな霊験があったかどうか。
^答えていう。 みな霊験があって空しくない。 ^曇鸞法師のごときは、 平生のとき浄土の法を修められた。 ^また、 時の天子が来て法師に問うていわれる。 「十方仏国は、 みな浄土であるのに、 法師はなぜ、 ただ西方の弥陀の浄土に心を注いで往生を願うのか。 それは偏見の生ではないか。」
^法師が答えて申しあげる。 「わたしは現に凡夫であって、 智慧が浅く、 また菩薩の高い位に入っておりませんので、 十方をどれでもひとしく念ずることができません。 草を置いて牛を引くのにつねに心を
^また、 難ずるものが、 いろいろあったが、 法師は独り西方往生の道をみずから信じ、 人にも勧められた。 ^こういうわけで、 一切の僧俗を問わず、 一たび法師と遇うものは、 もしまだ仏法を信じない者には、 勧めて仏法を信じさせ、 もしすでに仏法を信じている者には、 みな勧めて浄土に帰せしめられた。 ^それゆえ、 法師の命終のときに臨んでは、 寺のそばの左右の僧俗がみな、
【30】^第二に、 この ¬観経¼ および他の諸大乗経に、 多く念仏三昧を宗要とすることを明かすとは、 ^この中に八つの解釈をする。 初めの二つは、 一相三昧 (一仏の相を念ずる三昧) を明かし、 後の六つは、 それぞれの縁により相によって念仏三昧を明かす。
仏が
^仏が堅意に告げられる。 「これを菩薩が一相三昧の門に入ると名づける。」
^第二に、 ¬*
^その時、 *
^仏が仰せられる。 「一行三昧とは、 もし善男・善女が静かな処にいて、 すべての乱れ
^第三に、 ¬*
仏が
^第四に、 ¬観経¼ 及びそのほかの経によれば、 万行を修めて、 これを回向して浄土を願えば、 みな往生せぬことはない。 ^しかし、 念仏一行をもって最もかなめな路とする。 ^なんとなれば、 聖教を調べてみると、 始終の両益があるからである。 もし善を生じ行を起こそうと思うならば、 念仏はあまねく万行を摂めており、 もし悪を滅し
念仏の衆生を摂めとって捨てず、 命終われば必ず浄土に生まれる。
と。 これを
*
と。 これがすなわち終時の益である。 ^ほかの行を修めて回向しても、 みな往生するのであるが、 仏の入滅を見ると見ないとの別がある。 ^後代の人に勧め聖教をしらべて、 遠く利益をうるおさしめるのである。
その時、
^その時、 阿弥陀仏が、 この菩薩に仰せられる。 「わが国に来生しようと思うものは、 つねにわが名号を念じて休まないようにせよ。 そうすれば、 わが国に生まれることができる。」
^また、 仏が仰せられる。 「仏身の*
^第六に、 ¬*
^むしろ無量劫のあいだ つぶさに一切の苦しみを受けても
ついに如来に遠ざかって その自在力を見ないようなことのないように
とある。 ^また、 説かれてある。
^念仏三昧を修すれば必ず仏を見たてまつり 命終の後は仏前に生まれる
そこで人の臨終を見ては念仏を勧め また尊い
^また、
^この時、 比丘が善財に告げていわれる。 「わたしは仏の智慧海の中でただ一つの法を知っている。 すなわち、 念仏三昧の門である。 なぜかというと、 この三昧門の中においては、 ことごとくよく一切諸仏およびその眷属や立派な浄土を見て、 よく衆生をして迷いを離れさせる。 ^念仏三昧門は、 微細な境界の中において一切仏の自在な境界を見たてまつり、 諸劫の不顛倒 (常住) を体得する。 念仏三昧門は、 よく一切の仏国を現わして、 よく壊すものがなく、 あまねく諸仏を見たてまつって、 三世の不顛倒を体得する。」
^その時、 功徳雲比丘が善財に告げていう。 「仏法の深い海は、 広大無辺であって、 わたしの知っているのは、 ただこの一つの念仏三昧門を得たことだけである。 ほかの不思議な境界は数量にこえて、 わたしのいまだ知らないところである。」
その時、 海竜王が仏に申しあげる。 「世尊、 わたしは阿弥陀仏の国に往生することを求めます。 どういう行を修めたならば、 浄土に生まれることができましょうか。」
^仏が竜王に仰せられる。 「もし、 かの浄土に生まれようと思うならば、 八つの法を行うべきである。 その八つとは何々かといえば、 一つには常に諸仏を念ずる。 二つには如来を供養する。 三つには世尊を讃嘆する。 四つには仏のお
^仏が竜王に仰せられる。 「すべての衆生は、 この八つの法をそなえたならば、 つねに仏のそばを離れないのである。」
^問うていう。 八つの法をそなえなくとも、 仏の前に生まれることができて、 仏のそばを離れないか、 どうか。
^答えていう。 往生を得ることは疑いない。 どうして知ることができるかといえば、 仏が ¬*
