0759◎歩船鈔 本
◎一代の諸教区に分れて、 諸宗の所談各別なり。 雖↠別帰する所の極理は一致なり。 何も生死を離て涅槃を証し、 迷を翻して悟を可↠得故なり。
求那跋摩三蔵の遺文の偈を見に、
「緒論おのおの異端なれども、 修行するに
理二つなし、 偏執すれば是非あり、 達する者は異諍なし」
「緒論各異端、 修行理無↠二、 偏執有↢是非↡、 達者無↢異諍↡」
と云へり。 誠に有↢智解↡、 仏法の大意に通達せん人は、 不↠可↠有↢偏執↡。 然而、 機根万差なるが故に、 仏教又万別なり。 各有縁の教に依て修行せば、 速に解脱を可↠得なり。
其中に四家の大乗と云は、 法相・三論・華厳・天臺なり。 此外に真言・倶舎・成実・律宗を加て八宗とす。 又仏心宗を加て九宗とす。 又浄土宗を加て十宗と云べし。 是日本に流布せる宗なり。 是等の諸宗皆一仏の所説より出て、 悉く無上菩提に可↠至門なり。
・法相宗
一 法相宗の意は有・空・中の三時教を立て、 有・空の二教をば方便とし、 中道の教を取て真実とす。 有教と云は、 人は空にして法は有なりと談ず。 阿含等の小乗経の所説是なり。 空教と云は、 人法ともに空なりと説く。 諸部の般若には此旨を0760明す。 中道教と云は、 非有非空の深義を顕す。 ¬華厳¼・¬深密¼ 等の諸大乗経是也。
彼中道の深理と云は、 唯識唯心の宗旨なり。 所謂 ¬華厳経¼ (意) には 「三界唯一心心外無別法」 と説、 ¬深密経¼ (唐訳巻三分別瑜伽品) には 「諸仏の所縁は唯識の所現なり」 と説ける、 其の意なり。
此唯識に付て五重唯識と云事あり。 其の五重と云は、 一には遣虚存実識、 二には捨濫留純識、 三には摂末帰本識、 四には隠劣顕勝識、 五には遣相証性識なり。 虚と云ひ、 濫と云、 末と云、 劣と云、 相と云は皆心法の外の諸法を指す。 実と云ひ、 純と云、 本と云、 勝と云、 性と云ふは、 悉く心の一法を指すなり。 されば云所の五重は、 総じて唯識唯心の一理を成ずるなり。
如↠此唯識の理を観じて真観の位に叶ひぬれば、 「心仏及衆生是三無差別」 (晋訳華厳経 巻一〇夜摩説品) の故に、 転迷開悟して成仏得道すと讃ずるなり。
其修行の位に於て五位あり。 五位と云は、 一には資糧位、 二には加行位、 三には通達位、 四には修習位、 五には究竟位なり。 此五位は即菩薩の五十一位なり。 五十一位と云は、 五十二位の中に等覚を不↠立なり。
資糧位と云は、 大乗の順解脱分の位なり。 五十一位の内には、 十信・十住・十行・十廻向の四十位なり。
加行位と云は、 大乗の順結択分の位なり、 是十廻向の後心なり。 是までは地前なり。
通達位と云は、 是より已上は地上な0761り。 即ち見道の位なり、 十地の中には初地なり。
修習位と云は、 修道の位なり、 是第二地より第十地に至までの位是なり。
究竟位と云は、 仏果なり、 是妙覚なり。
此の宗は ¬瑜伽論¼・¬唯識論¼ を以て本論とし、 慈恩・淄州・濮陽三師の釈を以て依馮として、 智解を極め観門を修して出離を求なり。
而に彼の五位の中に入ぬれば、 道位なり、 其より以前は皆凡夫なり。 縦ひ一分の教文を学して唯識の観解を成とも、 資糧の位にも叶はんこと不↠輒、 況や、 加行通達等の位に難↠登。
されば彼宗の高祖天親菩薩、 慈恩大師、 西方を以て所期とし、 各念仏を勧め給へり。 所謂天親は ¬浄土論¼ を製して、 一宗の元祖なり。 慈恩は ¬西方要決¼ を記して、 安養の往生を願へり。
是本宗の意、 難行にして歴劫の修行叵↠成故に、 易往の行を選て自利利他の要とし給へり。 まして末代無智の道俗、 解行叵↠及、 道位難↠進ければ、 偏に弥陀の本願に帰して念仏往生を期せんは、 慥なる出離の可↠道。
・三論宗
一 三論宗の意は、 二蔵教をたてゝ一代を決判す。 二蔵と云は、 一には声聞蔵、 二には菩薩蔵なり。 声聞蔵と云は小乗なり、 菩薩蔵と云は大乗なり。 小乗には二乗の断惑修入の道を明し、 大乗には菩薩の成仏得果の相を示すなり。
此宗の得道の門には八不の正観をもて入理の真要とす。 八不と云は、 生・滅・去・来・一・異0762・断・常の見を離なり。 所謂不生・不滅・不去・不来・不一・不異・不断・不常是なり。 能く此の深理を観達して、 誠に八不の正観に叶ひなば、 生死として流転の果報を無↠可↠招、 去来として善悪の生所に無↠可↠趣、 一異として生死の無↠可↠隔、 断常として空有の無↠可↠迷なり。
凡此宗の意は一を以て三を破す。 三息しぬれば一も亡ずと云て、 一乗と説は三乗の執を破せんが為なり。 三乗の執、 亡じなば一乗も不↠可↠有。 又空と説は有を遣が為なり。 有亡じなば、 空も不↠可↠存。
されば嘉祥の釈には或は
「わずかに一念を起さば、 すなはち断常に堕す」 (註論疏巻三意)
「纔起↢一念↡、 即堕↢断常↡」
とも云ひ、 或は
「すこしき心を寄せんと欲すれば、 すなはち仏を乖き傷る」 (法華遊意)
「微欲↠寄↠心、 即乖↢傷仏↡」
とも釈して、 善悪の情量を忘て、 一念一念なる所を観達せんとするなり。
修行の道位を論ずる事は、 前の五位を此宗にも談ずれども、 位々の修行を立るは教門の施設なり。 一念に五位を超を以て其極致とするなり。
三論と云は一には ¬中論¼、 四巻あり、 龍樹菩薩の造なり。 二には ¬百論¼、 二巻あり、 提婆菩薩の造なり。 三には ¬十二門論¼、 一巻あり、 又龍樹の造なり。
此の三部の論は一代通申の論なり。 今の三論宗の意は、 一代の諸教に於て浅深勝劣を論ぜず。
「諸大乗経、 道を見ること別なし」 (大乗玄論巻四意)
「諸大乗経、 見↠道無↠別」
とも云、
「大小乗経、 見道別なし」 (大乗米論巻五意)
「大小乗経、 見道無↠別」
とも云て、 諸経皆証道を顕す事は一なりと解了し、
「たっとぶことは悟を得るにあり、 義に定りなし」 (法華遊意)
「貴在↠得↠悟、 義無↠定也」
と0763云て、 彼を権とし是を実とする事なし、 只一代の所説を一理なりと意得なり。
されば龍樹の論判、 嘉祥の釈をよく学して、 八不の正観を凝し、 生死の源を断じて速に成仏すべし。 然而我等無始曠劫より以来流来生死の間、 久煩悩の為に被↢纏縛↡、 一念不滅の観解を叵↠成、 不来・不去の正見に難↠住。
随て此宗の高祖龍樹菩薩は ¬十二礼¼ を作て 「故我頂礼弥陀尊」 と讃じ、 ¬十住毘婆娑論¼ を述て易行の要路を訓給へり。 是故に、 浄土の大祖とせり。 嘉祥大師又 ¬観経の疏¼ を造て、 安楽の往生を勧給へり。
