十五(542)、 津戸三郎へつかはす御返事

津戸つのとの三郎さぶろうにゅうどうへつかはすへん だいじゅう

おん0543ふみくはしくうけたまはりそうらいぬ。 またたづねおほせられてそうろうことども、 おほやうしるしもうしそうろう

一 熊谷くまがやにゅうどう津戸つのとの三郎さぶろうは、 无智むちのものなればこそ、 たん念仏ねんぶつをはすゝめたれ、 有智うちひとにはかならずしも念仏ねんぶつにはかぎるべからずともうすよしきこへてそうろうらん、 きわめたるひがごとにてそうろう

そのゆへは、 念仏ねんぶつぎょうは、 もとより有智うち无智むちにかぎらず、 弥陀みだのむかしちかひたまひし本願ほんがんも、 あまねく一切いっさいしゅじょうのためなり无智むちのためには念仏ねんぶつがんじ、 有智うちのためにはのふかきぎょうがんたまことなし。

十方じっぽうしゅじょう (大経巻上) に、 ひろく有智うち无智むちざいざい善人ぜんにん悪人あくにんかいかいけん男女なんにょ、 もしはほとけのざいしゅじょう、 もしはほとけのめつのこのごろのしゅじょう、 もしはしゃ末法まっぽう万年まんねんのゝち三宝さんぼうみなうせてのおはりのしゅじょうまでも、 みなこもれるなり

また善導ぜんどうしょう弥陀みだしんとして専修せんじゅ念仏ねんぶつをすゝめたまへるも、 ひろく一切いっさいしゅじょうのためにすゝめて、 无智むちひとにのみかぎることそうらはず。 ひろき弥陀みだ本願ほんがんをたのみ、 あまねき善導ぜんどうのすゝめをひろめんもの、 いかでか无智むちひとにかぎりて、 有智うちひとをへだてんや。 もししからば、 弥陀みだ本願ほんがんにもそむき、 善導ぜんどうおんこころにもかなふべからず。

さればこのへんにまうできて、 おうじょうのみちをとひたづねそうろうひとには、 有智うち无智むち0544ろんぜず、 みな念仏ねんぶつぎょうばかりをもうしそうろうなり。 しかるに虚言きょごんかまえて、 さやうに念仏ねんぶつもうしとゞめんとするものは、 さきのに、 念仏ねんぶつ三昧ざんまいじょう法門ほうもんをきかず、 のちのまたさん悪道まくどうかえるべきものゝ、 さやうのことをばたくみもうしそうろうことにてそうろうなり。 そのよし聖教しょうぎょうえてそうろうなり

けんしゅぎょう瞋毒しんどく方便ほうべん破壊はえ競生きょうしょうおん
にょしょうもう闡提せんだいはいめつとんぎょうよう沈淪ちんりん
ちょうだいじんごう未可みかとくさんしん (法事讃巻下)

もうしたるなり

このもんこころは、 じょうをねがひ念仏ねんぶつぎょうずるものては、 いかりをおこし毒心どくしんをふかくして、 はかりことをめぐらし様様さまざま方便ほうべんをなして、 念仏ねんぶつぎょうをやぶり、 あらそひてあだをなし、 これをとゞめんとするなり

かくのごときのひとは、 むまれてよりこのかた、 仏法ぶっぽうまなこしゐて、 ほとけのたねをうしなへる闡提せんだいのともがらなり。 この弥陀みだみょうごうをとなへて、 ながきしょうをたちまちにきり、 常住じょうじゅう極楽ごくらくおうじょうすといふとんぎょうのりをそしりほろぼして、 このつみによりて、 ながくさん悪道まくどうにしづむといへるなり

かくのごとくのひとは、 だいじんごうをすぐとも、 ながくさん悪道まくどうをはなるゝことをうべからずといへるなり。 さればさやうに虚言きょごんをたくみて0545もうしそうろうらんひとは、 かえりてあはれむべきものなり。 さほどのものゝもうさんによりて、 念仏ねんぶつにうたがひをなし、 しんをおこさんものは、 いふにたらぬほどことにてこそはそうらはめ。

おほかた弥陀みだえんあさく、 おうじょうときいたらぬものは、 きけどもしんぜず、 おこなふをてははらをたて、 いかりをふくみて、 さまたげんとすることにてそうろうなり。 そのこころをえて、 いかにひともうすとも、 おんこころばかりはゆるがせたまふべからず。 あながちにしんぜざらんは、 ぶつなをちからおよびたまふまじ。 いかにいはんや、 ぼんはちからおよぶまじきことなり