菩薩が四種の法を行ずるならば、 つねに仏の前を離れない。 その四つとは何かといえば、 一つにはみずから善法を修め、 かねて衆生を勧めて、 みな往生して如来を見たてまつる
^また、 この経に説かれてある。
仏が菩薩の行法を説かれるのに、 三十二の器がある。 それは何かというと、 布施は大きな富を得る器 (因) であり、 忍辱は身の端正を得る器であり、 戒を
^略して六つだけをあげて、 そのほかは述べない。 聖教がすでにこのとおりである。 行者がもし往生を願うならば、 どうしていつも念仏しないでおられようか。 ^また、 ¬*
^仏の相好や徳行を念じて よく六根を乱れさせず
心が惑わずによく法と合するならば 聞くことを得て智慧を得ること大海のようである
^智者はこの念仏三昧に住し 心を摂めて行ずれば
その行く処においてよく千億の諸仏を見 また無量*
【31】^第三に、 問答して解釈し、 念仏三昧に種々の利益があることをあらわすのに、 五つある。
^第一に問うていう。 今、 つねに念仏三昧を修めるというならば、 ほかの三昧は行じないのか。
^答えていう。 今、 つねに念ずるといっても、 またほかの三昧を行じないというのではない。 ただ念仏三昧を行ずることが多いゆえ、 つねに念ずるというのである。 全くほかの三昧を行じないというのではない。
^第二に問うていう。 もしつねに念仏三昧を修めよと勧めるならば、 ほかの三昧と優劣があるのか、 どうか。
^答えていう。 念仏三昧のすぐれた相は不可思議である。 これはどうして知られるかというと、 ^大乗の論 (大智度論) の中に説かれているとおりである。
他のもろもろの三昧も、 三昧でないわけではない。 ^なぜかというと、 三昧の中には、 ただよく*
^第三に問うていう。 念仏三昧は、 すでによく障りを除き福を得る功徳利益が大であるならば、 いったい、 よく行者を利益して、 寿命をのばさせるか、 どうか。
^答えていう。 必ずできる。 ^なぜならば、 ¬*
兄弟二人があって、 兄は因果を信じた。 弟は信心がなかったけれども、 よく人の相を見ることを心得ていた。 この弟がことのついでに、 鏡に映った自分の顔を見ると、 死相がすでに現われていて、 七日を過ぎないうちに死のうとしていることがわかった。 その時、 智者が教えて仏の所へ行って尋ねさせた。 ^仏がそのとき答えて仰せられる。 「七日のうちに死ぬということはまちがいない。 けれども、 もしよく一心に仏を念じて戒を修めるならば、 あるいは難をのがれることができるであろう。」 そこで、 教えに従って仏を念じた。 すると六日目に二人の鬼が来たが、 耳に念仏の声を聞いて、 ついに前に進むことができず、 帰って*
一人の長者があって、 罪福を信ぜず、 年がすでに五十になった。 たちまち夜、 夢に*
^また、 一人の長者があって、 その名を
^第四に、 問うていう。 この念仏三昧は、 ただよくいろいろの障りを退治し、 ただ世間の果報を招くだけであるのか。 またよく出世の無上菩提を得ることができるのか、 どうか。
^答えていう。 得ることができる。 なぜならば、 ¬華厳経¼ の十地品に説かれてあるように、 初地より十地まで一々の位の中において、 みなその位に入るための行と、 その位を満足した時の功徳利益と、 次の位に進むありさまを説き終わって、 それを結んで仰せられる。
このもろもろの菩薩は、 ほかのいろいろの行を修めるけれども、 みな念仏・念法・念僧を離れないで、 すぐれて妙なる品々をもって三宝を供養する。
^この文証によって知ることができる。 もろもろの菩薩たちは、 上地に至るまで、 つねに念仏・念法・念僧を学んで、 始めて無量の行願を成就し、 功徳を満足するのである。 まして、 声聞・縁覚の二乗や凡夫が、 浄土に生まれようと求めるのに、 念仏をしないでよかろうか。 なぜならば、 この念仏三昧は、 一切の四摂 (布施・愛語・利行・同時) ・六度 (布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧) をそなえて、 通じて諸行を具する行であり、 諸行は通じて念仏を伴うからである。
^第五に問うていう。 初地以上の菩薩は、 仏と同じように、 *
^答えていう。 その真如を論ずれば、 広大無辺で虚空にひとしく、 その量は知りがたい。 たとえば、 一つの大暗室に一灯・二灯をつける程度では、 その明かりは、 あまねく行きわたるとしても、 なお暗いようなものである。 次第に多くの
【32】^第五大門の中に四つの解釈をする。 第一に、 汎く修道の遅速を明かして、 速やかに不退の位を得させたいと思う。 第二に、 この世界の禅定と、 かの浄土についての座禅観法とを比べて往生を勧める。 第三に、 この*
