ホトトギス (6月1日)
今年は、ウグイスの声をあまり聞きません。代りにホトトギスばかり鳴いている。
こんなにホトトギスの鳴き声が耳につくのは初めてのことで、実際、最初にはホトトギスと自信が持てず、「テッペンカケタカ」で検索して確かめたくらいです。
(ホトトギスは、テッペンカケタカ、特許許可局、あるいはホーットットッキーと聞こえる鳴き方をします。最後のホーットットッキーから名前がホトトギスになったという説明がありましたが、私にはどう頭をひねってもホトトギスとは聞こえませんでした。
山里で暮していながら鳥にはうとく、いつも聞いているはずなのに、たとえばメジロとホオジロを鳴き声で区別することはできません。そう書きながら本当に聞いたことがあるかすら心許なくなり、電子版の百科事典で確かめてみました。鳴き声が収録されているので再生して聞くことができるのですが、やっぱり区別できないし、いつも聞いているのかどうかも確信できないままです。
何だか、体温計で計って「数字」を見ないと自分が熱があるのかどうかさえわからないような、情けなさを感じます。)
ホトトギスがいる以上、ウグイスもいるはずです。(ホトトギスはウグイスの巣に卵を産みます。) 育て親のウグイスの声を掻き消してまで、夜も一日中鳴いているホトトギスの声に、自分の姿が重なります。
温泉 (6月4日)
比較的近くに、皮膚病に「劇的」に効く温泉があると耳にし、アトピーの末の子を連れて昨日の夕方入りに行ってきました。
家からだと車で 45 分くらい、今では合併で同じ周南市なのですが、旧熊毛(くまげ)町の呼鶴(よびづる)温泉です。聞いていたとおり、それほどパッとしないうらぶれた感じの温泉で、時間帯のせいもあってか入浴客も多くなく、銭湯代わりに使っている風情の近所の人が数人といったところでした。
(ラジウム泉で、パンフレットによれば「ラジウム含有量は世界屈指」とのことです。ただし、そのパンフレットに皮膚病のことは触れられていません。)
昨日の今日ですから、これで目に見えるほどの効果を期待しては虫が良すぎるなと内心思いつつも、やっぱり興味があって朝一番に子供の様子を見てみたら――何と本当に劇的に治っている! もぐらたたきよろしく、少し気を抜くとうわっと発疹の出ていたところが、どこも「枯れた」感じになって、さっぱりしているのです。
しかも、いつもは風呂上りに10分くらい時間をかけて全身に塗ってやる薬を昨日は塗っていません。これには驚きました。
丁寧に丁寧に、根気よく続けるしかない塗り薬と、のんびりつかるだけの温泉。いささか面映くなるほど安直ながら、自力の難行道と他力の易行道を思いました。
これほど効くのならば、ちょくちょく連れてきてやらなければという気になっています。
力み (6月8日)
子供の付き添いを交代しました。
手術後今日でちょうど2週間、じきに抜糸です。形成がからむほどの手術ではなかったので、傷が治ったらそれでお終い、リハビリなどは特に必要なかろうとたかをくくっていました。
ところが、思いのほか関節が硬くなっています。直接手術をしたのは右足の膝の裏なのですが、右の足首から腰までカチカチでとても歩けそうになく、リハビリの先生にほぐしてもらうことになりました。
先生の話では、知らず知らず「動かすまい」と力が入ってしまっていて、それで固まるのだそうです。結局、一番いいリハビリは傷をかばわずにふつうにしていることなのだとか。
痛いときは痛いままに、苦しいときは苦しいままに。それで大丈夫と支えてくださってあるお慈悲の前に、苦しむまいと力みかえって、かえって自分で自分の首を絞めている私たちなのでした。
陰 (6月13日)
サービスの行き届いた都会での生活に、からだがとまどっています。
こんなに空調のきいたところで過していて変調をきたさないとは、都会の人は丈夫だなあと、変な感心がしたくなります。そういえば田舎では、戸外での仕事のときなどいつも長袖で、今のように半そでのTシャツ1枚などということはありません。
時間の感覚も変になってきました。電車はいつも動いていて、目の前にきたものに乗る。コンビニはいつも開いている。思いついたときにやりたいことをするだけ……。
どちらを向いても柔らかく明るくて、陰影がありません。強い日差しも、身の引き締まるような闇も遠くに追いやられている。夕焼けすら、何だかスクリーンに投影された映像のように感じられてしまいます。
からだを、死を、忘れてはならない。
今 (6月17日)
「今」には拡がりがあります。
3ヶ月くらいかかる出来事に乗っかっている「今」は、3ヶ月の拡がりがある。3日がかりのイベントの中の「今」は、3日分拡がっている。
無自覚な反復の中に埋もれた「今」は、かえって根拠なく実体のない「永遠」に拡散しているのかもしれません。
めぐまれた3分、恩恵の3日、感謝の3ヶ月を、「今」で支えていきたいと思います。
仮の住居 (6月24日)
昼間は病院、夜はペアレンツハウスという生活が3週間になりました。
私は比較的「場所」によらず、どこにいても自分のペースが作れる方だと思うのですが、やはり安心して集中できる時間がとりにくいのは事実で、だんだん宙に浮いたようなフワフワした感じになってきています。
仮の住居とはこういうことか。
この娑婆世界、どこにいようと所詮仮の住居。確かな帰り先があるというのは心強いことです。
目当て (6月29日)
病院のすぐ近くを隅田川が流れていて、付き添いの合間時々川岸の公園へ息抜きに行きます。
対岸は高層マンションの立ち並ぶ新興開発地域で、川面にそのビルの影が映るのですが、気が付いてみるとどの影もみんな、私を目指して伸びています。ちょうど遠近法の図柄が逆転したような感じで、私がビルたちに見守られているような錯覚にとらわれました。
ご本願もこの私が目当て。あらためてありがたく味わわれたことです。