況、 末代の劣機をや、 況や、 辺国の下根をや。 観難成就の乱想をもて八不甚深の義趣を伺よりは、 念仏易行の道に帰して一念往生の安心を専にすべき者なり。
・華厳宗
一 華厳宗の意は、 五教を立て一切の仏教を摂す。 五教と云は、 一には小乗教、 阿含等の諸の小乗経の意なり。 二には始教、 ¬深密¼ 等の諸大乗経に ¬瑜伽¼・¬唯識¼ 等の諸大乗論の意なり。 三には終教、 ¬涅槃経¼ 等の意なり。 四には頓教、 是は別の部なし。 只諸大乗経の中の即身是仏の頓説是なり。 五には円教、 ¬華厳¼・¬法華¼ の意なり。
此の五教の中に、 頓教・円教を以て一乗究竟の教とす。 其の教の意は三界唯心染浄同体を以て本とす。 是則彼 ¬経¼ (唐訳華厳経巻一七梵行品意) の文に、 或は0764
「一切の法はすなはち心の自性なりと知る、 恵を具足する身は、 他によりて悟らず」
「知↢一切法即心自性↡、 具↢足恵↡身、 不↢由↠他悟↡」
と説き、 或は
「もし人三世の一切の仏を了知せんと欲はば、 まさにかくのごとく観ずべし、 心もろもろの如来を造る」 (晋訳華厳経巻一〇夜摩説偈品)
「若人欲↣了↢知三世一切仏↡、 応↢当如↠是観↡、 心造↢諸如来↡」
と云ひ、 或は
「三界はただ一心なり、 心の外に別の法なし、 心と仏とおよび衆生と、 この三差別なし」 (華厳経意)
「三界唯一心、 心外無↢別法↡、 心仏及衆生、 是三無↢差別↡」
と説ける、 其意なり。
是皆仏界・衆生界、 其の体性同体にして、 只一心の所作なる事を明せる文なり。 此一心を尋ぬるに、 其体無性にして、 而も染浄の諸法の体となる。 所謂衆生の諸法は、 衆縁の他に依て生ずれば、 其体無性なり。 真智又了縁に依て顕現するが故に、 其体無性なり。 共に縁より生ずるに依て、 縁性同体にして無性を体とす。 ¬法華経¼ (巻一方便品) に
「諸仏両足の尊、 法は常無性なると知る。 仏種は縁より起る。 このゆへに一乗を説く」
「諸仏両足尊、 知↢法常無性↡。 仏種従↠縁起。 是故説↢一乗↡」
と云へる、 其意なり。
是の故に、 此の心自無性と不↠知無明と云ひ、 又は迷となづく。 衆生は此の迷に依て業を作り、 業に依て報を受る故に、 久く生死に流転す。 而るに始て了縁に遇ふて、 此心自無性なりと知るを真智と云ひ、 又は悟となづく。 此悟に依止して作る所の業を菩薩の行となづく。 此行終功を積みて無始の妄習忽に尽きぬれば、 本覚円明の体に叶ふを妙覚果満の位と名くるなり。
大乗究竟の妙談、 誠に可↠欣と云へども、 彼の無性の悟を得て無始薫習の迷を翻こと、 おぼろげの浅機は叵↠叶。 在家下根の輩、 思寄ぬ事なり。 されば弥陀の浄土に生じて彼妙0765解を発せん事は、 尤可↠巧。 無生の悟を開なば、 何の法門をか達せざらん。
随て ¬華厳経¼ (般若訳巻四〇行願品) にも普賢の願行を説て、 極楽の往生を勧たり。
「願はくはわれ命終せんと欲せん時に臨みて、 一切のもろもろの障を尽除して、 まのあたりにかの仏阿弥陀を見たてまつりて、 すなはち安楽国に往生することを得ん」
「願我臨↧欲↢命終↡時↥、 尽↢除一切諸障↡、 面見↢彼仏阿弥陀↡、 即得↣往↢生安楽国↡」
等云へる文、 是なり。 彼宗の祖師元暁も ¬遊心安楽道¼ と云文を作て、 念仏を信じ西方を嘆ぜり。 況や、 末代の凡夫只弥陀の利生を仰ぐべきなり。
・天台宗
一 天臺宗の意は、 一代を料簡するに、 四教あり五時あり。 四教と云は、 一には三蔵教、 二には通教、 三には別教、 四には円教なり。 五時と云は、 一には華厳、 二には阿含、 三には方等、 四には般若、 五には法華涅槃なり。 此の五時に説所の教は、 上の四教を不↠出なり。 所謂五時の内、 華厳には別・円二教を説き、 阿含には只三蔵教を説、 方等の諸経には具に四教を説き、 般若には通・別・円の三教を説き、 法華には只円教を説き、 涅槃には又四教を説くなり。
此の中に、 只第五時の法華を以て、 諸仏出世の本懐とし、 円頓・円融の妙法と名く。 されば四教の中に、 余の三教は円教に対すれば非↢真実↡。 五時の中に、 以前の四味は皆法華一実の機を調熟せんが為の方便なりと云て、 只一大円教のみ衆生出離の直道なりと談ずるを此宗の大綱とするなり。
然者、 三教四味の方便をば、 暫く閣↠之。 法華円0766教の意に付て云↠之、 一念三千、 三諦円融の観を凝して、 煩悩即菩提生死即涅槃と達するを以て宗旨とす。 其の一念三千と云は、 染浄の諸法を云に、 三千に不↠過。 此三千の諸法、 宛然として、 衆生の心性に居すと云事なり。 則今の ¬経¼ (法華経巻一) の 「方便品」 に、 「唯仏与仏乃能究尽諸法実相」 と説る、 是なり。
三千の諸法と云は、 凡聖合論するに十界あり。 十界と云は、 一には地獄、 二には餓鬼、 三には畜生、 四には修羅、 五には人、 六には天、 七には声聞、 八には縁覚、 九には菩薩、 十には仏なり。 此内初の六を六凡と云ひ、 後の四を四聖と号す。 総じて是を十界と云なり。
此の十界に一界ごとに各十如是を具足せり。 十如是と云は、 同次下の文に 「所謂諸法、 如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」 (法華経巻一方便) と云へる是なり。 所謂 「如是相」 を初とし 「如是本末究竟等」 を終として、 総じて十の如是あるなり。如是と云は、 云所の相も性も体も力も作も因も縁も果も報も本末も法爾として不↠動義なり。 「本末究竟等」 と云は、 此の相性等本末究竟して等しと云義なり。 是則如是の義なり。
如↠此十界の衆生、 各十如是を具すれば十界百如なり。 而に十界に互に十界を具足して、 地獄にも余の九界を具し、 餓鬼にも余の九界を具し、 乃至仏界にも0767余の九界を具すれば、 百界となる。 故に百界に千如是あり、 是を百界千如と云ふ。 此の百界千如を三種の世間に約すれば、 三千と成なり。
三種の世間と云は、 一には五陰世間、 二には衆生世間、 三には国土世間なり。 五陰は五薀なり。 五薀と云は、 一には色薀、 是五根・五境等の一切の色法なり。 二には受薀、 是苦・楽・捨の三受なり。 三には相薀、 是黒白・長短・男女・方円等の想を取なり。 四には行薀、 是色心の二法を除て、 余の一切の有為の法なり。 行と云は、 造作遷流の義なり。 五には識薀、 是心王なり。 已上是を五陰世間と云、 世間は間隔の義なり。 衆生世間と云は、 彼五陰が造作する所の有情なり。 国土世間と云は、 彼有情の依止する所の依報なり。
