一九(1018)、基親上書・法然聖人御返事

ひやうきやうさんのもとより、 しやうにん御房おむばうへまいらせらるゝ御文おむふみあん基親もとちかはたゞひらにほんぐわんしんさふらひて、 念仏ねむぶちまふしさふらふなり。 料間れうけんさふらはざるゆへなり。

そのゝち何事なにごとさふらふそもそも念仏ねむぶち数遍しゆへんならびにほんぐわんしんずるやう、 基親もとちかあんかくのごとくさふらふ。 しかるに難者なんじやさふらひて、 いわれなくおぼえさふらふ。 このおりがみに、 ぞんのむね、 ひちをもてかきたまはるべくさふらふ難者なんじやにやぶらるべからざるゆへなり。

べちべちぎやうひとにてさふらはゞ、 みみにもきゝいるべからずさふらふに、 おむ弟子でしせちさふらへば、 しむをなしさふらふなりまた念仏ねむぶちしや女犯によぼむはゞかるべからずとまふしあひてさふらふざい勿論もちろんなりロンナシトナリ しゆつはこはくほんぐわんしんずとて、 しゆつひとによにちかづきさふらふでう、 いはれな1019さふらふ 善導ぜんだうは 「をあげて女人によにんをみるべからず」 (龍舒浄土文巻五) とこそさふらふめれ。 このことあらあらおほせをかぶるべくさふらふ恐々くゐようくゐようつゝしみてまふす。  基親もとちか

しやうにん御房おむばうおむへんあん

おほせのむね、 つゝしむでうけたまはりさふらひぬ。 信心しんじむとらしめたまふやう、 おりがみつぶさにみさふらふに、 一分ゐちぶん愚意ぐいぞんさふらふところにたがはずさふらふ。 ふかくずいしたてまつりさふらふところなり。

しかるに近来きんらい一念ゐちねむのほかの数返しゆへんやくなりとまふすいできたりさふらふよし、 ほぼつたへうけたまはりさふらふ勿論もちろんろんなくそくたらげんまふすにことか、 もんをはなれてまふすひとすでにしようをえさふらふか、 いかむ。 もともしむさふらふ またふかくほんぐわんしんずるもの、 かいもかへりみるべからざるよしのこと、 これまたとはせたまふにもおよぶべからざることか。 仏法ぶちぽふ外道ぐゑだう、 ほかにもとむべからずさふらふ

おほよそは、 ちかごろ念仏ねむぶちてんきおいきたりて、 かくのごときの狂言わうごんいでクルハスコトバナリきたりさふらふか。 なほなほさらにあたはずさふらふ、 あたはずさふらふ恐々くゐようくゐようつゝしみてまふす

はちぐわち十七じふしちにち