◎本願寺聖人親鸞伝絵 上
【1】第一段
^*親鸞聖人の出家前の氏姓は藤原氏であり、 *天児屋根尊から数えて二十一代目の*大織冠*藤原鎌足、 その*玄孫の*近衛大将*右大臣*従一位*藤原内麿公、 その六代後の*弼宰相*日野有国卿、 その*五代後の*皇太后宮大進*日野有範公の子息にあたる。
^このようなわけで、 ※聖人は本来、 朝廷で天皇や上皇にも仕え、 栄達の道を開きもするであろうお方であったが、 仏法を盛んにしてあらゆるものを救おうとする因縁がはたらいたことにより、 九歳の春、 伯父の*従三位*日野範綱卿が前*大僧正*慈円の住坊にお連れし、 そこで剃髪し出家されたのである。 そのとき範宴*少納言公と名乗られた。
^それからは、 よく*南岳慧思・*天台智顗に始まる*天台宗の奥深い教えを極め、 広く*三観仏乗の道理に精通し、 連綿と伝わる*比叡山横川の*源信和尚の流れを受け継ぎ、 深く*四教円融の法義を明らかにされたのである。
【2】第二段
^*建仁元年の春、 比叡山での名声を捨てて念仏の法義を求める思いに動かされた*親鸞聖人は、 *源空聖人の*吉水の住坊をお訪ねになった。
^それは、 *釈尊の入滅から長い年月を経て資質の衰えた人々にとって、 限られたものしか歩めない*難行の小路は迷いやすいことから、 すべてのもにに開かれた*易行の大道を求めようとされたのである。 *浄土真宗の教えを受け継ぎ盛んにされた源空聖人が、 極め尽くされたその教えの奥深い道理を説き述べられたところ、 親鸞聖人はたちどころに*他力のはたらきに摂め取られる教えの真意を体得し、 ※どこまでも*凡夫のままで往生する真実の信心を決成されたのである。
【3】第三段
^*建仁三年四月五日の深夜、 明け方に親鸞聖人が夢のお告げを受けられた。 ^¬*親鸞夢記¼ には、 次のように記されている。
^「*六角堂の本尊である*救世観音菩薩が、 厳かで端正な顔立ちをした尊い僧のお姿を現し、 白い色の袈裟を着けて広大な白い蓮の華の上に姿勢正しくお座りになり、 聖人に、 ªもし行者が過去からの因縁により女犯の罪を犯してしまうなら、 わたしが美しい女の身となりその相手となろう。 そして一生の間よく支え、 臨終には導いて極楽に往生させようº とお告げになり、 そして、 ªこれこそがわたしの誓願である。 そなたはこの真意を広く説き伝え、 すべての命あるものに聞かせなさいº と仰せになった。
^そのとき、 聖人が御堂の正面から東の方を見ると、 険しくそびえ立つ山があり、 その高い山に数え切れないほど多くの人々が集い群がっているのが見えた。 そこで仰せの通り、 その山に集う人々すべてに対し、 誓願について説き聞かせ終わったところで、 夢から覚めたのであった」
^よくよくこの記録を拝読して夢の内容を考えてみると、 これはただひとえに、 浄土真宗が盛んになる兆しであり、 念仏の教えが広く知られることを表している。 そうであるから、 聖人は後に、 次のように仰せになっている。
^「仏教は昔、 遠く西のインドに興り、 その経典や論書は今、 はるか東の日本に伝わっている。 これはひとえに*聖徳太子の広大な徳によるもので、 その徳は山よりも高く海よりも深い。 かつて*欽明天皇の時代に仏教がもたらされたことで、 浄土の教えのよりどころとなる経典や論書も伝来した。 そのとき、 もし聖徳太子があついご恩を施してくださらなかったなら、 どうして愚かな凡夫が*阿弥陀仏の*本願に出会えたであろうか。 救世観音菩薩とはすなわち聖徳太子の*本地であり、 仏法の興隆を願って太子としてお姿を現されたことを知らせようと、 本地としてのお姿を示されたのである。
^またそもそも、 もし源空聖人が流罪となられなかったなら、 どうしてわたしもまた流罪の地におもむくことがあったであろうか。 そして、 もしわたしが流罪の地におもむくことがなかったなら、 どうして辺境の地の人々を教え導くことができたであろうか。 これもまた、 師である源空聖人のご恩によるところである。
^源空聖人とは*勢至菩薩の*化身であり、 聖徳太子とは観菩薩が現されたお姿である。 そうであるから、 わたしは二菩薩のお導きにしたがって、 阿弥陀仏の本願を広めているのである。 浄土真宗はこのようにして興隆し、 念仏はこのようにして盛んとなっている。