是を総じて三千の諸法と云。 此三千の諸法、 衆生の一念の心性に具して、 本来不動なるを一念三千の法門と云なり。 ¬止観¼ の第五 (巻五上) に
「この三千は一念の心にあり、 もし心なからんのみ、 介爾にも心あればすなはち三千を具す」
「此三千在↢一念心↡、 若無↠心而已、 介爾有↠心即具↢三千↡」
と云ふ。 ¬弘決¼ (輔行) の第五に是を受て、
「介爾といふはいはく刹那の心なり、 無間に相続していまだかつて断絶せざれば、 わづかに一刹那にも三千具足す」
「言↢介爾↡者謂刹那心、 無間相続未↢曽断絶↡、 纔一刹那三千具足」
と云へる、 此意なり。
此の三千の観を修するに空・化・中の三諦の観あり。 空諦と云は、 此の三千の諸法を有なりと観じ、 中諦と云は、 此三千の諸法を非有非空と観ずるなり。 同0768き ¬弘決¼ (輔行巻五) の釈に
「心性動ぜざるに、 仮に中の名を立て、 三千を亡泯するに、 仮に空の称を立て、 亡ずといへどもしかも存ずるに、 仮に仮の号を立↢」
「心性不↠動、 仮立↢中名↡、 亡↢泯三千↡、 仮立↢空称↡、 雖↠亡而存、 仮立↢仮号↡」
と云へる、 其文なり。 文の意は、 「亡泯三千」 は空観、 「雖亡而存」 は仮観なり、 其意見安し。 中道観の非有非空の義を述るに、 「心性不動」 と云は、 衆生の心性は本来非有非空の体にて不可思議なるが故に、 如↠此釈するなり。 ¬釈籤¼ の第一 (巻二) に
「有りといはんとすれば、 すなはち一念すべて無し、 いはんや十界の質像あらんや。 無しといはんとすれば、 すなはちまた三千の慮想を起↢、 いはんや一界の念慮をや。 この有無の思をもつてすべからず、 かるがゆへにすなはち一念の心中道冷然なり」
「言↠有、 即一念都無、 況有↢十界質像↡耶。 言無、 則復起↢三千慮想↡、 況一界念慮耶。 不↠可↠以↢此有無思↡、 故則一念心中道冷然」
と云へる、 此意なり。
此の三諦互に双非・双照の用あり。 双非と云は、 空は有を破し、 有は空を破し、 中道は空有を破するなり。 双照と云は、 此の三諦互に破すれども、 而も宛然として存ずれば、 可↠破所も無く、 可↠取所も無く、 円融無にして不可思議なり。 是を円融の三諦と云、 三諦一諦非三非一と云て、 三諦にして而も一諦なり、 三諦にも非ず、 又一諦にも非るなり。 衆生は此の三諦の理を不↠知が故に、 無始より以来生死に輪廻せり。 三諦の理と云は、 即真如法界の一理なり。 真如と云は仏性なり。 又法性とも法身とも第一義諦とも如来蔵とも云へる。 皆是一法の異名なり。
此の真如法界の理は、 遠く外に不↠可↠求。 只是三千の諸法なれば、 地獄も真如なり、 餓鬼も真如なり、 真如を実の仏と名くれば、 十界悉0769く仏界と云事明なり。 彼六道の千如の中に、 「如是因」 は業道なり、 「如是縁」 は煩悩道なり、 「如是果」 は苦道なり。 是皆真如実相の体なれば、 煩悩業苦の三道、 即ち法身・般若・解脱の三徳なり。 又法報応の三身なり。 如↠此観達すれば煩悩即菩提生死即涅槃なり。
円頓の行者、 此三諦の観を修行するに、 薄地の凡夫より妙覚の極位に至まで、 六即の次位あり。 六即と云は、 一には理即、 二には名字即、 三には観行即、 四には相似即、 五には分真即、 六には究竟即なり。
理即と云は、 三諦の理を一心に具足したれども、 其理を不↠知位なり。 是則凡夫なり。 ¬止観¼ の第一 (巻一下) に此の位を釈するに、
「一念の心すなはち如来蔵の理なり。 如の故にすなはち空なり、 蔵の故にすなはち仮なり、 理の故にすなはち中なり、 三智一心の中に具して不可思議なり」
「一念心即如来蔵理。 如故即空、 蔵故即仮、 理故即中、 三智一心中具不可思議」
と云へり。 底下の凡夫は皆此位なり。
名字即と云は、 三諦の名字を聞て聊か解すれども、 未↠至↢観↡位なり。 同き釈に
「あるひは知識に従ひ、 あるひは経巻に従↢、 上に説くところの一実の菩提↡聞きて、 名字の中において通達解了して、 一切の法はみなこれ仏法なりと知る」 (止観巻一下)
「或従↢知識↡、 或従↢経巻↡、 聞↢上所↠説一実菩提↡、 於↢名字中↡通達解了、 知↢一切法皆是仏法↡」
と云へる、 是なり。 能く此の宗を学せん人の中にも、 此の位に至るは可↠叵↠有なり。
観行即と云は、 則三諦の観行を修する位なり。 於↠之五品の位あり。 五品と云は、 第一には十心具足の位なり。 十心と云は、 一には観不思議境、 二には起慈悲心、 三には巧安止観、 四には破法遍、 五には識通塞、 六には修0770道品、 七には対治助開、 八には知次位、 九には能安忍、 十には無法愛なり。 第二には読誦経典の位なり、 所謂 ¬法華経¼ を読誦するなり。 第三には更加説法の位なり。 第四には兼行六度の位なり。 第五には正行六度の位なり。 是外凡の位なり。
相似即と云は、 六根清浄の位なり。
「もろもろの説くところの法、 その義趣に随ひて、 みな実相とあひ違背せず」 (法華経巻六法師功徳品)
「諸所↠説法、 随↢其義趣↡、 皆与↢実相↡不↢相違背↡」
と云は此の位の相なり。 五十二位に配当せば十信の位なり、 是内凡なり。 未↠至↢証位↡、 相似の智慧を発するが故に、 相似即と云なり。
分真即と云は、 断無明証中道の位なり。 是十住・十行・十廻向・十地・等覚の四十一位なり。 一位ごとに各一品の無明を断じて一分の中道の理を顕す、 是証位なり。 未↠登↢究竟↡、 分に法性の真理を証するが故に、 分真の名を立つるなり。
究竟即と云は、 妙覚の位なり。 元品の無明を断じて究竟の中道を証す。 位として此の上に可↠登なく、 徳として此の上に可↠証なし、 故に究竟即と云なり。
教門に約して修入の道を論ずる時は、 如↠此六即の次位あれども、 観道の意を以て一念頓成を談ずる時は、 一々に此階級を経るとは云はざるなり。 上に云所の三千の諸法は、 衆生に有時も仏果に有る時も、 其体一つなり。 只迷と悟との差別に依て、 染浄の諸法異ども、 其性を尋れば平等にして異なし。 ¬釈籤¼ の第六 (巻一四) に、
「三千の理にあるをば同じく無明と名づく、 三千の果成ずるをばことごとく常楽と称す。 三千改まることなければ、 無明すなはち明なり」
「三千在↠理同名0771↢無明↡、 三千果成咸称↢常楽↡。 三千無↠改、 無明即明」
と云へる、 此意なり。
