一三(978)、本願体用事(四箇条問答)
▲或人云、 阿弥陀仏の慈悲・名号余仏に勝、 并◗本願の体用の事。
「設我得仏、 十方衆生、 至心信楽、 欲生我国、 乃至十念、 若不生者、 不取正覚。」 (大経巻上) 云云 「十方衆生」 と云は、 諸仏教化にもれたる常没の衆生也。 この衆生をあ0979われみおぼしめすかたに、 諸仏の御慈悲も阿弥陀仏の御慈悲におなじかるべし。 これは総願に約す。 別願に約する時は、 阿弥陀仏の御慈悲は余仏の慈悲にすぐれたまへり。 そのゆへは、 この常没の衆生を十声・一声の称名の功力を以、 无漏の報土へ生ぜしめむと云御願によて也。 阿弥陀仏の名号の余仏の名号にすぐれたまへると云も、 因位の本願にたてたまへる名号なるがゆへに勝たまへり。 しからずは、 報土の生因となるべからず、 余仏の名号に同ずオナジトべし。
抑阿弥陀仏の本願と云はいかなる事ぞと云に、 本願と云は総別の願に通ずといゑども、 言総コトバミナトイフテ意コヽ別にて、 ロハコトナルナリ別願をもて本願とはなづくる也。 本願と云ことは、 もとのねがひと訓ずるオシヘナリ 也。 もとのねがひと云は、 法蔵菩薩の昔、 常没の衆生を、 一声の称名のちからをもて称してむ衆生を我国に生ぜしめむと云こと也。 かるがゆへに本願といふなり。
問。 本願について体用あるべし、 その差別いかんぞ。
答。 本願と云は、 因位に、 われ仏になりたらむときの名をとなへむ衆生を、 極楽に生ぜしめむとねがひたまへるゆへに、 法蔵菩薩の御こゝろをもて本願の体とし、 名号をもては本願の用とす。 これは十劫正覚のさき、 兆載永劫の修行をはじめ、 願をおこしたまへ0980る時の法蔵菩薩に約して体用を論ずる也。 今は法蔵菩薩は因位の願成就して、 果位の阿弥陀仏となりたまへるがゆへに、 法蔵菩薩おはしまさゞれば、 法蔵菩薩に約して本願の体用を論ずべきにあらず。 たゞしあたえて云へば、 本願の体用あるべし。
体と云について、 二のこゝろあるべし。 一には↓行者をもて本願の体とし、 二には↓名号をもて本願の体とす。
まづ↑行者をもて本願の体とすと云は、 法蔵菩薩の本願に、 成仏したらむ時の名、 一声も称してむ衆生を極楽に生ぜしめむと願じたまへるがゆへに、 今信じて一声も称してむ衆生はかならず往生すべし。 この能称の行者の往生するところをさして、 行者をもて本願の体とすとはこゝろうべきなり。
問。 我仏に成たらむ時の名を称せむものを生ぜしめむと本願には立たまへるがゆへに、 名号を称する者をやがて本願の体ともこゝろうべしや。
答。 これについて与奪の義あるべし。 与 ヨ て云へば、 行者の正◗蓮台にうつりて往生するところをもて本願の体とし、 奪 ダチ ◗云へば、 往生すべき行者なるがゆへに、 当体能称の者をさして本願の体とすべし。 行者について本願の体と云時は、 別に用の義なし。 蓮台に詫して、 往生已後の増進仏道をもて用とす。 これは極楽にての事なり。
次に↑0981名号をもて本願の体とすと云は、 これも成仏の時の名を称せむ衆生を生ぜしめむと願じたまへるがゆへに、 信じて名を唱てむ衆生はかならず生ずべければ、 名号をもて本願の体と云也。 名号を唱つる衆生の往生するは、 名号の用也。 今名号をもて本願の体とすと云は、 法蔵菩薩の御こゝろのそこをもて本願の体とすといひつる時は、 用といはれつる名号也。 しかるを、 今はまさしく名号をもては本願の体と云也。
体用の義は事によりてかはるなり。 喩ともしびのひかりをもてこゝろうべし。 ともしびのあかくもえあがりたるは火の体なり。 灯によりて闇ヤミはれて、 明なアカクナルるところの光は火の用なり。 この光の明なるをもて体とする時は、 その明の中に黒白等の一切の色形のみゆるは明の用なり。 かくのごとく用をもて体とも云事、 常の事なり、 しるべし。
行者の往生するをもて本願の体と云ことは、 実には名号を称せずして往生すべき道理なし、 名号によて往生すべし。 しかりといゑども、 かくのごときの事は、 約束によりて云時は、 行者の往生をもて本願の体ともいはるべし。 名号を本願の体と云時は、 称する行者の往生するは名号の用なり。 しかれば行者は、 あるいは本願の体、 あるいは名号の用にも決定すべきなり。