^このことはみなさとりを得た方の教えによるもので、 愚かで道理に暗いわたしの考えをまじえるものではなく、 二菩薩の願いは、 ただ南無阿弥陀仏の*名号を信じ称えることの他にない。 今日の行者よ、 誤って、 お側に控える二菩薩に仕えることなく、 ただ中心の阿弥陀仏を仰がねばならない」
^このようなわけで、 親鸞聖人は、 阿弥陀仏にあわせて聖徳太子も敬い仰がれている。 これはつまり、 仏法を世に広められた聖徳太子の大いなる恩徳に報謝するためである。
【4】第四段
^*建長八年二月九日の深夜、 明け方に*蓮位房が夢のお告げを受けた。 そこでは聖徳太子が親鸞聖人をうやうやしく礼拝し、 次のように仰せになった。
^「大いなる慈悲をそなえた阿弥陀仏を敬い礼拝したてまつる。 真実の教えを伝え広めるため、 この世に親鸞聖人としてお生まれになり、 さまざまな濁りに満ちた時代の人々を、 間違いなく速やかにこの上ないさとりに導いてくださる」
^このようなわけで、 聖人が阿弥陀仏の化身でいらっしゃるのは明らかである。
【5】第五段
^かつて源空聖人がご在世であった頃、 深いあわれみの心から、 あるときは ¬*選択集¼ を書き写すことをお許しになり、 またあるときは聖人自ら名前をお書きくださった。
^そのことは、 ¬*顕浄土真実教行証文類¼ の第六巻 「化身土文類」 に、 親鸞聖人が次のように仰せになっている。
^「ところでこの*愚禿釈の親鸞は、 *建仁元年に自力の行を捨てて本願に帰依し、 *元久二年、 源空聖人のお許しをいただいて ¬選択集¼ を書き写した。 同年四月十四日には、 ª選択本願念仏集º という内題の文字と、 ª南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、 この念仏にほかならないº というご文、 並びに ª*釈綽空º というわたしの名を、 源空聖人が自ら書いてくださった。
^また同じ日に、 源空聖人の絵像をお借りしてそれを写させていただいた。 同じ元久二年の閏七月二十九日、 その写した絵像に銘として、 ª南無阿弥陀仏º の六字の名号と、 ª本願には、 «わたしが仏になったとき、 あらゆる世界の衆生がわたしの名号を称え、 わずか十回ほどの念仏しかできないものまでもみな浄土に往生するであろう。 もしそうでなければ、 わたしは仏になるまい» と誓われている。 その阿弥陀仏は今現に仏となっておられるから、 重ねて誓われたその本願はむなしいものではなく、 衆生が念仏すれば、 必ず浄土に往生できると知るべきであるº と述べられている ¬*往生礼讃¼ の真実の文を、 源空聖人が自ら書いてくださった。
^また、 わたしは、 夢のお告げをいただいて、 綽空という名をあらため、 同じ日に、 源空聖人は自らその名を書いてくださった。 この年、 源空聖人は七十三歳であった。
^¬選択集¼ は、 *関白*九条兼実の求めによって著されたものである。 浄土真実の教えのかなめ、 他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、 拝読するものは容易にその道理に達することができる。 まことに、 たぐいまれなすぐれたご文であり、 この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。
^長い年月のうちに、 源空聖人の教えを受けた人は数多くいるが、 親疎を問わず、 これを書き写すことを許されたものはごくわずかしかいない。 それにもかかわらず、 わたしは、 すでにその書物を書き写させていただき、 その絵像も写させていただいた。 これは念仏の道を歩んできたことによる恵みであり、 往生が定まっていることのしるしである。
^よって、 喜びの涙を押えて、 その次第を書き記すのである」
【6】第六段
^昔、 源空聖人がご在世のとき、 他力往生の教えを説き広められると、 世の人々はみな聖人のもとに集まり、 ことごとくその教えに帰依した。
^天皇や皇太子、 大臣や公卿が朝廷で政治を行う際にも、 阿弥陀仏の本願やその浄土に心が向けられた。 それだけでなく、 辺境の地のものや庶民に至るまで、 この教えを仰ぎ、 尊ばないものはなかった。 身分の高いものも低いものも、 分け隔てなく聖人のもとを訪ね、 その門前は市場のように多くの人々でにぎわっていた。 門弟としてお側で親しく仕えるものも多く、 その数は三百八十人余りといわれる。 しかしながら、 聖人から直接教え導かれ、 その言葉通りにしているものは極めてまれであり、 わずか五、 六名にも満たなかった。
