二十三(599)、 上人と明遍との問答
▲上人と明遍との問答 第二十三
明遍問たてまつりての給はく、 末代悪世のわれらがやうなる罪濁の凡夫、 いかにしてか生死をはなれ候べき。
上人答ての給はく、 南無阿弥陀仏と申して極楽を期するばかりこそ、 しえつべき事と存じて候へ。
僧都のいはく、 それはかたのやうに、 さ候べきかと存じて候。 それにとりて、 決定をせん料に申つるに候。 それに念仏は申候へども心のちるをば、 いかゞし候べき。
上人答ていはく、 それは源空もちからおよび候はず。
僧都のいはく、 さてそれをばいかゞし候べき。
上人のいはく、 ちれども名を称すれば、 仏願力に乗じて往生すべしとこそ心えて候へ。 たゞ詮ずるところ、 おほらかに念仏を申候が第一の事にて候也。
僧0600都のいはく、 かう候。 これうけ給はりにまいりつる候と。 これより前後にはいさゝかも詞なくていでられにけり
上人、 又僧都退出のゝち、 当座のひじりたちにかたりての給はく、 欲界散地にむまれたる物は、 みな散心あり。 たとへば人界の生をうけたる物の、 目鼻のあるがごとし。 散心をすてゝ往生せんといはん事、 そのことはりしかるべからず。 散心ながら念仏申す物が往生すればこそ、 めでたき本願にてはあれ。 この僧都の、 念仏申せども心のちるをばいかゞすべきと不審せられつるこそ、 いはれずおぼゆれと 云云。▽