されば無明即ち明なるが故に、 煩悩即ち菩提なりと達し、 煩悩即ち菩提なるが故に、 衆生即ち仏なりと知るを本来成仏と云ふ。 本来成仏の義を了するを、 即身成仏とも云なり。 如↠実此の理に契当せば、 証を取こと可↠如↠反↠掌、 衆生無始より久く塵労に覆はれたる故に、 実相の観を作こと難↠成、 本有の仏性を叵↠顕。 此の故に、 此の宗にも、 麗即身成仏することは有がたし。 一生に六根浄の位を得を以て速疾の益とせり。
¬疏記¼ の第七 (法華文句記巻八釈迦城喩品) に
「六根のきはめて遅きは三生を出ず」
「六根極遅不↠出↢三生↡」
と云が故に、 上根の者は現生に此の位に登り、 鈍根の者は二生・三生に此位に可↠至と見えたり。 六根浄の位と云は、 六即の中の第四の相似即の位なり。
南岳大師は此の位に至り、 天臺大師は未だ此の位に至ずして、 観行五品の位に居し給へり。
薄地の凡夫輒く上位に難↠進こと、 以↠是可↠知。 然者、 難↠成三諦の観を凝さんと励で叵↠得現身の証を従↠求は、 行じ易き念仏を修して往き易き浄土に生ぜんと願ぜんは、 決定出離の用心、 速疾解脱の直道なるべし。
問て云。 縦ひ三諦円融の観を作て即身自仏の悟を取こと不↠叶とも、 只 ¬法華経¼ を受持読誦して成仏せんことは、 何なる下根の機なりとも、 などか不↠叶。 経文の0772如きは、 或は
「わが滅度の後において、 この経を受持すべし、 この人仏道において、 決定して疑ひあることなり」 (法華経巻六如来神力品)
「於↢我滅度後↡、 応↣受↢持此経↡、 是人於↢仏道↡、 決定無↠有↠疑」
とも云ひ、 或は 「若有聞法者、 無一不成仏」 (法華経巻一方便品) とも説たれば、 此経に依て修行せば速疾の益を得んこと不↠難者をや。
答へて云。 誠に ¬法華経¼ を受持読誦せんこと功徳莫大なり、 其の益不↠可↠虚。 但し天臺の意に依て思ふに、 理の観解を以て本として、 其の上に事の修行を致すを本意とす。 ¬経¼ (法華経) に 「如説修行」 と説けるは、 即ち解行具足の義を顕すなり。 只文字を読誦せん計は、 遠因とは成とも直に成仏の因とは難↠定。
されば天親菩薩の ¬法華論¼ (巻上) には、
「いはく菩提心を発し菩薩の行を行ずる者、 所作の善根よく菩提を証す、 もろもろの凡夫および決定の声聞の本よりこのかたいまだ菩提心を発さざる者のよく得るところにあらず」
「謂発↢菩提心↡行↢菩薩行↡者、 所作善根能証↢菩提↡、 非↧諸凡夫及決定声聞本来未↠発↢菩提心↡者之所↦能得↥」
と云へり。 「発菩提心行菩薩道」 と云は、 解行を指す言なり。 三諦円融の菩提心を発さざらん凡夫は、 縦ひ随分の善根を修すとも、 菩提を難↠得と見えたり。
又南岳大師の釈には、
「無相の安楽行は、 甚深の妙禅定なり、 六情の根を観察す、 有相の安楽行は、 これ勧発品によりて、 散心に ¬法華¼ を誦す、 禅三昧に入らず、 坐と立と行と一心に、 ¬法華¼ の文字を念ず、 行もし成就すれば、 すなはち普賢の身を見る、 これまた一往二人を分つ、 究竟してしかも論ずれば二行たがひに顕はる」 (安楽行義意)
「無相安楽行、 甚深妙禅定、 観↢察六情根↡、 有相安楽行、 此依↢勧発品↡、 散心誦↢¬法華¼、 不↠入↢禅三昧↡、 坐立行一心、 念↢¬法華¼文字↡、 行若成就者、 即見↢普賢身↡、 此亦一往分↢二人↡、 究竟而論二行互顕」
といへり。 有相の行者、 其の相一往異ども、 究竟して論ずるに、 二行具足すべき義、 顕然なり。
又縦ひ観解無くして受0773持読誦すとも、 ¬経¼ に安楽行者の軌則を説に、 其行相甚だ難↠守。 其相委く ¬安楽行品¼ (法華経巻五) に説↠之。
「つねに国王および国王子、 大臣官長、 凶験戯者、 および旃陀羅、 外道梵士を離れ、 また増上慢人、 小乗に貪著せる三蔵の学者、 破戒の比丘、 名字の羅漢、 および比丘尼と、 好戯笑者と親近せざれ、 深く五欲に著して、 滅度を現ぜんと求むると、 もろもろの優婆夷とみな親近することなかれ」
「常離↢国王及国王子、 大臣官長、 凶験戯者、 及旃陀羅、 外道梵士↡、 亦不↧親↦近増上慢人、 貪↢著小乗↡三蔵学者、 破戒比丘、 名字羅漢、 及比丘尼、 好戯笑者↥、 深著↢五欲↡、 求↠現↢滅度↡、 諸優婆夷皆勿↢親近↡」
等云へる文、 是なり。
又一家の意に依るに、 ¬止観¼ に釈するが如きは、 此の経を修行するに五縁具足すべき事を明せり。 五縁と云は、 一には衣食具足、 二には持戒清浄、 三には常居閑処、 四には息諸縁務、 五には得善知識なり。 五縁の内、 若し一も欠けなば、 道行を難↠成、 功徳を叵↠得者なり。
就中に法華と念仏とは、 共に仏智一乗の法なるが故に、 其の体一つなり。 然而聖の為には法華と説き、 凡の為には念仏と説く。 凡聖の二機に対する所各別なるが故に、 難行・易行の二道相分れたり。 障重根鈍の輩、 無相の観解を凝しがたく、 如説の行を修し不↠得は、 尤も易行の念仏を勧て、 早易往の浄土に可↠生。
況や、 天臺大師も、 或は ¬観経の疏¼ を制し、 或は ¬十疑¼ を作て、 弥陀の利生を人にも勧め、 安養の往生を願じ給へり。 されば天臺の教文を学せんに付ても弥陀を念じ、 法華の巨益を仰がんに付ても本願を信ずべきなり。
0774歩船鈔 末
・真言宗
一 真言宗と云は、 諸教の最頂秘密の上乗なり。 上に挙る所の諸宗は、 皆釈迦顕露の所説なり。 今此の真言教は、 大日如来自受法楽内証の秘法なるが故に、 浅行の輩、 受職潅頂の位に不↠至しては深秘を伝ふること無し。 縦ひ伝↠人も、 顕露に無↠説↠之。 若し説↠之、 越三昧耶の過と云て、 重罪を招く故妄に説くこと不↠能、 況や、 元自不↠知不↠伝輩に於てをや。 能説・所説共に輒からぬ事なり。
然而、 前述る所の円家の意に准知して聊か一端を示ば、 此教に於て事相・教相の差別あり。
先づ事相と云は、 大日如来金剛薩埵より相承せる修行の次第を師資相承して、 印契・誦呪以下作法一事として違せず、 学↠之修行するなり。 是は其の義理を解了せざれども、 軌則に任て如↠法勤行すれば、 其悉地成就して現当の益を得るなり。 ¬大日経¼ (第七真言行学処品) に、
「この生において悉地に入らんと欲はば、 その所応に随ひてこれを思念せよ。 したしく尊の所において明法を受けて、 観察相応すれば成就を作す」
「欲↧於↢此生↡入↦悉地↥、 随↢其所応↡思↢念之↡。 親於↢尊所↡受↢明法↡、 観察相応作↢成就↡」
と云へる、 此の意なり。