【33】^第一に、 汎く修道の遅速を明かすとは、 この中に二つある。 一つには修道の遅速を明かし、 二つには問答して解釈する。
^一つに、 遅速を明かすとは、 すべて衆生は苦を厭うて楽を求め、 迷いをおそれてさとりを求めないものはない。 みな早く*
^二つに、 問うていう。 すでに浄土に往生しようと願えば、 この寿が尽き次第ただちに往生を得るというのは、 聖教の証拠があるのか、 どうか。
^答えていう。 七つある。 みな経論を引いて証明しよう。
仏が*
と説かれてある。 ^ゆえに ¬大経¼ の讃 (*
^もし阿弥陀仏の功徳のみ名を聞いて 歓喜し讃仰するならば
わずか一念する者まで大きな利益を得て 功徳の宝を身につけさせていただく
^たとい大千世界に満ちみちる火の中をも ひるまず進んで阿弥陀仏のみ名を聞けよ
仏のみ名を聞けばふたたび退転しない位に入る それゆえ心をこめて礼拝したてまつる
^二つには、 ¬観経¼ によれば、 *
^三つには、 ¬*
その時、 世尊が比丘たちに告げたもう。 「わたしはそなたたちのために説こう。 西方の安楽世界に今現に仏がおられて、 阿弥陀仏と申しあげる。 ^もし僧俗男女があって、 よくまさしくかの仏の名号を
と説かれてある。
もし、 人が臨終のとき念仏することができなければ、 ただ西方に仏がおられると知って往生の意をなしても、 また往生を得る。
と説かれてある。
^六つには、 ¬*
もし命終わる時に臨み、 遂に死んで地獄に堕ちた者があれば、 一家の親族の者がその亡者のために念仏し、 および経を読み、 僧に
と。 ましてその人が生きているうちに、 みずからよく念仏を修めるならば、 どうして往生を得ないことがあろうか。 ^こういうわけで、 かの経に、
現に、 この世にいる親族が亡者のために*
と説かれてある。
^第七に、 広くいろいろの経を引いて証明すると、 ^¬大法鼓経¼ に説かれているとおりである。
もし、 善男・善女で、 つねに意をかけて諸仏の名号を称念する者は、 十方の諸仏やすべての賢聖たちが、 つねにこの人を見たもうことは目の前に現われているようである。 それゆえこの経を大法鼓経と名づける。 この人は十方浄土へ願いのままに往生できると知るべきである。
どういうのを大悲と名づけるのであるかというと、 もし、 一すじに念仏相続して絶えぬならば、 その人は命終わってまちがいなく*
^そこで ¬涅槃経¼ に説かれてある。
仏が大王に告げたもう。 「たとい、 大きな蔵を開いて一月の間すべての人々に施しても、 その得る所の功徳は、 人が一声仏名を称える功徳に及ばない。 称名の功徳のほうが前の功徳よりも超えていることは比べることができないほどである。」
仏が阿難に告げたもう。 「それ衆生があって、 一つの閻浮提の人々全部に、 衣服・飲食・臥具・湯薬を供養したならば、 その得るところのくどくは多いであろうか、 どうか。」
阿難が仏に申し上げていう。 「世尊、 はなはだ功徳は多くて、 到底量り知ることができないほどであります。」
^仏が阿難に告げたもう。 「もし衆生があって善心相続して仏の名号を称えることが、 一たび牛乳をしぼるほどの間であっても、 その得るところの功徳は、 前の功徳よりも超えていることが量り知れず、 到底よくこれを量る者はない。
もし人が散心で念仏すれば、 それより以後、 生死の苦しみがおわるまでその福徳が尽きない。 もし人が散華して念仏すれば、 それより以後、 生死の苦しみがおわるまでその福徳が尽きない。
^こういうわけで念仏の利益が広大ではかり知られないことを知った。 ¬*
【34】^第二に、 この世界の禅定と、 かの浄土についての座禅観法とを比べて、 往生を勧めることを明かすとは、
^すべてこの世界は
^多く法を聞き戒律をたもち禅定を修めても まだ無漏の法を得ないうちは
この功徳があるといっても このことはまだたのみにすることができぬ
と。 ^もし西方浄土に向かってこれを修めようとするならば、 かの国の荘厳は光明清浄であって、 定善観法が成就しやすく、 多劫の罪が除かれ、 かの国に生まれてとこしえに退転しない地位に定まり、 速やかに進んでついに無上のさとりを得る。 ¬大経¼ に広く説かれているとおりである。
^問うていう。 もし西方の境界はすぐれているから、 定善観を修して往生することができるというならば、 この世界の色界の天は劣っていて、 禅定を修して生まれることができないのであろうか。