^あるとき、 親鸞聖人が源空聖人に、 次のようにお申し出になった。
^「わたしは、 *難行道をさしおいて*易行道に移り、 *聖道門を離れて*浄土門に入ることができました。 源空聖人のお言葉を聞かせていただくことがなかったなら、 どうして迷いの世界から抜け出るすぐれた因を身にそなえることができたでしょうか。 喜びの中の喜びであり、 これに過ぎるものはありません。 しかしながら、 同門として親交を深め、 ともに聖人の教えを仰ぐ人々は数多くいますが、 真実の浄土に間違いなく往生できる信心を得ているかどうかは、 お互いに知ることができません。 そこで、 一つには浄土でも親しい友であるかを知るために、 一つにははかないこの世の思い出とするために、 お弟子たちがお集まりの場で質問させていただき、 それぞれのおこころをうかがってみたく思います」
^すると源空聖人は、 「それは実にもっともなことである。 では早速、 明日、 皆が集まったときに申し出られるとよい」 と仰せになった。
^そこで翌日、 門弟たちが集まったところで、 親鸞聖人が、 「今日は、 *信不退か*行不退か、 どちらかの席に分れていただきます。 どちらの席にお着きになられるか、 それぞれのおこころをお示しください」 と仰せになった。
^そのとき、 集まった三百余りの門弟たちは、 その意味をはかりかねるようであったが、 *聖覚法印と*法連坊は、 「信不退の席に着こうと思う」 といわれた。
^そこへ、 遅れてやって来た*法力房が、 「いったい*善信房は、 筆を手に何をしておられるのか」 と尋ねたので、 親鸞聖人は、 「信不退と行不退のどちらかの席に分れていただいているのです」 と仰せになった。 すると法力房は、 「それならわたしも入らねば。 信不退の席に着こうと思う」 といわれたので、 法力房の名を信不退の席に書き加えられた。
^その場には数百人もの門弟たちが集まっていたが、 他に言葉を発するものは誰もいなかった。 これは恐らく、 自力のはからいにとらわれたままで、 *金剛にたとえられる真実の信心を得ていなかったことによるのであろう。 このように皆が沈黙している間に、 親鸞聖人はご自身の名を信不退の席に書き加えられた。
^そしてしばらくして、 師である源空聖人が、 「わたしも信不退の席に連なろうと思う」 と仰せになった。 そのとき、 ある門弟は、 頭を垂れて敬いの思いを表し、 ある門弟は、 内につのる悔しさを滲ませた。
【7】第七段
^親鸞聖人が、 次のように仰せになった。
^「かつて、 師である源空聖人の前で、 *正信房・*勢観房・*念仏房をはじめ、 多くの門弟たちがいたとき、 思いもよらない論争になったことがあった。
^どういうことかというと、 ª源空聖人のご信心とわたしの信心は、 ほんの少しも異なることがあるはずがない。 まったく同じであるº と申したところ、 門弟たちが、 ª善信房がいう、 源空聖人のご信心と自身の信心が等しいという道理はない。 どうして等しいことがあろうかº ととがめたのである。
^そこでわたしが、 ªどうして等しいといえないことがあるだろうか。 なぜなら、 源空聖人の深い智慧や広い知識と等しいというのなら、 まったく身のほどをわきまえないということにもなろうが、 浄土に往生させていただく信心となれば、 ひとたび他力の信心という道理を承って以来、 そこに自分のはからいはまったくまじらない。 そうであれば、 源空聖人のご信心も他力によりいただかれたものであり、 わたしの信心も他力によるものである。 このようなわけで、 等しくて少しも異ならないというのであるº と申したところ、
^源空聖人がはっきりと、 ª信心が異なるというのは、 自力の信についてのことである。 すなわち、 智慧がそれぞれ異なることにより、 自力の信もそれぞれ異なるのである。 他力の信心は、 善人も悪人も、 すべての凡夫がともに仏よりいただく信心であるから、 この源空の信心も、 善信房の信心も、 少しも異なることなくまったく同じなのである。 自分の智慧により信じるのではない。 信心がそれぞれ異なっておられる人々は、 わたしが往生する浄土に、 まさか往生することはないであろう。 よくよく心得なければならないことであるº と仰せになったのである。