次に教相と云は、 此教に立つる所の宗旨を了知して、 三部妙典の深奥を解し、 彼疏以下の教義を学し0775て秘決を受るなり。 凡す此宗の意は、 大日如来両部の主として諸尊の長たる事を談ず。 両部と云は、 胎蔵界・金剛界なり。 胎蔵は理なり、 金剛は智なり。 是則定恵の二法なり。 胎蔵界には、 八葉蓮台、 十三大院、 塵刹の聖衆あり。 金剛界には三十七尊、 九会曼荼羅の諸尊あり。 委しく論ずれば、 胎蔵には四百七十尊、 金剛界には五百余尊あり。 是則十方法界無尽無余の一切の諸尊、 此両界の中に摂尽す。
而るに是等の諸尊は何に坐し給ぞと云に、 遠く外に非↠可↠討。 只一切衆生の心中に処して歴然たり。 然而衆生惑障に被↠礙此の道理を不↠知を、 三密の観行を修すれば、 其の観行の力に依て本有の仏性を顕すと談ずるなり。 口に真言を誦し、 手に印契を結び、 心に観念を作して、 三業相応するなり。
¬蓮華三昧経¼ に甚深の明文あり。
「本覚の心法身に帰命す。 つねに妙法の心蓮台に住せり。 本来三身徳を具足し、 三十七尊心城に住す」
「帰↢命本覚心法身↡。 常住↢妙法心蓮台↡。 本来具↢足三身徳↡、 三十七尊住↢心城↡」
と云へる、 是なり。 意は、 本覚の心法身は、 常に妙法の心蓮台に坐して、 三十七尊我が心城に住せりとなり。
「心法身」 とは衆生の心性なり。 是妙法也、 是又心城なり。 胸の内なる八分の肉団は、 即八葉の蓮台に形取れり、 是を 「心蓮台」 と云なり。 此心蓮台の上に心法身あり。 此の心法身に三身の功徳を具し、 三十七尊も住せりと云なり。
「三十七尊」 と云は、 大日如来・四仏・四波羅蜜・十六大菩薩・八供四摂の菩薩、 是なり。
一一に其の名を挙げば、 大日如来は中央に処せり、 五智に配当せば、 法界体性智なり。 阿仏は東方に処せり、 大円鏡智なり。 宝生仏は南方に処せり、 平等性智なり。 阿弥陀仏は西方に処せり、 妙観察智なり。 不空成就仏は北方に処せり、 成所作智なり。 已上是を五智の如来と云。
四波羅蜜と云は、 東方の金剛波羅蜜、 南方の宝波羅蜜、 西方の法波羅蜜、 北方の羯磨波羅蜜なり。
十六大菩薩と云は、 東方に四菩薩あり、 薩と王と愛と喜となり。 南方に四菩薩あり、 宝と光と幢と笑となり。 西方に四菩薩あり、 法と利と因と語となり。 北方に四菩薩あり、 業と護と牙と拳となり。
八供の菩薩と云は、 嬉と鬘と歌と舞と香と華と灯と塗となり。 四摂の菩薩と云は、 鈎と索と鎖と鈴となり。
此三十七尊は、 無始已来、 我等が身中の胸の間に坐し給へり。 其の中に大日如来を以て本とす。 ¬大日経の疏¼ (大日経疏巻一 大日経義釈巻一) に、 此の事を顕して、
「一切衆生の色身の実相、 本際よりこのかた、 つねにこれ毘盧遮那の平等智身なり。 これ菩提を得る時、 あながちに諸法を空じてはじめて法界と成すにあらず」
「一切衆生色身実相、 従↢本際↡来、 常是毘盧遮那平等智身。 非↧是得↢菩提↡時、 強空↢諸法↡始成↦法界↥」
と云へり。 一仏我が身の中に在と知る、 猶其功用不可思議なり。 況や、 我身の中に三十七尊在と知なば、 証大菩提転迷開悟の益不↠可↠有↠疑。 但し詞に如↠此聞くと云とも、 修行の薫修なくは、 其利不↠可↠有。
凡す此教は、 即身成仏をもて宗致とす0777れども、 直に即身成仏の証を談ずる文もあり、 又即身に入地の益を明せる説もあり。 不空三蔵の作、 ¬金剛頂経の義決¼ (巻上) に釈するが如きは、 一生に極果に可↠至と見えたり。 所謂
「この ¬経¼ に説くところは、 直入直修、 直法直説なり、 すなはちこの生において、 如来地の善巧智を得るがゆへに」
「此¬経¼所↠説、 直入直修、 直法直説、 即於↢此生↡、 得↢如来地善巧智↡故」
と云へる、 是なり。 ¬即身義¼ (毘盧遮那三摩地法) の文の如きは現生に初地入と明。 所謂
「もし衆生ありてこの教に遇ひて、 昼夜四時に精進して修すれば、 現世に歓喜地を証得し、 後十六生に正覚を成ず」
「若有↢衆生↡遇↢此教↡、 昼夜四時精進修、 現世証↢得歓喜地↡、 後十六生成↢正覚↡」
と云へる文、 是なり。 「昼夜四時に精進す」 と云へるは、 其功おぼろげの薫修にては不↠可↠叶。 行若し如法ならずは、 輒く其の益を不↠可↠得者なり。
即身成仏に付て三種あり。 一には理具、 二には加持、 三には顕得なり。 理具の即身成仏と云は、 上に述るが如く、 一切衆生の自心の中に金剛・胎蔵両部の曼荼羅、 法然として具するなり。 加持の即身成仏と云は、 三密の加持に依て、 彼の身中の諸尊顕現するなり。 顕得の即身成仏と云は、 三密の修行成就しぬれば、 即身に万行を具して、 如↠実自心を知て真実の証悟に叶ふなり。
此の中に理具の成仏は人ごとに可↠有↠之。 今二重の成仏は、 三密の功用に答へ、 行業の薫修に依べきが故に、 浅行劣智の機には難↠成なり。 然者、 ¬菩提心論¼ (金剛頂発菩提心論) には、
「もし上根上智の人ありて外道二乗の法を楽はず、 おほきに度量ありて勇鋭にして惑なからん者、 よろしく仏乗を修すべし」
「若有↢上根上智之人↡不↠楽↢外道二乗法↡、 有↢大度量↡勇鋭無↠惑者、 宜↠修↢仏乗↡」
と0778判じ、 ¬大日経の義釈¼ (巻三) には、
「もしすでに利根智恵を成就せば、 すなはちまさに秘密を演暢してしかもこれを開示すべし」
「若已成↢就利根智恵↡、 即当↧演↢暢秘密↡而開↦示之↥」
と釈し、 善無畏三蔵は
「頓悟の機なければその手に入らず」 (大日経疏巻七 大日経義釈巻七)
「無↢頓悟機↡不↠入↢其手↡」
と云ひ、 不空三蔵は
「大種性の人法縁すでに熟すれば、 三秘密の法説時まさに至る」 (出生義)
「大種性人法縁已熟、 三秘密法説時方至」
と述たり。
下根無智の輩、 此の教の機に非ずと聞たり。 乱行不浄の人、 又望を隔てたり。 されば山門・三井・小野・広沢の高僧、 密教を宗とするは皆清浄の人なり。 若し悪縁に近て落堕の人は、 忽に此の教の修行を閣くなり。 放逸不浄の身にして妄行↠之尤も怖あり、 深く可↠慎。 法は至て最上なれば、 下根の輩は叵↠及。
就中、 密宗の大祖龍樹菩薩、 上に如↠記 ¬十二礼¼・¬十住毘婆娑論¼ 等を作て、 念仏を以て自行化他の要行とし、 往生を以て凡夫出離の依怙とせり。 密教の修行に不↠絶人、 速に易行の念仏を修すべし。
・律宗
一 律宗と云は、 三蔵の中の毘尼蔵、 三学の中の戒品なり。 諸の戒品を持ちて三業を防護し、 一切の悪を制して、 威儀を不↠犯なり。 ¬十誦律¼・¬四分律¼・¬僧祗律¼ 等の中に明↠之。
其戒行に多種あり、 所謂具足戒・十戒・八戒・五戒等なり。 具足戒と云は、 苾芻の戒なり。 苾芻と云は、 比丘なり。 付↠之男女の差別あり、 比丘は二百五十戒、 比丘尼は五百戒なり。 女人は障重なるが故に、 戒品も倍せるな0779り。 其一一の戒品、 律の中に明すが如し。