^答えていう。 もし禅定の修めた因のはたらきをいえば、 浄土もこの世界の諸天も通じて生まれることができる。 ^ところが、 かの浄土は不退の処であり、 また他力の支持があるから、 すぐれていると説くのである。 ^この世界の諸天へも、 また禅定を修めて生まれることができるけれども、 ただ自力の因だけがあって他力の支持がないから、 その業が尽きたならば、 退転することを免れない。 こういうわけで西方浄土を観ずるにしくはないと説くのである。
【35】^第三に、 この穢土と、 かの浄土との二つの世界をまた有漏・無漏と名づけるに拠るとは、
^この娑婆世界をいえば、 ただ地獄・餓鬼・畜生の*
^かの国に往生するのがすぐれていることは、 ¬大経¼ に説かれてあるところによると、 十方の人々が、 ただかの国に生まれるならば、 みなさまざまの利益を獲ないということはない。 ^なんとなれば、 一たびかの国に生まれた者は、 歩めば金の蓮華が足を捧げ、 坐れば宝の座が身を
【36】^第四に、 聖教を引いて証明し、 後の世の人々に信をおこして往生を求めるよう勧めるとは、 ^¬*
そのとき会座の中に、 十方の諸仏が、 おのおの華台の中に*
^このとき十方の諸仏が空から下りてきて千の光明を放ち、 おん身の*
^この言葉を説きおわられて後、 釈迦仏にうかがい訊ね、 訊ねおわって、 おのおの本国にかえりたもうた。
と。
【37】^第六大門の中に三つの解釈をする。 第一に十方の浄土とならべて比較し、 第二に義を推しはかり、 第三に教法の
【38】^第一に十方の浄土とならべて比較するとは、 この中に三つある。
^一つには、 ¬十方随願往生経¼ に説かれているとおりである。
十方仏国はみなことごとく厳浄であって、 願いに随っていずれも往生できる。 しかしながら、 そのすべてが西方の無量寿仏の国には及ばない。
と。 どういうわけでこのようであるかというと、 ただ阿弥陀仏が*
^二つに ¬大経¼ に拠ると、 *
^三つには、 この ¬観経¼ の中に説かれているのによると、 *
^このようなわけで、 いろいろの浄土の中で安楽世界が最もすぐれていることが知られる。
【39】^第二に義をもって推しはかるとは、
^問うていう。 どういうわけで、 かならず顔を西に向けて坐り、 礼拝し、 念仏し、 *
^答えていう。 *
一人の比丘が、 平生のとき ¬*
と。 ^*
天地が初めてできた時、 まだ日月や星がなかった。 たとい天人が下ってくることがあっても、 ただ
【40】^第三に、 教法の
*
と。 ^この文をもって証拠とする。 ゆえにかの安楽国は浄土であるけれども、 しかも往生人の上下をかねおさめる。 相即*
【41】^第七大門の中に二つの解釈をする。 第一門では、 この土の相を取るのと浄土の相を取るのとについて*
【42】^第一に、 この土の相を取るのと浄土の相を取るのとについて繋縛と解脱とを区別するとは、
^もし西方浄土の相を取るならば、 はやく
^問うていう。 大乗の多くの経によれば、 みな 「無相はすなわちこれ迷いを出る大切な道であって、 相に執着してそれにかかわるのは迷いを免れない」 という。 しかるにいま衆生に穢土を捨てて浄土をねがうことを勧める。 これはどういうわけであるか。
^答えていう。 この意味は同類ではない。 なんとなれば、 およそ相には二種がある。 一つには五欲の汚れた境界においてみだりに愛し、 貪ってその境について執着する。 これらの相を名づけて繋縛とする。 二つには仏の功徳をこのんで浄土の往生を願うのは、 これは相というけれども名づけて解脱とする。 ^なぜそう知られるのかというと、 ¬*
初地の菩薩は、 なおまだ*
七地までの菩薩は、 悪い*
と。 まして今浄土に生まれることを願うのは、 現に外の凡夫であるから、 修めるところの善根はみな仏の功徳を愛楽することから生ずる。 どうしてこれが繋縛であろうか。 ^ゆえに ¬涅槃経¼ に説かれてある。
一切衆生に二種の愛がある。 一つには善き愛、 二つには善からぬ愛である。 善からぬ愛というのは、 ただ愚かな者がこれを求める。 善法愛というのは、 菩薩たちが求めるものである。
浄土の*
というてある。 ^ゆえに、 これは相を取るとはいっても執着の繋縛に当たるものではない。 また、 かの浄土にいうところの相とは、 すなわち無漏の相であり、 *
【43】^第二段の中に、 この土と、 かの浄土とで、 菩提の道を修めるについて、 修行の功を用いるのに軽重があって、 果報を得るのに真偽の別があることを明らかにするとは、
^もし発心して西方に往生しようと願う者は、 ただ、 しばらくの時節、 礼拝・観察・念仏などを寿命の長短にしたがって修めるならば、 臨終には光明かがやく蓮台に迎えとられ、 速やかにかの国に至って不退の位にかなう。 ^こういうわけで ¬大経¼ に、