^ここに至って、 門弟たちは驚嘆し、 口を閉じて論争がやんだのである」
【8】第八段
^お弟子の*入西房が、 日頃より親鸞聖人の絵像を写させていただきたいという思いを持っていたところ、 その思いを察した聖人が、 「七条辺りにいる*定禅法橋に写させるとよい」 と仰せになった。
^入西房は、 聖人が察してくださったことを深く喜び、 早速、 定禅を招き寄せた。 定禅はただちにやって来て、 聖人のお顔を拝見し、 「昨晩、 実に不思議な夢を見たところです。 その夢の中で拝見した尊い僧のお顔は、 今お会いしている聖人のお顔とほんの少しも違いがありません」 と申しあげるやいなや、 深い喜びと感嘆の念をこめ、 自らその夢のことを次のように語った。
^「尊い姿の二人の僧が訪ねてきて、 その一人が、 ªこちらの尊い僧の姿を絵像にしてほしいと思うのであるが、 どうかあなたに筆を取ってもらいたいº と仰せになりました。 そこでわたしが ªこちらの僧はどういったお方でしょうかº とお尋ねすると、 僧が ª*善光寺を創建した方であるº と仰せになったので、 わたしは合掌してひざまずき、 夢の中で、 これは生きたお姿の阿弥陀仏に違いないと思い、 全身が震えるほどに感動しながら、 あつく敬い尊んだのです。 また、 ªお顔だけを写せばそれでよいº とも仰せになり、 このように会話を交わしたところで、 夢から覚めました。 ^そして今、 こちらの住房にやって来て拝見した聖人のお顔が、 夢で見た尊い僧と少しも違いはありません」
^このように語った定禅は喜びの余り涙を流したのである。 そうであれば、 夢の通りにしようということで、 このときも聖人のお顔だけを写させていただいた。 定禅がこの夢を見たのは、 *仁治三年九月二十日の夜のことである。
^よくよくこの不思議な出来事を考えてみると、 聖人が阿弥陀仏の化身としてこの世に現れた方であることは明らかである。 そうであるから、 聖人が説き広められた念仏の教えは、 恐らくは阿弥陀仏の直接のご説法といえるに違いない。 それは、 *煩悩の汚れのない智慧の灯火を明らかにかかげ、 濁りに満ちた迷いの闇をどこまでも照らし、 *甘露の雨のように素晴らしい教えを広くそそぎ、 功徳の水に渇いたすべての凡夫を潤そうとするためのものである。 仰ぎ信じなければならない。
本願寺聖人親鸞伝絵 下
【9】第一段
^*浄土宗が世に広まったことにより、 *聖道門の諸宗が衰えていった。 奈良の*興福寺や比叡山*延暦寺の高位の学僧たちは、 これは*源空聖人のせいであるとし、 すみやかに処罰すべきであると怒りを込めて訴え出た。
^¬顕浄土真宗教行証文類¼ の第六巻 「化身土文類」 には、 親鸞聖人が次のように仰せになっている。
^「わたしなりに考えてみると、 聖道門のそれぞれの教えは、 行を修めさとりを開くことがすたれて久しく、 *浄土真宗の教えは、 さとりを開く道として今盛んである。 ^しかし、 諸寺の僧侶たちは、 教えに暗く、 何が真実で何が方便であるかを知らない。 朝廷に仕えている学者たちも、 行の見分けがつかず、 よこしまな教えと正しい教えの区別をわきまえない。 このようなわけで、 興福寺の学僧たちは、 *後鳥羽上皇・*土御門天皇の時代、 *承元元年二月上旬、 朝廷に専修念仏の禁止を訴えたのである。 ^天皇も臣下のものも、 法に背き道理に外れ、 怒りと恨みの心をいだいた。 そこで浄土真宗を興された祖師源空聖人をはじめ、 その門下の数人について、 罪の内容を問うことなく、 不当にも死罪に処し、 あるいは僧侶の身分を奪って俗名を与え、 遠く離れた土地に流罪に処した。 わたしもその一人である。 ^だから、 もはや僧侶でもなく俗人でもない。 このようなわけで、 ª*禿º の字をもって自らの姓としたのである。 源空聖人とその門弟たちは、 遠く離れたさまざまな土地へ流罪となって五年の歳月を経た」
^源空聖人は罪人としての名を藤井元彦、 *土佐の国の幡多に流罪とされ、 親鸞聖人は罪人としての名を藤井善信、 *越後の国の国府に流罪とされた。 この他に死罪や流罪とされた門弟たちもいたが、 今は略する。
