娑婆 (4月3日)
夜の間の冷たい雨があがって、静かな春の朝です。今年一番のウグイスの声を聞きました。
なぜか、娑婆(しゃば)という言葉を思いました。サンスクリット語サハー(sahā 「忍耐」)の音写で、「忍土」などと漢訳されることもあります。苦悩に満ちた、わたしたちの住むこの現実世界のことを指します。
しかし、苦悩が苦悩とわかることは、実は仏法が届いてくださってあるということです。思いがけぬウグイスの一声に、そう気づかされたことでした。
振幅 (4月7日)
ここのところ寒暖の差が激しく、風邪をひかないように気を使います。
しかも何だかそれがそのまま、私自身の気持ちの振幅のようで、よけいにこたえます。舞い上がるほどに感動するかと思えば、がっくりと落ち込み気持ちの寒さに震える、そんな毎日です。
が、よくよく考えてみれば、感動することはもちろん落ち込むことさえ、私が自由勝手にしている(できている)ことではありません。そのようなきっかけがあり、そうなるご縁に出会って、感動させてもらい、落ち込まさせてもらっているのでした。
すべて如来のみ手の内。そう思えば、落ち込むのも楽です。
芽 (4月13日)
草が一斉に芽を出し始め、今週末の法座へ向けて、庭の掃除に追われています。
スギゴケの手入れなど細かい草引きは大好きなのですが、時間が切られているので、気が急きます。もっと早くからかかればよかろうといっても、芽が出ないことには草引きはできません。
私たち凡夫の煩悩も苦悩も、煩悩と現われ苦悩と実現してこそ、如来の働きかけの手にかかるのでした。
モクレン (4月18日)
寺の庭に、大きなモクレンの木があります。
私が子供の頃から、同じところに同じ大きさで生えていました。例年ならばもっと早く、山のコブシに少し遅れて咲くのですが、今年はコブシもモクレンも遅れて、桜の時期にいっしょに咲きました。
2、3日前、ちょうど法座のときが一番きれいでした。それがあっという間に盛を過ぎて、真っ白だった大きな花も黒ずみ、あたり一面に無残な花びらを撒き散らしています。これからはしばらく、落ち葉ならぬ落ちた花びらを拾うのに大変です。
木に残っている、つぼみからまだ真っ白いままの花、そして黒ずんで垂れ下がっているものといろんな花を見ながら、私はどれだろうと思います。
地獄 (4月18日)
あなたは、地獄をご存知ですか。
私は、地獄に住んでいます。ただ――歓びながらですが。
輪廻 (4月23日)
歳を重ねてくると、時間が繰り返すものであることが納得できるようになります。
私は徹底的に、その繰り返しの中に――ということは、迷いの内に――あり、それがそのまま救いである……。
何とも不思議なことですが、そう言うしかないことなのでした。
冷春? (4月28日)
今日の日中はかなり「暑」かったのですが、今年は春が寒いようで――昨日の朝は霜が降りました――、まだウグイスの声をちゃんと聴きません。
が、カエルは代掻きの終わった田んぼで、元気に鳴いています。今でもうるさいくらいにゲコゲコゲコゲコ……。
少々寒かろうと暑かろうと、いのちはしたたかに続いていく。その凄まじさに、圧倒されています。