十方の人天で、 わが国に生まれた者が、 もし、 ついに*
と説かれてある。 この娑婆世界で久しい間、 つぶさに布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜の行を修めても、 まだ一万劫に満たないうちは、 いつも迷いの火宅を出ることはできないで退転する。 ゆえに各自が修行の功を用いることは至って重くて獲る果報は偽りであるというのである。
^ ¬大経¼ にまた、
我が国に生まれる者は
と説かれてある。 ^今これは弥陀の浄土に対して、 娑婆の五道をひとしく悪趣と名づける。 *
【44】^第八大門の中に三つの解釈をする。 第一に略していろいろの経を挙げて証拠とし、 この娑婆世界を捨てて、 かの浄土を願うことを勧める。 第二に弥陀・釈迦二仏を比較する。 第三に往生する意義を解釈する。
【45】^第一に略していろいろの大乗の経を挙げて証拠とし、 みなこの娑婆世界を捨てて、 かの浄土を願うことを勧めてあるというのは、
^二つには、 ¬観経¼ 一部、 王宮と耆闍崛山との二つの会座でまさしく説かれたものである。
^三つには、 ¬小巻無量寿経¼ (*
^四つには、 また ¬十方随願往生経¼ の明らかな証拠がある。
^五つには、 また ¬*
^六つには、 さらに ¬十往生経¼ 一巻がある。
^そのほか、 大乗の経論には西方浄土を讃嘆される処が多い。 ¬*
【46】^第二に、 弥陀・釈迦二仏を比較するとは、 ^この娑婆の仏である釈迦如来は八十年のあいだこの世にしばらく出現して去られ、 去られてからふたたびこの世にかえりたまわぬ。 *
^ところで釈迦・弥陀二仏の不思議なはたらきは、 また同じであろう。 ただ釈迦如来が御自身のはたらきをお述べなさらず、 ことさらに阿弥陀仏のすぐれていることを顕わして、 すべての人をことごとく阿弥陀仏に帰依させたいと思召されるのである。 こういうわけで、 釈迦如来はお経の処々に阿弥陀如来を讃嘆して帰依せしめられるのである。 よろしくこの思召しを知らねばならぬ。
^そこで、 *
^安楽浄土の声聞菩薩や人天たちは 心はすべて真如をさとり
すがたのかぎりも変わりがない ただ他の世界にならうから名前を
顔かたちはたぐいなく端正で 有漏のけがれを離れたからだは人天とはちがい
はかり知られぬさとりのからだである それゆえ平等力の如来を礼拝したてまつる
【47】^第三に往生する意義を釈するとは、 この中に二つある。 一つには往生する意義を解釈し、 二つには問答で解釈する。
^第一に問うていう。 いま浄土に生まれようと願うのは、 どういう心持ちであろうか。
^答えていう。 ただすみやかに自利利他を成就して、 衆生を深く広く利益したいと思うのである。 *
^第二に問答で解釈する中に三つある。
^問うていう。 浄土に生まれようと願うのは衆生利益のためであるとするならば、 その救われるところの衆生は今現にこの世界にいるのであるから、 すでによくこの心をおこしたならば、 ただこの世界にあって苦しみの衆生を救うべきであろう。 どういうわけでこの心を得おわって、 まず浄土に生まれようと願うのか。 他の衆生を捨てて、 みずから菩提の楽しみを求めるに似ているではないか。
^答えていう。 この義は同類ではない。 なんとなれば ¬大智度論¼ にいうとおりである。
たとえば、 二人の者が共に、 その父母・親族の者が深い淵に沈むのを見て、 一人は、 ただちに淵に入って力を尽してこれを助けようとしたが、 力が及ばないで共々に淵に沈んだ。 他の一人は、 はるかに走って一そうの舟に趣き、 これに乗って来て救うたところ、 みなの者が難をのがれることができたようなものである。 ^菩薩もまたそのとおりである。 もしまだ菩提心をおこさない時は、 生死に流転することが他の衆生と区別がない。 ただ、 すでに菩提心をおこした時には、 まず浄土に往生し、 大悲の船を用い無礙の弁才をもって生死の海に入り、 衆生を済度しようと願うのである。
^二つには、 ¬大智度論¼ にまたいう。
菩薩は浄土に生まれて大神通をそなえ、 無礙の弁才をもって衆生を教化する時でさえ、 なお衆生をして善を生じて悪を滅し仏道を増し位を進ませて、 菩薩の意にかなうようにすることができない。 もしただちに穢土にあって衆生を済度しようとする場合には、 この利益が欠けて無いことは、 あたかも鶏を追うて水に入れるようである。 どうしてよく濡れないということがあろうか。
^三つには、 ¬大経¼ の讃 (讃阿弥陀仏偈) にいう。
^安楽仏国の菩薩たちは その説くところが仏の智慧にかない
すべての物に対して我執の思いがなく 浄らかなことは蓮華が塵を受けぬようである
^往くも来るも進むも止まるも