^そして*順徳天皇の時代、 *建暦元年十一月十七日、 *岡崎中納言範光卿より赦免の直面が下された。 そのとき、 親鸞聖人が前述の通り 「禿」 の字を自らの姓とするよう朝廷に申し出られたところ、 天皇は深く感心しておほめになり、 臣下たちも大いにほめたたえたのである。 赦免の勅命を受けた後も、 親鸞聖人はその地の人々を教え導くため、 もうしばらくとどまっておられた。
【10】第二段
^親鸞聖人は、 越後の国から*常陸の国に移られ、 *笠間郡稲田郷という地に隠居された。 静かに住まわれていたが、 出家のものも在家のものも次々と訪れ、 門戸を閉ざしていても、 辺りは身分を問わず多くの人々であふれた。 仏法を世に広めるという本意がここにかない、 人々を救うという長年の思いがすみやかに満たされたのである。 このとき聖人は、 「*かつて*救世観音菩薩から受けた夢のお告げが、 今まさにその通りになっている」 と仰せになった。
【11】第三段
^親鸞聖人が常陸の国で専修念仏の教えを説き広められたところ、 疑い謗るものはわずかであり、 信じしたがうものが多かった。
^しかし、 *修験道を修める一人の山伏がおり、 何かにつけて念仏の教えに敵意をいだき、 ついには聖人に危害を加えようと、 折に触れその動向をうかがっていた。 聖人が*板敷山という奥深い山を常に行き来しておられたので、 その山でたびたび待ち構えていたが、 行き違いでなかなかその機会を得られないでいた。 そのことをよくよく考えてみると、 何とも不思議に思えてならない。 そこで、 聖人に直接会おうと思い立ち、 住房を訪ねると聖人はためらいもなく出てこられた。
^そのとき、 聖人のお顔をまのあたりにすると、 危害を加えようという思いはたちまち消え失せ、 そればかりか後悔の涙がとめどなくあふれ出た。 しばらくして、 これまで積み重ねてきた思いをありのままに打ち明けたが、 聖人は少しも驚かれた様子はなかった。 その山伏は、 その場で弓矢を折り、 刀や杖の武具を捨て、 修験道で身に着ける頭巾や柿色の衣を脱ぎ捨て、 仏教に帰依して僧となり、 ついには浄土往生の思いを遂げたのである。 まことに不思議なことである。 この僧とは*明法房のことであり、 その名は聖人がおつけになったものである。
【12】第四段
^親鸞聖人は、 関東の地を出発し、 京都への旅路におつきになった。
^ある日、 日暮になって箱根の険しい山にさしかかり、 人の歩いた後を頼り道を進み、 ようやく人家が見えてきたのは、 すでに明け方近く、 月も傾き山に隠れようとする頃だった。
^そこで、 聖人がその人家を訪れて案内を請うたところ、 立派な装束を身に着けたかなり高齢の老人が、 すぐさま出てきて次のようにいった。
^「お社近くのならわしとして、 *権現さまにお仕えするものたちは、 夜通し*神楽を勤めます。 わたしもそこにおりましたところ、 今しがたうとうと眠ったらしく、 夢かうつつか定かでない中に、 権現さまが ªわたしが敬っている客人が、 いまこの道を過ぎようとしておられる。 かならずきちんと礼節を尽くし、 特にお心を込めてもてなすがよいº とお告げになったのです。
^そのお告げから、 まだ覚め終らないうちに、 にわかにあなたがお姿を現されました。 どうしてただ人でいらっしゃるでしょうか。 権現さまのお告げは明らかであり、 仰せの通りあつく敬わねばなりません」
^そして、 丁重に聖人を招き入れ、 さまざまな素晴らしい食べ物を色々とあつらえてもてなしたのでした。
【13】第五段
^親鸞聖人がふるさとの京都に戻り、 過ぎし日々を振り返ると、 すべては移りゆく夢幻のようであった。
^京都でのお住まいも、 跡を残すことを望まないことから、 右京や左京を転々としておられたが、 五条西洞院辺りでは、 良き地としてしばらくとどまっておられた。
^その頃、 かつて関東で念仏の教えを直接受けた門弟たちが、 それぞれに聖人を慕って遠路はるばる集まってこられ、 その中に、 *常陸国那荷西郡大部郷の*平太郎というものがいた。 聖人の仰せにしたがい、 念仏の教えをひとすじに信じていたが、 あるとき領主の従者として*熊野に参詣しなければならないことになり、 その是非をお尋ねするために聖人を訪ねてきたのである。 聖人は、 次のように仰せになった。
