葛藤 (8月26日)

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文字通り、具体的な葛と藤の話です。

4月からかかっていた建物裏の崖の笹&カヤ引きは、何とか7月の法座に間に合う形で一巡しました。しかし取り切れなかった笹が茂っただけでなく、丁寧に取ったつもりの「つるもの」があっちでもこっちでもまた伸びて藪になっているのが癪に障り、8月中かかって2巡目の手を入れていました。

葛も藤も、とても根から引けるような代物ではありません。芽を出せば切り、芽を出せば切りしていれば次第に弱りはするのですが、取り残したつるが残っているとそこからまた根をはってしまったりと、とにかくキリがありません。みなさんどのように対応なさっているか聞いてみると、つるを少し残して切り、それを金槌でたたいてつぶした上で石油に浸してやると根まで枯れるとか、あるいは根枯らしの除草剤を原液で塗るとか、それぞれに苦労なさっているようです。

キリのない追いかけっこを止めてしまおうと、本気で「絶やす」ことを考えました。最初は石油作戦を使ったのですが、作業に時間がかかるのと、足場の悪いところでは結構困難な仕事になるのとで、途中から除草剤原液作戦に変えました。腰に下げている作業袋に、小瓶に入れた除草剤と、邪魔にならないよう先だけ切った筆とが加わりました。

葛を見かけると根もとをたどって、一応ペンチでつまんで引き抜けそうであれば引き抜きます。しかしまともに引き抜けるのは1/4くらい、ほかは結局諦めて(あるいは最初から)、切ったつるの先をペンチで握りつぶして除草剤を塗りつけていきます。どのくらいの効果があるのかはこれから様子を見ないとわかりませんが、手応えはあります。

しかし、それでも手に負えないのが藤です。崖の最上部、山の斜面の草木が途切れて赤土がむき出しになる部分に、ずっと藤が横にはっているのですが、根がいくつあるのか(つまりいくつの株なのか)すらつかめません。中心のつるはノコギリでないと切れない太さです。一応、たどれるだけ根もとまでたどって、切ったところには葛と同じように除草剤を塗りつけるのですが、何だか龍に噛みついているムカデのような気分になってきます。

もちろん、やっただけの効果はあるでしょう。しかし作業する場所が崖の最上端ということもあり、これを毎年続けると思うとげんなりします。根負けして手を抜き始めたらじきのこと元通り回復してしまいそうな感触で、作業をしながらすでに気力負けしています。

もともと、「葛藤」という言葉は好きな言葉でした。葛藤という出来事が好きだという意味ではなく、すっきりと割り切れなくて混乱した様を、葛と藤のつるのからんだ姿で形容するという発想がどこかほのぼのとした印象で、たとえば英語のコンフリクト(con:互いに + flict:ぶつかり合う)という表現との違いが気に入っていたのです。

ところが、コンフリクトの無機的な響きと違い、葛藤はまさに「生きて」いました。根を断てば終わりというほど簡単な話ではなく、断っても断ってもまた息を吹き返してきます。そうなると、コンフリクトよりは葛藤の方がよほど質が悪い。

そう言えば、臨済宗では公案のことを葛藤と呼んだはずです。解きがたい公案そのものではなく、私たちがとらわれている文字言語(概念化活動)の根深さを指しての言葉でしょう。

実際に葛と藤と格闘してみて、葛藤という言葉の味わいが変わりました。葛藤が私たちの存在の深いところに根を張っているのであれば、確かに救い(そこからの解放)は難題です。葛を許さず、藤を目の敵にしている私とはまったく違うところで、阿弥陀如来は私たちを受け止めて下さっているようです。

合掌。

文頭