かゝるしんしゅじょうのために、 慈悲じひをおこしやくせんとおもはんにつけても、 とく極楽ごくらくへまいりてさとりをひらきて、 しょうかえりてほうしんものをもわたし、 一切いっさいしゅじょうをあまねくやくせんとおもふべきことにてそうろうなり。 このよしをこころえておはしますべし。

一 いっ人々ひとびと善願ぜんがん結縁けちえんじょじょうせんこと、 このじょう左右さうにおよばず、 もともしかるべきことそうろう念仏ねんぶつぎょうをさまたぐることをこそ、 専修せんじゅぎょうにはせいしたることにてそうらへ。 人々ひとびとのあるいはどうをつくり、 ほとけをつくり、 きょうをもかき、 そうをもようせんには、 ちからをくはへえんをむすばんが、 念仏ねんぶつをさまたげ、 専修せんじゅをさうるほどのことにはそうろうまじきなり。

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一 念仏ねんぶつもうさせたまはんには、 こころをつねにかけて、 くちにわすれずとなふるが、 めでたきことにてそうろうなり念仏ねんぶつぎょうは、 もとより行住ぎょうじゅう坐臥ざがしょ諸縁しょえんをきらはぬぎょうにてそうらへば、 たとひもきたなく、 くちもきたなくとも、 こころをきよくして、 わすれずもうさせたまはんことは、 返々かえすがえすじんみょうそうろう。 ひまなくさやうにもうさせたまはんこそ、 返々かえすがえすありがたくめでたくそうらへ。

いかならんところ、 いかなるときなりとも、 わすれずもうさせたまはゞ、 おうじょうごうにかならずなりそうらはんずるなり。 このこころなからんひとには、 おしへさせたまふべし。 いかならんときにももうされざらんをこそ、 ねうじてもうさばやとおもふべきに、 もうされんをねうじてもうさせたまはぬことは、 いかでかそうろうべき、 ゆめゆめそうろうまじ。 たゞいかなるおりにもきらはずもうさせたまふべし。

一 念仏ねんぶつぎょうあながちにしんぜざらんひとろんじあひ、 またあらぬぎょう、 ことさとりのひとにむかひて、 いたくしゐておほせらるゝことそうろうまじくそうろう異解いげがくひとては、 これをぎょうして、 かろしめ、 あなづることなかれともうしたることにてそうろうなり

さればおなじこころ極楽ごくらくをねがひ、 念仏ねんぶつもうさんひとには、 たとひ塵刹じんせつのほかのひとなりとも、 どうぎょうのおもひをなして、 一仏いちぶつじょうにむまれんとおもふべきことにてそうろうなり

弥陀みだぶつえんなく、 極楽ごくらくじょうにちぎりすくなくそうらはんひとの、 しんもおこらず、 ねがはしくもなく0547そうらはんには、 ちからおおよばず。 たゞこころにまかせて、 いかならんおこなひをもして、 しょうたすかりて、 さん悪道まくどうをはなるべきことを、 ひとこころにしたがひて、 すゝめたまふべきなり

またさはそうらへども、 ちりばかりもかなひぬべからんひとには、 弥陀みだほとけをすゝめ、 極楽ごくらくをねがはすべきなり。 いかにもうすとも、 このひと極楽ごくらくにむまれてしょうをはなれんこと念仏ねんぶつならで極楽ごくらくにむまるゝことそうろうまじきことにてそうろうなり。 このあひだのことをば、 ひとこころにしたがひて、 はからふべきにてそうろうなり

いかさまにもものをあらそふことは、 ゆめゆめそうろうまじきことにてそうろう。 もしはそしり、 もしはしんぜざらんものをば、 ひさしくごくにありて、 またごくかえるべきものなりとよくよくこころえて、 こわがらで、 こしらへすゝむべきにてそうろう

またよもとおもひまいらせそうらへども、 いかなるひともうすとも、 念仏ねんぶつおんこころなんど、 たぢろぎおぼしめすことあるべからずそうろう。 たとひ千仏せんぶつにいでゝ、 念仏ねんぶつおうじょうすべからずと、 まのあたりおしへさせそうろふとも、 これはしゃ弥陀みだよりはじめて、 恒沙ごうじゃのほとけの証誠しょうじょうせさせたまことなればとおぼしめして、 こころざしを金剛こんごうよりもかたくして、 このたびかならず弥陀みだほとけのまえへまいらんずるとおぼしめすべきにてそうろうなり

かくのごときのこと、 かたはしをもうさんに、 おんこころそうらいて、 わがためひとのためにおこなはせそうろふべし。

0548がつじゅうはちにち  真勧しんかん