^「聖教にはさまざまな教えが説かれている。 どの教えも、 それを聞くものにふさわしいものであれば、 大いに利益がある。 しかし*末法の世の今、 聖道門の行を修めることによりさとりを得ることは、 とてもできない。 すなわち ¬*安楽集¼ に、 ª末法の世には、 どれほど多くのものが仏道修行に励んだとしても、 一人としてさとりを得るものはいないであろうº といわれ、 ªただ浄土の教えだけがさとりに至ることのできる道なのであるº といわれる通りである。 この内容はみな、 経典や祖師方の書かれたものに明らかであり、 釈尊がお説きになった尊い教えである。 そして今、 ªただ浄土の教えだけº といわれるこの真実の教えを、 ありがたいことにインド・中国・日本の祖師方がそれぞれに説き広められている。 そうであるから、 この愚禿が勧めるところに、 自分のはからいはまったくまじらない。
^その中で、 ただひたすら阿弥陀仏に向かう ª一向専念º の法義は、 往生の肝要であり、 浄土真宗の骨格である。 このことは、 *浄土三部経に隠顕があるとはいえ、 表に顕れた言葉からも奥に隠れた本意からも明らかである。 ¬*無量寿経¼ では*三輩段にも ª一向º と勧め、 *流通分では念仏一行を*弥勒菩薩に託し、 ¬*観無量寿経¼ の*九品段ではひとまず ª*三心º と説き、 また流通分でこれを*阿難に託し、 ¬*阿弥陀経¼ では ª*一心º が真実であることを諸仏が証明しておられる。 こうしたことから、 *天親菩薩は*本願の ª三心º を ª*一心º と示し、 *善導大師はこれを ª一向º と釈されている。 したがって、 どの言葉によったとしても、 ª一向専念º の法義が成り立たないことはあり得ない。
^*証誠殿におられる熊野権現の*本地は浄土の教主、 阿弥陀仏である。 そのようなわけで、 あらゆるものと何としても縁を結ぼうとする深いお心で、 権現としてこの世に姿を現されるのである。 その本意は、 縁のあるものすべてを本願の教えに導くことの他にない。 そうであるから、 阿弥陀仏の本願を信じて一向に念仏するものとしては、 公務にしたがい領主に仕える中で、 熊野の地におもむき権現の社に参詣することは、 決して自ら願って行うわけではない。 したがって、 権現に向かって、 心の内に嘘偽りをいだいている身でありながら、 外見だけ賢者や善人らしく励む姿を示してはならず、 ただ本地である阿弥陀仏の本願におまかせしなければならない。 謹んで申しあげる。 これは神の権威を軽んじることではなく、 神も決して怒りを向けられることはない」
^聖人のこの仰せにしたがい、 平太郎は熊野に参詣した。 道中の作法を重んじることは特にせず、 ただ愚かな凡夫の心情のままに、 ことさらに身心を清めることもなかった。 いついかなるときも阿弥陀仏の本願を仰ぎ、 聖人の教えに忠実にしたがっていたのである。 そして無事に熊野に到着した日の夜、 夢の中で、 証誠殿の扉が開いて中から高貴な身なりの男が現れ、 「そなたはどうしてわたしを軽んじ、 身心を清めることなく参詣するのか」 と告げられた。
^そのとき、 その男に向き合って、 座った親鸞聖人がにわかに現れ、 「このものはわたしの教えにしたがい念仏しているものである」 と仰せになった。 それを聞いた男が姿勢をただし、 深く敬意を込めて礼拝し、 再び言葉を発する様子がなくなったところで、 夢から覚めた。 このときいただいた不思議な思いは、 とても言葉にできるものではない。
^熊野から戻った後、 平太郎は聖人の住房を訪ね、 このことを詳しく申しあげると、 聖人は 「そういうことである」 と仰せになった。 これもまた不思議なことである。
【14】第六段
^親鸞聖人は、 *弘長二年の十一月下旬頃より、 少しばかり病気になられたご様子であった。
^それからは世間のことを口にされず、 ただ阿弥陀仏のご恩の深いことを述べ、 他のことを声に出すことなく、 ひたすら念仏を称えて絶えることがなかった。 そして、 その月の二十八日の*正午頃、 頭を北に、 顔を西に向け、 右脇を下にして横たわり、 ついに念仏の声の絶える時が来た。 お年は九十歳に達していらっしゃった。