彼と我とが虚空のようであるとさとって差別の想いをたち 智慧のともし火を燃やしてとこしえの闇を照らす
^*
このような功徳は限りがない それゆえ心からかしこに生まれることを願う
【48】^第九大門の中に二つの解釈をする。 第一に苦楽善悪を相対し、 第二にかの浄土とこの娑婆との寿命の長短を比べる。
【49】^初めの段の中に二つある。 一つには苦楽善悪を相対し、 二つには ¬大経¼ を引いて証拠とする。 ^初めに苦楽善悪を相対するというのは、 この娑婆世界にあって苦楽二つの果報があるけれども、 つねに楽は少なく苦は多い。 重いものは三途で苦しみ、 軽いものは人天において兵乱や疾病があいついでおこり、 遠劫よりこのかた断えたときがない。 たとい人天にわずかな楽しみがあるといっても、 あたかも水の泡や
^二つに聖教を引いて証拠とするとは、 ^¬*
十方の人天で、 かの国に生まれた者は、 すなわち浄心の菩薩 (八地以上) と別がなく、 浄心の菩薩は、 すなわち上地 (九地以上) の菩薩と同じく*
と。 ^また ¬大経¼ の四十八願をひくと、 この中に五つの大利益がある。 ^第一には ¬大経¼ に、
十方の人天で、 わが国に来生した者が、 ことごとく真金色の身となることができぬようなら、 正覚を取るまい。
と説かれてある。 ^二つに、
十方の人天が、 わが国に来生して、 もし姿形がまちまちで美醜のちがいがあるようなら、 正覚を取るまい。
と説かれてある。 ^三つに、
十方の人天が、 わが国に来生して、 *
と説かれてある。 ^四つに、
十方の人天が、 わが国に来生して、 *
と説かれてある。 ^五つに、
十方の人天が、 わが国に来生して、 *
と説かれてある。 ^かの国の利益のことをいおうとすれば、 到底つぶさに述べることができぬ。 ただ往生を願うべきである。 思いはかってはならぬ。 こういうわけで、 かの浄土はただ善と楽しみばかりであって、 苦しみと悪がないのである。
【50】^第二に、 寿命の長短を明かすとは、 ^この娑婆での寿命は、 長く生きても百年に過ぎない。 百年を越す者は少なく、 それ以下の者は多い。 あるいは天寿を全うせずに若死したり、 あるいは
業因を作るとき悪であれば果報もまた悪い。 業因を作るとき善であれば果報もまた善である。 無漏清浄の業も善悪
人寿百年として、 夜がその半分を消して五十年を減ずる。 残りの五十年のうちについて、 十五才まではまだ善悪を知らず、 八十才以後は老耄して弱るから老いの苦しみを受ける。 これを除けば、 ただ十五年あるだけである。 ^その中において、 外には、 王官の公務に追いまわされ、 遠く征伐や防備のために行き、 あるいは牢獄につながれたりする。 また内には、 一家の吉凶など多くの事にまつわられ、 憂いに沈み心せわしく常に求めて満足することがない。 ^このように推し計ってみると、 どれほどの時があって、 仏道の行業を修めることができようか。 こう考えると、 何と哀れなことではないか。 どうしてこの世を厭わないでおられようか。
^また、 かの経 (浄度菩薩経) に説かれてある。
人が世に生まれて、 およそ一日一夜を経るのに八億四千万の
^今すでに穢土の寿命は短くて、 この世の果報は遠からぬうちに尽きる。 もし阿弥陀仏の浄土に生まれたならば、 寿命は長くて思いはかることができぬ。 ^こういうわけであるから ¬無量寿経¼ (阿弥陀経・意) に説かれてある。
仏が*
と。 おのおのよろしくこの利益の大きいことを思いはかって、 みな往生を願うべきである。 ^また、 ¬*
それ、 人があって仏道を学んで、 西方の阿弥陀仏の国に往生しようと願う者は、 憶念することが昼夜一日、 もしは二日、 もしは三日、 もしは四日、 もしは五日から六日、 七日に至るべきである。 ^もし、 また中途で悔いてやめようと思う者は、 わたしがこの善王の功徳を説くのを聞くならば、 命終わろうとする時に八人の菩薩があってみなことごとく飛び来たり、 この人を迎えとって西方の阿弥陀仏の国に至らせ、 ついにこの世に止まることを得ないであろう。
^これより以下、 また ¬大経¼ の偈 (讃阿弥陀仏偈) を引いて証拠とする。 讃じていう。
^それ人々が安楽国に生まれたならば ことごとく三十二相をそなえる
智慧満足して法性にかない さとりの道を究めてさまたげがない
^人それぞれの根機に随って成就した智慧は 音響忍・柔順忍や計り知られぬ無生法忍などである
宿命通やその他の五神通がいつも自在で 仏になるまで雑悪の処にはかえらぬ
^ただし他方の五濁の世に生まれて 釈迦仏のように現われる場合を除く
安楽国に往生すればこういう大利益を成就する それゆえ心からかの国に生まれようと願う
