二八(1064)、武蔵津戸三郎への御返事
○御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。 たづねおほせたびて候事ども、 おほやうしるし申候。
◇くまがやの入道・つのとの三郎は、 無智のものなればこそ、 念仏おばすゝめたれ、 有智の人にはかならずしも念仏にかぎるべからずと申よしきこえて候覧、 きわめたるひが事に候。
◇そのゆへは、 念仏の行は、 もとより有智・無智にか1065ぎらず、 弥陀のむかしちかひたまひし本願も、 あまねく一切衆生のため也。 無智のためには念仏を願じ、 有智のためには余のふかき行を願じたまへる事なし。
◇十方衆生のために、 ひろく有智・无智、 有罪・无罪、 善人・悪人、 持戒・破戒、 たふときもいやしきも、 男も女も、 もしは仏在世、 もしは仏滅後の近来の衆生、 もしは釈迦の末法万年ののち三宝みなうせての時の衆生まで、 みなこもりたる也。
◇また善導和尚の、 弥陀の化身として専修念仏をすゝめたまへるも、 ひろく一切衆生のためにすゝめて、 无智のものにかぎる事は候はず。 ひろき弥陀の願をたのみ、 あまねき善導のすゝめをひろめむもの、 いかでか無智の人にかぎりて、 有智の人をへだてむや。 もししからば、 弥陀の本願にもそむき、 善導の御こゝろにもかなふべからず。
◇さればこの辺にまうできて、 往生のみちをとひたづね候人には、 有智・無智を論ぜず、 みな念仏の行ばかりを申候也。 しかるにそらごとをかまへて、 さやうに念仏を申とゞめむとするものは、 このさきのよに、 念仏三昧、 浄土の法門をきかず、 後世にまた三悪道にかへるべきもの、 しかるべくして、 さやうの事おばたくみ申候事にて候なり。 そのよし聖教にみえて候也。
◇「修行することあるを見ては瞋毒を起し、 方便して破壊し競ふて怨を生さむ。
1066かくのごとき生盲闡提の輩、 頓教を毀滅してながく沈淪せむ。
大地微塵劫を超過すとも、 いまだ三途の身を離るゝことを得べからず」 (法事讃巻下)
「見↠有↢修行↡起↢瞋毒↡ | 方便破壊競生↠怨 |
如↠此生盲闡提輩ムマルヽヨリメシヒタルモノ | 毀↢滅頓教↡永沈シヅミ淪シヅム |
超↢過大地微塵劫↡ | 未↠可↠得↠離↢三途身」 |
と申たる也。
◇この文のこゝろは、 浄土をねがひ念仏を行ずるものをみては、 瞋をおこし毒心をふうみて、 はかり事をめぐらし、 やうやうの方便をなして、 念仏の行を破て、 あらそひて怨をなし、 これをとゞめむとするなり。
◇かくのごときの人は、 むまれてよりこのかた、 仏法のまなこしひて、 仏の種をうしなへる闡提の輩なり。 この弥陀の名号をとなえて、 ながき生死をたちまちにきりて、 常住の極楽に往生すといふ頓教の法をそしりほろぼして、 この罪によりて、 ながく三悪にしづむといえるなり。
◇かくのごときの人は、 大地微塵劫をすぐとも、 むなしく三悪道のみをはなるゝ事をうべからずといえるなり。 さればさやうに妄語をたくみて申候覧人は、 かへりてあはれむべきものなり。 さほどのものゝ申さむによりて、 念仏にうたがひをなし、 不審をおこさむものは、 いふにたらざるほどの事にてこそ候はめ。
◇おほかた弥陀に縁あさく、 往生に時いたらぬものは、 きけども信ぜず、 行ずるをみては腹をたて、 いかりを含て、 さまたげむとすることにて候也。 そのこゝろをえて、 いかに人申候とも、 御こゝろばかりはゆるがせたまふべから1067ず。 あながちに信ぜざらむは、 仏なほちからおよびたまふまじ。 いかにいはむや、 凡夫ちからおよぶまじき事也。
◇かゝる不信の衆生のために、 慈悲をおこして利益せむとおもふにつけても、 とく極楽へまいりてさとりひらきて、 生死にかへりて誹謗不信のものをわたして、 一切衆生あまねく利益せむとおもふべき事にて候也。 このよしを御こゝろえておはしますべし。