この道理0982によて、 本願の体に約してこゝろうれば、 ▼本願や行者、 行者や本願、 本願や名号、 名号や本願と、 たゞ一に混乱するなり。 用に約してこゝろへつれば、 名号や行者、 行者や名号といはるべし。 詮ずるところは、 体なくは用あるべからず、 用は体によるがゆへに。 本願と行者、 たゞ一ものにて、 一としてはなれざるなり。
問。 法蔵菩薩の本願の約束は、 十声・一声なり。 一称のゝちは、 法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけて、 名号おば称すべからざるにや。
答。 無沙汰なる人はかくのごとくおもひて、 因位の願を縁じて念仏おも申せば、 これをしえたるこゝちして、 願を縁ぜざる時の念仏おば、 ものならずおもふて念仏に善悪をあらするなり。 これは無按内のことなり。 法蔵菩薩の五劫の思惟は、 衆生の意念を本とせば、 識揚アガリ神タマシヒ飛トブのゆへ、 かなふべからずとおぼしめして、 名号を本願と立たまへり。 この名号は、 いかなる乱想の中にも称すべし。 称すれば、 法蔵菩薩の昔の願に心をかけむとせざれども、 自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、 この名号なり。 しかれば、 別に因位の本願を縁ぜむとおもふべきにあらず。
問。 本願と本誓と、 その差別いかんぞ。
答。 我成仏の時の名を称せむ衆生を生ぜしめむと云は、 本願也。 もしむまるまじくは仏にならじと云は、 本誓也。 総0983じて四十八願は法蔵菩薩のむかしの本願也。 この願にこたへたまへる仏果円満の今は、 第十九の来迎の願にかぎりて化度衆生の御方便はおはしますべきなりと云なり。 阿弥陀仏の名号は余仏の名号に勝たまへり、 本願なるがゆへなり。 本願に立たまはずは、 名号を称すとも无明を破せざれば、 報土の生因となるべからず、 諸仏の名号におなじかるべし。 しかるを阿弥陀仏は 「乃至十念、 若不生者、 不取正覚」 (大経巻上) とちかひて、 この願成就せしめむがために兆載永劫の修行をおくりて、 今已◗成仏したまへり。 この大願業力のそひたるがゆへに諸仏の名号にもすぐれ、 となふればかの願力によりて決定往生おもするなり。 かるがゆへに如来の本誓をきくに、 うたがひなく往生すべき道理に住して、 南无阿弥陀仏と唱てむ上には、 決定往生とおもひをなすべきなり。
たとへば、 たきものゝにほひの薫ぜる衣を身にきつれば、 みなもとはたきものゝにほひにてこそありと云とも、 衣のにほひ身に薫ずるがゆへに、 その人のかうばしかりつると云がごとく、 本願薫力のたきものゝ匂は、 名号の衣に薫じ、 またこの名号の衣を一度南无阿弥陀仏とひきゝてむものは、 名号の衣の匂身に薫ずるがゆへに、 決定往生すべき人なり。 大願業力の匂と云は、 往生の匂なり。 大願業力の往生の匂、 名0984号の衣よりつたわりて行者の身に薫ずと云道理によりて、 ¬観経¼ には
「もし念仏の者は、 まさに知べし、 この人はこれ人中の分陀利華なり」
「若念仏者、 当↠知、 此人是人中分陀利華」
と説なり。 念仏の行者を蓮華に喩◗ことは、 蓮華は不染の義、 モノニソマラズトナリ本願の清浄の名号を称すれば、 十悪・五逆の濁にもそまらざるかたを喩たるなり。 また
「観世音菩薩・大勢至菩薩、 その勝友とす」 (観経)
「観世音菩薩・大勢至菩薩、 為↢其勝友↡」スグレタルトモ
と云へり。 文のこゝろは、 これも往生の匂身に薫ぜる行者は、 かならず往生すべし。 これによて善導和尚も、 三心具足の者おば極楽の聖衆に接したまへり。 極楽の聖衆と云は、 因中説果の義なり。 聖衆となる道理あれば、 当時よりして二菩薩も肩をならべ、 膝をまじえて勝友となりたまふといふこゝろなり。 命終の已後は、 往生して仏果菩提を証得すべきによて、
「まさに道場に座し諸仏の家に生ずべし」 (観経)
「当↧座↢道場↡生↦諸仏家↥」
とときたまへり。 かるがゆへに、 一念に无上の信心をえてむ人は、 往生の匂の薫ぜる名号の衣をいくえともなくかさねきむとおもふて、 歓喜のこゝろに住して、 いよいよ念仏すべしと云へり。