^住房は京の都、 押小路の南、 万里小路の東の辺りにあったので、 そこから遠く鴨川の東の道を経て、 東山の西の麓、 *鳥辺野の南辺りの*延仁寺で葬送した。 そして、 遺骨を拾い、 同じ東山の麓、 鳥辺野の北辺りの大谷の地に納めたのである。
^聖人の臨終に立ち会った門弟や、 親しく教えを受けた人々は、 それぞれにご在世の頃を思い、 世を去られた今の時を悲しみ、 聖人を慕う思いから涙を流さないではいられなかった。
【15】第七段
^*文永九年の冬頃、 東山の西の麓、 鳥辺野の北、 大谷の地に納めた遺骨を改葬し、 そこからさらに西、 吉水の北辺りに納め直し、 その地に仏堂を建て、 親鸞聖人の*影像を安置した。
^この頃には、 聖人がお伝えになった浄土真宗の教えがいよいよ盛んとなり、 残されたお言葉がますます世に広まるその様子は、 かつてご在世であた頃をはるかにしのいでいた。 門徒たちは全国各地に満ちあふれ、 その流れをくむ人々はあちこちに行き渡り、 その数はもはや幾千万とも知れない。 受け継いだ教えを大切にし、 報謝の思いを強く持つものは、 出家のものも在家のものも、 老いも若きもみなそれぞれ、 年ごとに聖人の廟堂まで足を運んでいる。
^聖人のご在世の間には、 数多くの不思議な尊い出来事があったが、 すべてを詳しく述べることはとてもできない。 しかしその中で、 略して記したところである。
^奥書には次のように記されている。
このように、 親鸞聖人のご生涯の絵巻を作成したのは、 ただ聖人の恩徳に報謝するためであり、 いたずらに物語を楽しむためではない。 それに加えて、 筆をとり文章を書き並べている。 この体裁はいかにも未熟であり、 言葉も浅くつたないものである。 仏がたにも人々にも、 ご覧いただくには痛ましく恥ずかしい。 しかしながら、 その扱いはただ後の世の賢明な方々にお任せすることとし、 今はわたしの愚かな誤りを顧みることはしないこととする。
*永仁三年十月十二日、 夕方近く、 草稿を書き終えた。
絵師 *法眼*康楽寺*浄賀
^*暦応二年四月二十四日、 ある写本により急ぎこの絵巻を書き写した。 先年わたしがこれを作成して以来、 一本を所持していたが、 戦乱により火災があった際、 焼失して行方が知れなくなった。 それが今、 思いがけずある写本を入手したので書き写し、 これを残し置くものである。
*康永二年十一月二日、 書き終えた。
僧 釈*宗昭
絵師 *大法師*宗舜 康楽寺浄賀の弟子
大織冠 天智天皇が改訂した冠位の最上位。 藤原鎌足しか授与例はない。
藤原鎌足 (614-669) 中臣鎌足のこと。 藤原氏の祖。 原文の細註に 「鎌子内大臣」 とある。
玄孫 曾孫の子。 孫の孫。
近衛大将 宮中の護衛を司る近衛府 (令外官) の長官。
右大臣 左大臣を補佐し太政官の政務を司る官職。 原文の細註に 「贈左大臣」 とある。
従一位 官人の序列を表す等級。 正一位に次ぐ位階。
弼宰相 弼は違法行為を監察する弾正台の次官。 宰相は政務を審議する参議 (令外官) の官職。
日野有国 (943-1011) 藤原有国のこと。
五代後 有範は有国の六代の孫にあたる。 ここでは有範の父経尹を省いた系図によったと考えられている。
聖人は本来、 朝廷で天皇や上皇にも仕え 原文は 「
朝廷に仕へて霜雪をも戴き」 であるが、 このなか、 「霜雪をも戴き」 について、 「頭髪が白くなるまで朝廷に仕える」 とみる解釈と、 公卿は御所で傘を用いることができずそのまま参内していたことから 「天皇や上皇のお側に仕える」 とみる解釈がある。 本現代語訳では、 後者にしたがって訳しておいた。
従三位 官人の序列を表す等級。 正三位に次ぐ位階。
大僧正 僧官の最上位。
比叡山横川 比叡山延暦寺内の一地域。 比叡山三塔の一。
親鸞聖人 原文の細註に 「上人 (親鸞) 二十九歳」 とある。
親鸞夢記 同書は現存しないが、 高田派専修寺に ¬親鸞夢記云…」 (真仏上人書写) と記す文書が伝わる。
欽明天皇 6世紀中頃。 継体天皇の嫡子。
釈綽空 親鸞聖人のこと。
関白 成人の天皇を補佐し政務を行う令外官の官職。
信不退 阿弥陀仏の本願を信じる一念に浄土往生が決成するという立場。
行不退 念仏の行をはげみ、 その功徳によって浄土往生が決成するという立場。
善信房 親鸞聖人のこと。
金剛 何ものにも破壊されない堅固なことをいう。 このことから最上・最勝の意に用いられる。
