一休み (7月7日)
ここのところ急に忙しくなって、どうも気持ちが落ち着かず、生活のリズムが噛み合いません。
このサイトを立ち上げた頃は、日がな一日何もすることがないような状況でした。「小人閑居して不善をなす」を地で行ってしまいそうでしたから、このサイト自体、自分にノルマを課すために始めたといった面があります。
そして午後は、天気さえよければ寺の庭や山の手入れをしていました。
これが貴重な時間でした。単に掃除というには度を超してはまり込んでいますので、基本的に「無駄」な作業です。ひたすらぼーっと、しかし一面では手元にしっかり集中して、ときの流れに身を任す。隠居の身ならいざ知らず、ぜいたくに過ぎることではありましたが。
ただ、そのように時間を過ごしていると、自分の内でいろんなものが育ってきます。ふとした思いや出会ったことがゆっくり発酵して、ちゃんとした「体験」として堆積していくような感覚でした。
先月は出講が8件重なり、しかも一つひとつのご縁が踏み込んで注文をつけていただいたものばかりでしたので、気持ちの上ではものすごく充実した一月でした。長いものは半年近くの時間をかけて準備していましたから、得られたものも多かった。はずです。
ところが、それを振り返ってみようとすると、自分にとっての「今」に根を張る前に遠い昔に流れ去ってしまったかのようで、宙に浮いた印象のみが残っており、リアリティが感じられないのです。
この忙しさは、喜んでばかりはいられないぞ、いつか大きなしっぺ返しが来そうだとは漠然と意識していました。あるいは、放電ばかりしていると充電が追いつかない、すっからかんになってからでは遅い、といった怖さとして自覚していました。しかし、何がどうまずいのか、どこをどう工夫すればそうならずにすむのか、具体的なことはわからずに、ただ無用にびくびくしていただけでした。
なるほど、こういう風にまずいのかと、今やっと納得できる結果に出会っているところです。
行事が立て込むと、前の行事が終わるとすぐに気持ちを次の行事に向けて切り替えなくてはなりません。わたしは古い気持ちを引きずる方ではないのですが、気持ちが動き始めるのに時間がかかる質なので、とにかく次の行事に向けて気持ちを立ち上げるのを急がないと、間に合わないのです。気持ちが動いていないところで行事に臨むはめになると最悪で、他人の身体を借りている居候のようになってしまい、やることなすこと気持ちが届かなくてぎくしゃくして、たいてい最後は途方に暮れて立ち往生することになります。
6月中は、個々の行事と並行して、「忙しい6月」という気持ちも同時に作っていましたから、何とかそのような事態に陥ることもなくしのげました。ところが7月への切り替えが間に合いませんでした。先日の行事では何とも気持ちが入っていかず、言葉が空回りして、久しぶりに立ち往生の気分を味わいました。申し訳ないことです。
忙しいとは心(りっしんべん)を亡くすと書くのだとは、昔から聞く話です。その意味がようやくリアルに追体験できるようになりました。暇ならよい、ということではないのです。行事が立て込んでいるときこそ、きちんと一息ついて、宙に舞っている気持ちの塵が静かに舞い落ちて積もるだけの余裕を取らなくてはいけないということなのでしょう。
これから、依頼された出講の「前」、行事に見合う最低限の静かな時間も込みで、予定を立てることにします。形式上「空いて」いる日であっても、気持ちを静める余裕を犠牲にする形になるのであれば、断る。これまでは、不遜で横着な態度のような気がしてそこまでの覚悟が持てなかったのですが、何とか回せると思っていたことこそより傲慢なことでした。
6月にいただいた一つひとつのご縁は、あれだけのものでありながら、個々のご縁としてはわたしは結局出会い損ねてしまったようです。
何もかも忙しくなっている現代は、実はとんでもなく傲慢な時代です。謙虚に楽に、一休みさせてもらう味を大切にしなくてはなりません。
合掌。
天上界 (7月30日)
以前、地獄について簡単な思いをまとめたことがあります(→地獄)。その延長というわけでもないのですが、別件を通じて天上界についても気づかされることと出会いました。
天上界は、六道(
地獄で参考にした源信和尚の『往生要集』には、六欲天第二の
かの
* 五衰の相 天人五衰のこと。諸天が死の直前に示す五種の衰亡の相。五種の相については異説もある。
* 本居 もとからの住居
そう思い至った詳細は省略させてもらいますが、結局、天上界とは死の問題のみがくっきりと残された世界なのです。
天上界は快楽の極まりない世界です。六欲天最上位の他化自在天に到っては、他の天界の神々のつくりだした欲望対象を自在に受け用いて自分の楽とすることができるとまで言われています。しかし天界といえども迷いの世界であることに変わりはなく、その快楽もやがて終わるときがきます。快楽が日常である世界であるからこそ、その終わりに際しての苦痛はかえって地獄の苦よりも大きい。「どうして自分だけがのけ者にされなくてはならないのだ」という思いにとらわれ、むき出しの孤独感・絶望感のうちに、転生を続けていくことになります。
現代先進国での(中層以上の人の?)生活は、ある面、天上界に限りなく近づいていると言えます。暑い最中に冷房を効かせて涼しく過ごし、いつでも食べたいものを食べ、空を飛び海に潜り、ひたすら刺激を求めていられる。インターネットは他化自在天の道具かもしれません。
そして、完璧なまでに死が隠されているところなど、天上界そのものでしょう。衰えた者は「草のように」あっさりと目に触れる世界から追放して、自分たちの快楽が汚されないように努める。嫌なものなど見たくもない。まさに元気な者、健康な者、快楽を享受する能力のある者「のみ」の世界です。
しかしそれだけに、老いのそして死の恐怖はすさまじいものになります。自分の居場所がなくなること、自分が完全に否定されてしまうことになるのですから。
それでいいのか。天上界の住人になりたい人にはいらぬお節介かもしれませんが、せっかく仏となれる身をよろこぶことのできる人間境界へ生れてきた以上、踏みとどまって問いなおしてみたいものです。
合掌。