◇一 一 一家の人々の善願に結縁助成せむこと、 この条左右におよび候はず、 尤しかるべく候。 念仏の行をさまたぐる事をこそ、 専修の行に制したる事にて候へ。 人々のあるいは堂おもつくり、 仏おもつくり、 経おもかき、 僧おも供養せむには、 ちからをくわへ縁をむすばむが、 念仏をさまたげ、 専修をさふるほどの事は候まじ。
二 一 この世のいのりに、 仏にも神にも申さむ事は、 そもくるしみ候まじ。 後世の往生、 念仏のほかにあらず、 行をするこそ念仏をさまたぐれば、 あしき事にて候へ。 この世のためにする事は、 往生のためにては候はねば、 仏・神カミのいのり、 さらにくるしかるまじく候也。
○三 一 念仏を申させたまはむには、 こゝろをつねにかけて、 口にわすれずとなふ1068るが、 めでたきことにては候なり。 念仏の行は、 もとより行住座臥・時処諸縁をきらわざる行にて候へば、 たとひみもきたなく、 口もきたなくとも、 こゝろをきよくして、 わすれず申させたまはむ事、 返々神妙に候。 ひまなくさやうに申させたまはむこそ、 返々ありがたくめでたく候へ。
◇いかならむところ、 いかならむ時なりとも、 わすれず申させたまはゞ、 往生の業にはかならずなり候はむずる也。 そのよしを御こゝろえて、 おなじこゝろならむ人には、 おしえさせたまふべし。 いかなる時にも申さざらむをこそ、 ねうじてまふさばやとおもひ候べきに、 申されむをねうじて申させたまはぬ事は、 いかでか候べき、 ゆめゆめ候まじ。 たゞいかなるおりもきらはず申させたまふべし。 あなかしこ、 あなかしこ。
四 一 御仏おほせにしたがひて、 開眼してくだしまいらせ候。 阿弥陀の三尊つくりまいらせさせたまひて候なる、 返々神妙に候。 いかさまにも、 仏像をつくりまいらせたるは、 めでたき功徳にて候也。
五 一 いま一いふべき事のあるとおほせられて候は、 なに事にか候覧。 なむ条はゞかりか候べき。 おほせ候べし。
六 ○一 念仏の行あながちに信ぜざる人に論じあひ、 またあらぬ行ことさとりの人1069にむかひて、 いたくしゐておほせらるゝ事候まじ。 異学・異解の人をえては、 これを恭敬してかなしめ、 あなづる事なかれと申たることにて候也。
◇されば同心に極楽をねがひ、 念仏を申さむ人に、 たとひ塵刹ヨノクニのほトイフ かの人なりとも、 同行のおもひをなして、 一仏浄土にむまれむとおもふべきにて候なり。
◇阿弥陀仏に縁なくて、 浄土にちぎりなく候はむ人の、 信もおこらす、 ねがはしくもなく候はむには、 ちからおよばず。 たゞこゝろにまかせて、 いかなる行おもして、 後生たすかりて、 三悪道をはなるゝ事を、 人のこゝろにしたがひて、 すゝめ候べきなり。
◇またさわ候へども、 ちりばかりもかなひ候ぬべからむ人には、 弥陀仏をすゝめ、 極楽をねがふべきにて候ぞ。 いかに申候とも、 このよの人の極楽にむまれぬ事は候まじき事にて候也。 このあひだの事おば、 人のこゝろにしたがひて、 はからふべく候なり。
◇いかさまにも人とあらそふことは、 ゆめゆめ候まじ。 もしはそしり、 もしは信ぜざらむものをば、 ひさしく地獄にありて、 また地獄へかへるべきものなりとよくよくこゝろえて、 こわがらで、 こしらふべきにて候か。
◇またよもとはおもひまいらせ候へども、 いかなる人申候とも、 念仏の御こゝろなむど、 たぢろぎおぼしめす事あるまじく候。 たとひ千の仏世にいでゝ、 まのあたりおしえさせたまふと1070も、 これは釈迦・弥陀よりはじめて、 恒沙の仏の証誠せさせたまふ事なればとおぼしめして、 こゝろざしを金剛よりもかたくして、 このたびかならず阿弥陀仏の御まへにまいりてむとおぼしめすべく候也。
◇かくのごときの事、 かたはし申さむに、 御こゝろえて、 わがため人のためにおこなはせたまふべし。 あなかしこ、 あなかしこ。
◇九月十八日
源空
つのとの三郎殿御返事
つのとの三郎といふは、 武蔵◗国の住人也。 おほご・しのや・つのと、 この三人は聖人根本の弟子なり。 つのとは生年八十一にて自害して、 めでたく往生をとげたりけり。 故聖人往生のとしとてしたりける。 もし正月廿五日などにてやありけむ、 こまかにたづね記すべシルスベシ し。