後鳥羽上皇 後鳥羽天皇 (1180-1239) は1183年に即位し、 在位十五年で譲位して上皇となった。 承久三年 (1221)、 北条氏追討の院宣を下したが失敗して隠岐に配流された (承久の乱)。
土御門天皇 (1195-1231) 後鳥羽天皇の第一皇子。 1198年から1210年まで在位。 承久の乱の後、 自ら選んで土佐の国に、 そして阿波の国に赴いた。
土佐の国の幡多 現在の高知県四万十市および幡多郡。 源空聖人は実際には讃岐 (現在の香川県) に留まった。
越後の国の国府 現在の新潟県上越市付近。
順徳天皇 (1197-1241) 後鳥羽天皇の皇子。 土御門天皇に続き、 1210年から1221年まで在位。 承久の乱に破れ、 土佐の国に配流された。 原文の細註に 「諱守成、 佐渡院と号す」 とある。
岡崎中納言範光 (1154-1213) 藤原範光のこと。 式部少輔従三位範兼の子。 ただし、 承元元年 (1207) に出家しており、 当時の赦免官は藤原光親であった。
常陸の国 現在の茨城県。
笠間郡稲田郷 現在の茨城県笠間市稲田町。
かつて…お告げ ¬御伝鈔¼ 上巻第三段の 「親鸞夢記」 のこと。
修験道 日本古来の山岳信仰と密教などが習合したもの。 山岳で厳しい行を修め、 験力を得て加持祈祷の効験をあらわすこと。
板敷山 茨城県の筑波山地にある山。 当時、 筑波山地は修験道の行場となっていた。
権現 箱根権現のこと。 箱根神社 (神奈川県足柄下郡箱根町) の祭神。 当時、 流布していた本地垂迹説 (日本の神を仏・菩薩の仮の現れとする説) によって、 権現 (仮の現れという意の称号) と呼ばれた。
神楽 神社の祭りで神に奉納する歌舞のこと。
常陸国那荷西郡大部郷 現在の茨城県水戸市飯富町。
平太郎 生没年未詳。¬親鸞聖人御消息¼ (33) に出る 「おほぶの中太郎」 と同一人物ともいわれる。 水戸市飯富町には真仏寺があり、 平太郎真仏を開基とする。
熊野 和歌山県南部にある熊野本宮大社 (本宮)・熊野速玉大社 (新宮)・熊野那智大社 (那智) の熊野三山。 本宮の証誠殿は特に尊崇された。
三輩段 浄土往生を願うものを、 その修行の別によって上輩・中輩・下輩の三種に区別して説かれた一段。
流通分 その経の教えを伝持流通することを勧める部分。
九品段 浄土往生を願うものを、 その修行の別によって九種の階位に区別して説かれた一段。
三心 至誠心・深心・回向発願心の三心。 ここでは他力の三心の意。 第十八願の三心に同じ。
一心 「名号を執持すること…一心にして乱れざれば」 とある。 ここでは他力の一心の意。
本願の三心 第十八願の至心・信楽・欲生の三心。
一心 ¬浄土論¼ に 「世尊、 われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて…」 とある。 ここでは他力の一心の意。
証誠殿 熊野本宮の主殿の称。
弘長二年の十一月下旬頃 1263年にあたる。 なお、 弘長二年のほとんどの期間は西暦1262年に該当するが、 十一月二十八日は新暦の一月十六日にあたる。
正午 原文は 「午時」 であるが、 「未時」 (午後二時頃) とする史料もある。
鳥辺野 京都東山の西南麓一帯の地名。 鳥辺山ともいう。 平安時代から荼毘所および墓所であった。
延仁寺 鳥辺野にあった火葬場の寺と伝えられている。
影像 本願寺の御影堂に安置されている親鸞聖人の像 (木像) のこと。 寛元元年 (1243) 聖人71歳のときの自刻の像といわれ、 聖人が往生された後、 その遺灰を漆に混ぜて像全体に塗り込めたと伝えられることから、 骨肉御影・生身御影ともいわれる。
永仁三年 1295年。 親鸞聖人没後33年。 覚如上人26歳。
法眼 僧侶の位の一つで、 仏師や絵師などに朝廷から授けられた位階。
康楽寺 浄賀をはじめ宗舜、 円寂など、 代々絵師として本願寺と深いかかわりをもつ。 西仏を開基とする長野市篠ノ井塩崎にある本願寺派の寺院とする説もある。
浄賀 康楽寺派の絵師。 ¬親鸞伝絵¼ の初稿本の絵師。
暦応二年 1339年。 親鸞聖人没後77年。 覚如上人70歳。
康永二年 1343年。 親鸞聖人没後81年。 覚如上人74歳。
大法師 仏師や絵師などに朝廷から授けられた位階。
宗舜 康楽寺流の絵師。 浄賀の子。