【51】^第十大門の中に二つの解釈をする。 第一に ¬大経¼ によって類例を引いて証明し、 第二に回向のいわれを解釈する。
【52】^第一に ¬大経¼ によって類例を引いて証明するとは、 ^十方の諸仏で西方に帰することを勧めない仏はなく、 十方の菩薩で同じく西方に往生しない者はなく、 十方の人天で意ある者は斉しく帰するのである。 ゆえに、 弥陀の浄土は不可思議であることが知られる。 ^こういうわけで ¬大経¼ の讃 (讃阿弥陀仏偈) にいう。
^不思議のはたらき極まりない阿弥陀仏は 十方の多くの仏に讃嘆せられる
東方の数かぎりない諸仏の国から 無数の菩薩が阿弥陀仏のもとに往き
^また安楽国の菩薩や声聞や 多くの大衆を供養し
阿弥陀仏の経法を聴いて仏道の化益を説く その他の九方の仏国もまたこのとおりである
【53】^第二に回向のいわれを解釈するとは、 ^およそ一切衆生はすでに仏性があるから、 人々はみな成仏を願う心がある。 しかるに修めるところの行業がまだ一万劫に満たないうちは、 なお迷いの境界を出ることができないから、 *
^一つには、 修めるところのいろいろな行業をもって、 これを弥陀の浄土往生にふり向けるならば、 すでにかの国に往生して、 また六神通を得て衆生を済度する。 これすなわち涅槃に
^二つには、 修めた因行をふり向けて果に向かう。
^三つには、 下劣のものをふりすてて
^四つには、 遅い法をふりすてて速い法に向かう。 これすなわち迷いの世間に
^五つには、 自分の行徳を衆生に施して、 あわれんで善に向かわせる。
^六つには、 迷いの世界にかえり来て、 分けへだての心を去る。
^回向の働きは、 ただこの六つである。 ^こういうわけであるから ¬大経¼ に説かれてある。
それ衆生あって、 わが国に来生する者は自然に勝進して、 菩薩の通常の諸地の行にこえて、 仏果を成就するまでふたたび退転するという難がない。
^ゆえに ¬大経¼ の讃 (讃阿弥陀仏偈) にいう。
^安楽国土の菩薩や声聞たちは この世界においては比べるものがない
釈迦仏の自在の弁才をもって いろいろなたとえを設けてその少分を示された
^最も賎しい乞食を帝王と比べ 帝王をまた転輪聖王と比べる
このように次々に比べて第六天に至る 次第に形のすぐれていることは乞食と帝王のようである
^第六天のすがたをかの浄土の聖衆にくらべると 聖衆の方が千万億倍もすぐれて到底そのたぐいではない
これはみな法蔵菩薩の願力の成就するところである *
【54】^第十一大門の中に略して二つの解釈をする。 第一に一切衆生をして*
【55】^第一に善知識の教えにしたがうように勧めるとは、 ^¬*
^仏が仰せられる。 「善知識とは、 よく深法を説く。 すなわち空 (体がなく)・無相 (相がなく)・無願 (願い求めることもない) であり、 諸法は平等であって業もなく報もなく、 因もなく果もなく、 究竟の一如であって真如に住する。 しかも畢竟空の中において、 さかんに一切諸法の現象差別の法を建てる。 これを善知識とする。 ^善知識はそなたの父母である、 そなたの菩提の身をそだてるからである。 ^善知識はそなたの眼である、 一切の善悪の道を見させるからである。 ^善知識はそなたの大船である、 そなたたちを運んで生死の海を出させるからである。 ^善知識は、 そなたの
^また、 衆生のために善知識となるといっても、 必ず西方に帰すべきことを勧める。 どういうわけでかというと、 この迷いの世界に
^こういうわけであるから、 舎利弗はこの世で発心して菩薩行を修めることが、 すでに六十劫を経たけれども、 *
弥陀の浄土は髪の毛ほども造悪の処がない。
と説かれてある。
【56】^第二に次に衆生の死後、 生を受ける縁に勝劣の別があることを述べるとは、 ^この世界の衆生は寿命が尽きたならば、 みな善悪二つの業によらないものはなく、 いつも命を司る獄卒や妄愛の煩悩によって生を受け、 無数劫よりこのかたこれを離れることができない。 ^然るに、 もしよく信心をおこし浄土を願って意をはげまし専らつとめるならば、 命の終わろうとするとき、 阿弥陀仏が観音などの聖衆と共に光かがやく蓮台をもって行者を迎えてくださる。 行者は喜んでこれに従い、 合掌して蓮台に乗り、 ただちに浄土に到ってすべて快楽でないことがなく、 ついに仏となる。
^また、 一切衆生が造る業の不同に上・中・下の三種がある。 みな閻魔王のもとに行って判決を受けぬものはない。 もしよく仏を信ずる因縁をもって浄土に生まれることを願い、 修めたところの行業をすべてみな往生のためにふりむけるならば、 命の終わろうとするとき、 仏がみずから迎えにきてくだされ、 死王たる閻魔王に