十戒と云は、 勤策の戒なり。 一には不↢殺生↡、 二には不↢偸盗↡、 三には不↢行婬↡、 四には不↢妄語↡、 五には不↢酤酒↡、 六には不↠坐↢高広大床↡、 七には不↠塗↢脂粉↡、 八には不↢歌舞作楽及往観聴↡、 九には不↢過↠中食↡、 十には金銀生像不↠取↠手なり。 八戒と云は、 近住の戒なり、 十戒の中に後の二つを除くなり。 五戒と云は、 近事の戒なり、 八戒の中に後の三つを除くなり。
是等の戒品を持て一分も破せず、 仏の威儀を守なり。
此の宗の大意は、 遮悪持善を以て本とし、 滅罪生善を以て旨とす。 されば ¬大論¼ (瓔珞経巻下大衆受学品) には、
「仏家に住在するには戒をもつて本となす」
「住↢在仏家↡以↠戒為↠本」
と云て、 僧の名を得る事は戒を持つによる事を明し、 天臺の釈には、
「諸道の昇沈戒の持毀あるによる」 (法華文句巻二下 釈序品)
「諸道昇沈由↠有↢戒持毀↡」
と云て、 善悪の生を受ことは、 戒品の持破による事を判ぜり。 仏弟子となり、 形を沙門にからん輩、 尤も戒品を持ち律儀を専にすべきなり。
但し末代に及び下根に至て、 戒行を叵↠持。 道綽禅師の ¬安楽集¼ には戒行を持得する人可↠希旨を判じ、 伝教大師の ¬末法灯明記¼ (意) には 「末世に持戒の人あらば、 市に虎有んが如し」 と云へり。 されば破戒の僧、 尚衆生の依怙なり。 況や、 実に持得せん人は、 殊に可↠貴にたれり。 在家無慚の輩に於ては、 更に叵持之者なり。
今律宗と号するは、 小乗なり。 此0780の外に大乗戒あり、 ¬梵網戒¼ に説所の一戒・光明金剛宝戒、 是なり。 其に取て、 十重禁あり、 四十八軽戒あり。 天臺大師は ¬義記¼ を製して、 義を述し、 青丘の太賢は ¬古跡¼ を造て文を釈せり。 実には戒に於て、 大小の差別なけれども、 受者の心に依て大乗戒とも小乗戒とも云はるゝなり。
我等が如きは十悪の機なれば、 大小の戒行共に以て分絶えたり。 人天の果報猶以て不↠可↠得、 まして出離は望を断類なり。 而るに念仏の行者は、 持戒も破戒も等しく生じ、 弥陀の本願は善人も悪人も同く摂す。 「不簡多聞持浄戒、 不簡破戒罪根深」 (五会法事讃巻本) と云へり。 戒行の不↠全に付けても、 只仏智の強縁を可↠仰なり。
・倶舎宗
一 倶舎宗と云は、 小乗なり。 本論は天親菩薩の造なり、 三十巻あり。 釈↠之、 光師・宝師等の釈あり。 又円暉師の釈あり、 ¬頌疏¼ 是なり。 此 ¬論¼ には三乗の断惑修道の相を明せり。 所謂声聞は四諦を観じ、 三生六十劫の修行を経て四向四果の位を得なり。 縁覚は十二因縁を観じ、 四生百劫の修行を経て自乗の果を得るなり。 菩薩は六度を行じ、 三祇百劫の修行を至して八相成道するなり。
其中に二乗の修道に於ては、 暫閣↠之。 菩薩の修行を明す文を見るに、
「無上菩提ははなはだ得べきこと難し。 多の願行にあらずは成ずること得べきことなし。 菩薩はかならず三劫無数を経て、 大福徳智恵の資糧0781、 六波羅蜜多々百千の苦行を修して、 まさに無上正等菩提を証す」 (玄奘訳倶舎論巻一二世品)
「無上菩提甚難↠可↠得。 非↢多願行↡無↠容↠得↠成。 菩薩要経↢三劫無数↡、 修↢大福徳智恵資糧0781、 六波羅蜜多々百千苦行↡、 方証↢無上正等菩提↡」
と云へり。 難行苦行の相、 難↠及。
凡す此の論蔵は、 諸法の性相を研覈し、 仏教の義門を決判す。 如↠教三乗の道を不↠修、 速に生死を不↠出とも、 能く学せば世出世の因果を知て智慧を開発すべし。 智恵を開発せば、 了因の種子と可↠成。 されども習学も不↠輒、 得益も又長遠なり。
是は小乗の中には有門を明せり。 三十巻の内、 初の二巻には界を明す、 界と云は十八界等なり。 次の五巻には根を明す、 根と云は六根等なり。 次の五巻には世間を明す、 世間と云は、 有情世間、 器世間なり。 次の六巻には業を明す、 業と云は善悪の業因なり。 次の三巻には随眠を明す、 随眠と云は煩悩なり。 次の四巻には賢聖を明す、 賢聖と云は七賢・七聖の道位なり。 次の二巻には智を明す、 智と云は十智等なり。 次の二巻には定を明す、 定と云は等持・等至等の定なり。 後の一巻には、 破我の深理を明せり。 是外道の著我を破するなり。
・成実宗
一 成実宗は、 倶舎と同く三乗の道位を明す。 但し ¬倶舎¼ には、 声聞に於て七賢・七聖の位を判ず。 ¬成実論¼ には二十七賢聖の位を立たり。 二十七賢聖と云は、 十八有学と九無学となり。
此の論には小乗の中に空門を明せり。 此宗は当時習学すでに絶たるが如し。 況や、 修証の人更に無↠之なり。
已上八宗の大意略して述に0782如↠之。
・仏心宗
一 仏心宗と云は、 達磨大師の言に
「教外の別伝にして文字を立てず、 直人心を指して見性成仏す」
「教外別伝不↠立↢文字↡、 直指↢人心↡見性成仏」
と云へる、 是其の宗旨なり。
教宗には不思議と談ずれども、 言辞を以て示す所は不思議に非ず。 実相と観ずれども、 猶善悪の思量を不↠離悟解不↠叶。 仏祖、 詞を以て不↠説↠之、 心を以て心に伝ふる所の源底を明也。
されば文字を仮て其義を不↠可↠述、 只心地に修行して己と可↠得道なり。 一物を不↠見名けて見道とし、 一物を不↠行名けて行道とす。 只本来の面目を守て自己の本分を顕すなり。
「一切善悪すべて思量することなかれ」 (六祖壇経)
「一切善悪都莫↢思量↡」
と云へる。 是則境を縁ぜずして、 無性空寂なる心なり。 如↠此此の心の無性・無住なる義を解了するをば、 解悟となづく。 此の解に依て修行して、 其の心の分別を忘れて空寂の理顕るゝを証悟とす。 其の正証悟の一念を 「見性成仏」 と云なり。
僅に義理を解了するを以て極ぬと思て、 此外に証を不求をば増上慢と名けて、 祖師深く誡↠之。 此の解了の位は、 教宗には聞・思・修の三恵を立る中に聞思の位なり。 依↠文義を知をば聞恵と名づけ、 義に依て思惟するをば思恵と云ひ、 縁を亡じ照を寂するをば修恵と取るなり。 此修恵を以て証に叶ふ位とするなり。
禅宗には、 此の聞思の位をば、 深浅あれども一つの解悟と名0783づけ、 修恵の位を証悟と云なり。 祖師此の証悟を得て、 見聞覚知に触て其の心永く著を離れ、 分別を亡じて法の実相の心に顕るゝ所を、 機に対して開示するを考案と名く。
機縁相応の人、 聞て即契会する事あり。 若心契会せずして、 古師の要妙の言を学で説↠之、 説聴共に禅門の本意に非ず。 然者、 弥よ言を以て不↠及↠述、 志あらん人は修行して可↠知なり。 言に即して言を亡、 相に即して相を亡じて、 一言の下に即ち契会するは上根の人なり。 中下の機根は委く心境の本末、 修悟の邪正を辨へて、 能く練行して是可↠得なり。
此の宗の高祖達磨大師は、 少林にして九年の間、 万事を捨てて面壁すと云へり。 工夫の功なくして証を不↠可↠得事、 以↠之可↠知。 又馬祖禅師・本浄大師等の如きは、 広く経論を通じて自心を円悟すと見えたり。 言を以て教文を誦して、 未↠得謂↠得、 以心伝心の本意に可↠非。
されば無始以来惑染に覆蔽せられたる下根の凡夫、 よく証悟して心性の本分を顕さんこと、 末世には可↠難↠有。 只法身同体の弥陀の名願に帰して、 捨身他世に無性の証悟を得んことは、 末代の機に可↢相応↡者也。
・浄土宗
一 浄土宗の意は、 難行・易行の二道を立て一代を分別す。 難行道と云は、 此土の入聖得果自力修入の道なり、 大小乗の諸教に明す所、 是なり。 易行道と云は、 捨0784身他世往生極楽の道なり、 三部の妙典に顕す所、 是なり。
されば上には云所の諸宗は、 大小・権実・顕密・教禅異なれども、 皆難行道なり。 此の二道の名目は龍樹菩薩の ¬十住毘婆沙論¼ より出たり。 所謂曇鸞和尚の ¬註論¼ (巻上) に、 彼の論を引て難易の二道を挙たり。
「菩薩阿毘跋致を求むるに二種の道あり。 一は難行道、 二は易行道なり。 難行道とは、 いはく五濁の世無仏の時において阿毘跋致を求むるを難とす。 この難にいまし多途あり。 ほぼ五三を言ひて、 もつて義の意を示さん。 一は外道の相善菩薩の法を乱る。 二は声聞は自利にして大慈悲を障ふ。 三は無顧の悪人他の勝徳を破す。 四は顛倒の善果よく梵行を壊す。 五はただこれ自力にして他力の持つなし。 かくのごときらの事、 目に触るるにみなこれなり。 たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。 易行道とは、 いはくただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ず、 仏願力に乗じて、 すなはちかの清浄の土に往生することを得、 仏力住持、 すなはち大乗正定の聚に入れたまふ。 正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。 たとへば水路の乗船はすなはち楽しきがごとし。」
「菩薩求↢阿毘跋致↡有↢二種道↡。 一者難行道、 二者易行道。 難行道者、 謂五濁之世於↢無仏時↡求↢阿毘跋致↡為↠難。 此難乃有↢多途↡。 粗言↢五三↡、 以示↢義意↡。 一者外道相善乱↢菩薩法↡。 二者声聞自利障↢大慈悲↡。 三者無顧悪人破↢他勝徳↡。 四者顛倒善果能壊↢梵行↡。 五者唯是自力無↢他力持↡。 如↠斯等事、 触↠目皆是。 譬如↢陸路歩行則苦↡。 易行道者、 謂但以↢信仏因縁↡願↠生↢浄土↡、 乗↢仏願力↡、 便得↣往↢生彼清浄土↡、 仏力住持、 即入↢大乗正定之聚↡。 正定即是阿毘跋致。 譬如↢水路乗船則楽↡。」
と云へる文、 是なり。
巒師 ¬浄土論¼ の註を加る時、 此の文を引て一宗の教相とせり。 則ち今の論を指して 「上衍◗極致、 不退之風航」 と釈するは、 易行の宗旨を明なり。
¬浄土論¼ は三経通申の論なるが故に、 三経の所説易行道なる事を顕して、 其余は難行道なりと示すなり。 鸞師のみに非ず、 自他宗の祖師一代を料簡するに、 多く此の意を存ぜり。 所謂道綽の ¬安楽集¼ に聖道・浄土と立たるは、 今の難易の二道なり。
慈恩の ¬西方要決¼ に0785 「三乗」・「浄土」 と云へるも、 又聖道・浄土の二門なり。 行に就て分時は難行・易行と云、 凡聖に付て論ずる時は聖道・浄土と名るなり。
又天臺大師の ¬十疑¼ にも、 龍樹の論判に依て、 穢土の修行の成じ難き事を顕し、 浄土の証悟の決定なる義を判ぜり。 先づ、 難行道の相を釈すとして、 ¬智度論¼ に
「具縛の凡夫は、 大悲心ありといへども、 すなはち願じて悪世に生じて苦の衆生を求ふといはば、 この処あることなけん」
「具縛凡夫、 雖↠有↢大悲心↡、 則願生↢悪世↡求↢苦衆生↡者、 无↠有↢是処↡」
と云へる文を引て、 下に私の釈を加へられて云く、
「なにをもつてのゆへに、 悪世界の中には、 煩悩の境強くして、 みづから忍力なし。 縁に随ひて転ぜられ、 声色に縛せられて、 みづから三塗に墜つ。 よく衆生を救はん。 たとひ人中に生ずることを得れども聖道得がたし。 あるひは施戒修福によりて人中に生じて、 国王・大臣・長者になることを得て富貴自在なり。 たとひ善知識あれどもあへて信用せず、 貪瞋・放逸のゆへに広くおほくの罪を造る。 この悪業に乗じてひとたび三塗に入りぬれば、 無量劫を経。 地獄より出ては、 貧賎の人身を受く。 もし善知識に逢はざれば、 還りて地獄に堕つ。 かくのごとく輪廻して、 今日に至るまで人々みなかくのごとし。 これを難行道と名づく」 (十疑)
「何以故、 悪世界中、 煩悩境強、 自無↢忍力↡。 随↠縁所↠転、 声色所↠縛、 自墜↢三塗↡。 能救↢衆生↡。 縦令得↠生↢人中↡聖道難↠得。 或因↢施戒修福↡生↢人中↡、 得↠作↢国王・大臣・長者↡富貴自在。 縦有↢善知識↡不↢肯信用↡、 貪瞋・放逸故広造↢衆罪↡。 乗↢此悪業↡一入↢三塗↡、 経↢無量劫↡。 従↢地獄↡出、 受↢貧賎人身↡。 若不↠逢↢善知識↡、 還堕↢地獄↡。 如↠此輪廻、 至↢於今日↡人々皆如↠是。 此名↢難行道↡也」
と云へり。
次に易行道の義を釈する文に云、
「凡夫は力なければ、 ただすべからくもつぱら阿弥陀仏を念じて、 すなはち三昧を得べし。 業成ずるをもつてのゆへに、 臨終に念を斂めて生を得ること決定して疑はず。 阿弥陀仏を見て無生忍を証しおはりて三界に還り来りて、 無生忍に乗じて、 苦の衆生を救ひ、 広く仏事を施すこと、 意に任せて自在なり。 ゆへに ¬論¼ にいはく、 地獄の門に遊戯するは、 かの国に生じおはりて、 無生忍を得おはりて生死の国に還り入りて、 地獄を教化して苦の衆生を救ふ。 この因縁をもつて浄土に生ぜんと求めば、 願はくはその教を識れ。 かるがゆへに ¬十住毘婆娑論¼ にいひて易行道と名づく」 (十疑論)
「凡夫无↠力、 唯須↧専念↢阿弥陀仏↡、 便得↦三昧↥。 以↢業成↡故、 臨終斂↠念得↠生決定不↠疑。 見↢阿弥陀仏↡証↢無生忍↡已還↢来三界↡、 乗↢無生忍↡、 救↢苦衆生↡、 広施↢仏事↡、 任↠意自在。 故¬論¼云、 遊↢戯地獄門↡者、 生↢彼国↡已、 得↢無生忍↡已還↢入生死国↡、 教↢化地獄↡救↢苦衆生↡。 以↢此因縁↡求↠生↢浄土↡者、 願識↢其教↡。 故¬十住0786毘婆娑論¼云名↢易行道↡」