【57】^第十二大門の中に一つの解釈をし、 ¬十往生経¼ を証拠として往生を勧める。
^釈迦仏が阿弥陀仏の国に生まれることを説かれるとおりである。 多くの大衆のために観身の法によって正念に解脱を得ることを説かれた ^¬十往生経¼ に仰せられる。
阿難が仏に申しあげていう。 「世尊、 一切衆生の観身の法は、 そのことはどのようでありましょうか。 どうぞ、 これをお説きください。」
^仏が阿難に告げたもう。 「そもそも観身の法というのは、 東西を観ぜず、 南北を観ぜず、 四維を観ぜず、 上下を観ぜず、 虚空を観ぜず、 外縁 (*
^仏が、 また阿難につげたもう。 「ただ、 みずから観身の法を修するならば、 善根力が自然であり、 正念が自然であり、 解脱が自然である。 ^なぜかというと、 たとえば人があって精進して正直の心であれば正しい解脱を得るようなものである。 このような人は解脱を求めないのに解脱がおのずから至る。」
^阿難がまた仏に申しあげていう。 「世尊、 世間の衆生に、 もし、 このような正念解脱があれば一切の地獄・餓鬼・畜生の三悪道はないはずでありましょう。」
^仏が阿難に告げたもう。 「世間の衆生は解脱を得ない。 なぜかというと、 一切衆生は、 みな虚妄が多くて真実が少ないから、 一つの正念もない。 こういうわけで地獄の者は多く解脱の者は少ないのである。 ^たとえば人が、 自分の父母および師僧に対して、 外には孝順のすがたを現わすけれども、 内には孝順でない思いを懐き、 外には精進のすがたを現わしていても、 内には不実を懐くようなものである。 このような悪人は報いはいまだ来ないけれども三途は遠くない。 正念がなく解脱を得ないからである。」
^阿難がまた仏に申しあげていう。 「もし、 そのようであれば、 さらに何の善根を修めて正しい解脱を得ましょうか。」
^仏が阿難に告げたもう。 「そなたはよく聴け。 わたしは今、 そなたのために説こう。 十種の往生の法があって解脱を得ることができる。 その十種とは何であるかというと、
^一つには、 身を観じ正念にして、 いつも歓喜の心をいだいて、 飲食・衣服を仏および僧に供養するならば、 阿弥陀仏の国に往生する。
^二つには、 正念にして、 すぐれた良い薬をもって、 一人の病気の比丘およびすべての衆生に施すならば、 阿弥陀仏の国に往生する。
^三つには、 正念にして、
^四つには、 正念にして、 師匠のもとに従って戒を受け、 清らかな心で仏道の行を修め、 心にいつも歓喜をいだくならば、 阿弥陀仏の国に往生する。
^五つには、 正念にして、 父母に孝行し、 師長に敬いつかえて、 *
^六つには、 正念にして、 僧房に参詣して塔寺を敬い、 法を聞いて一義を領解するならば、 阿弥陀仏の国に往生する。
^七つには、 正念にして、 一日一夜のあいだ*
^八つには、 正念にして、 もし、 よく*
^九つには、 正念にして、 いつもよく浄らかな戒をたもって禅定を修め、 仏法を守護して悪い言葉をいわない。 もし、 よくこのように行ずるならば、 阿弥陀仏の国に往生する。
^十には、 正念にして、 もし、 無上のさとりに対して誹謗の心を起こさず、 精進して浄らかな戒律をたもち、 また無智のものに教えてこの経法をひろめ、 多くの衆生を教化すれば、 このような人たちは、 ことごとくみな往生することができる。」
^そのとき、 会座の中に
^仏が山海慧菩薩に告げたもう。 「そなたは
^そこで、 すべての大衆も、 またみな
^そのとき、 山海慧菩薩が仏に申しあげていうには、 「世尊、 わたしたちは今、 かの国を見たてまつりましたのに、 すぐれた利益は思いはかることができません。 わたしはいま一切衆生がことごとくみな往生するであろうことを願い、 そうして後、 わたしたちもまたかの国に生まれることを願います。」 と。
^仏はこれに*
^山海慧菩薩が仏に申しあげていう。 「世尊、 わたしは、 いま尊いみ教えをいただいて決して疑いません。 しかし世に衆生があって、 多く謗ってこの経を信じない者がありましょう。 このような人は未来どうなるでしょうか。」
^仏が山海慧菩薩に告げたもう。 「わたしが入滅して後に閻浮提において、 あるいは僧や尼がこの経を読むのを見て、 あるいは共に怒って心に誹謗の思いをいだくであろう。 この正法を謗ったことによって、 この人は、 この世にいる内からいろいろの悪い重病にかかり、 不具者・
【58】^この安楽集をつくって世にひろめ 仏法の功徳をあまねくすべての者に施し
まず 菩提心をおこさせて 同じく浄土の往生をねがい
みな共に仏果を成就したいものである
安楽集 巻下