と云へり。
就↠中和尚 ¬観経¼ を決了し給時、 化前・発起の二別を立たる、 此二門の意なり。されば自宗・他宗共に一代を二門に分別する上、 聖道の諸門は聖者の修行に叶ひ、 念仏の一行は凡夫の所修に応ぜること、 異論あるべからず。 然者、 吾が機分を量時、 三乗の分に不↠預、 凡夫の行用に堪へたる易行に帰せんこと、 決定出離の要道たるべき者なり。 化前・発起の二別と云は、 一代化前の諸教は聖人を益し、 ¬観経¼ 所説の念仏は、 凡夫を摂すと云事なり。
是則釈尊出世して八万四千の法門を説給事は、 三乗・五乗をして同く一実真如の理性を令↠覚為なり。 而るに根性利なる者は皆益を得しかども、 鈍根無智の者は難↢開悟↡が故に、 彼の劣機の為浄土の門を開て、 仏の願力に乗じて浄土に生じ、 浄土にして無性の悟を可↠得示すなり。
此義 「玄義」 (玄義分) の序題門に見たり。 即ち
「真如広大にして五乗その辺を測らず。 法性深高にして十聖もその際を窮むることなし」
「真如広大五乗不↠測↢其辺↡。 法性深高十聖莫↠窮↢其際↡」
と云て、 而も 「其の真如の理性は、 蠢々の心を不↠出、 凡聖斉円也」 (玄義分意) と釈して後、
「ただし垢障覆深なるをもつて、 浄体顕照するに由なし」
「但以↢垢障覆深↡、 浄体無↠由↢顕照↡」
と云て、 此の浄体を顕さんが為に、
「大悲西化を隠して、 驚きて火宅の門に入る」
「大悲隠↢於西化↡、 驚入↢火宅門↡」
と云以下は、 釈尊出世の元意を叙し、 一代五乗の説教を挙るなり。
「縁に随ふ者は、 すなはちみな解脱を蒙る」 (玄義分)
「随↠縁者、 即皆蒙↢解脱↡」
と云に至るまでは、 其の五乗八万0787の教益を明すなり。 是聖道門の意なり。
次に
「しかるに衆生障重にして、 悟を取る者明めがたし」 (玄義分)
「然衆生障重、 取↠悟之者難↠明」
と云よりは、 ¬観経¼ 起化の宗致を辨ず。 是は釈尊定散の要門を開説して、 息慮凝心、 廃悪修善の道理を示し、 弥陀別意の弘願を顯彰して、 善悪凡夫皆乗大願の利益を施せり。 是浄土門の意なり。
如↠此二門を分別して心得るに、 「浄体無由顕照」 の義を以て見れば、 「随縁者即皆蒙解脱」 の利益は随分の益なり、 真実に浄体を顕照する証悟の位には非ずと聞えたり。 是世末代に及び、 人下根なるが故なり。
又 ¬観念法門¼ の釈に、
「釈迦出現して、 五濁の凡夫を度せんがために、 すなはち慈悲をもつて、 十悪の因、 三塗の苦を報果することを開示して、 また平等の智恵をもつて、 人天廻して弥陀仏国に生ずることを悟入せしむ」
「釈迦出現、 為↠度↢五濁凡夫↡、 即以↢慈悲↡、 開↣示十悪之因、 報↢果三塗之苦↡、 又以↢平等智恵↡、 悟↣入人天廻生↢弥陀仏国↡」
と云へる。 釈尊出世の元意、 凡夫を度せんが為に弥陀の教を説き給と見たり。
問て云。 ¬文句¼ の第一 (法華文句第一上 釈序品) の釈の如きは
「三乗の根性仏の出世を感ず、 余は感ずることあたはず」
「三乗根性感↢仏出世↡、 余不↠能↠感」
と云へり。 而るに凡夫の為に出世すと云事如何。
答て云。 出世の元意をさぐる事、 聖道・浄土の両宗談ずる所相異べし。 天臺の釈義は聖道門の所見なり、 浄土門の意を以て云ふ時は、 凡夫の身に於て聖道三乗の行を修せば証を取りがたき故に、 其の一代八万の教益に漏るゝ所の障重根鈍の機を摂するは、 念仏の一行なりと見れば、 此門本意なりと見るなり。
今の ¬観念法0788門¼ の釈 「玄義」 の釈等、 此意なり。
「諸仏の大悲苦者においてす、 心ひとへに常没の衆生を愍念す。 これをもつて勧めて浄土に帰す。 また水に溺れたる人のごときは、 急にすべからく偏救すべし、 岸上の者、 なにをもてか済為せん」
「諸仏大悲於↢苦者↡、 心偏愍↢念常没衆生↡。 是以勧帰↢浄土↡。 亦如↢溺↠水之人↡、 急須↢偏救↡、 岸上之者、 何用済為」
といへる、 是なり。 されば一代に於て此の二門を心得、 自の機分を顧て念仏に可↠帰なり。
而るに難行道と云ひ、 聖道門と云は、 自力を以て修入すれば、 或は根性の利鈍により、 或は修行の浅深に依て、 修するに成否あり、 悟を取るに遅速あり。 然而、 浅深共に自力なり、 遅速同く難行なり。 聖者に於ては修行し非↠可↠難、 凡夫に望むれば皆難行なり。 聖者の行ずる道なるが故に聖道と云は、 凡夫の身には難行なるべき事、 其義明かなり。
易行道と云ひ浄土門と云は、 此土の修道を閣て往生浄土を願ずるなり。 聖道の難行なるに対して易行道と云ひ、 現身修入の道に翻して往生浄土門と云。 是皆凡夫に被言なり。 然者、 凡夫相応の教に付て、 末代の劣機は尤も可↠行↠之。
此浄土門に付て諸行と念仏と共に一往往生の益を説たれども、 其中に念仏を以て本願とし、 名号を以て生因とす。 所謂 ¬大経¼ (巻下) には三輩の機の差別を説て、 而も通じて皆、 「一向専念無量寿仏」 と云ひ、 ¬観経¼ には定・散・弘願の三門を顕して、 而も名号の一法を付属し、 ¬小経¼ には選て念仏の一行を説て、 諸仏是を証誠す。 故に、 三経の所説、 皆念仏を先とし、 往生の正0789因、 偏に専修を本とす。 其の専修と云は、 心を諸教の出離に不↠係、 念を念仏の一行に立して、 只深く本願を信じ、 一心に名号を称して、 一念も疑心を交へざるなり。
此の宗の具なる趣は、 三部の妙典和尚の解釈等に見たり。 今委↠之不↠及、 志あらん人は、 彼を披て可↠知。
¬三部経¼ の中に、 ¬大経¼ には上巻に、 六八の弘誓を説て因位の悲願を明し、 下巻に深広の仏智を嘆じて果地の功徳を顕すが故に、 明弥陀の利生を顕すことは此経にあり。 故に、 和尚も定・散・弘願の三門を分別する時、 弘願を釈すとしては、
「弘願といふは ¬大経¼ に説くがごとし」 (玄義分)
「言↢弘願↡者如↢¬大経¼説↡」
と云て、 善悪皆乗の要義を述べたり。 ¬観経¼ には其の機を煩悩賊害の機と定て、 定散の文の中に併ら念仏を標せり。 ¬弥陀経¼ には定散諸行の方便を不↠交、 偏に称名の一行を説けり。 故此時に於て、 諸仏同心の証誠を至し、 釈尊凡地の本行なる事を説けり。 然者、 三経の所説に依て一教の深義を成ずるなり。
底本は◎兵庫県毫摂寺蔵乗専書写本。 ただし訓(ルビ)は有国により、 表記は現代仮名遣いとした。