キジ (5月3日)
庭先の草刈をしていて、草むらごとキジの巣を刈り取ってしまいました。
毎朝、ケーン、ケーン鳴いていたのは知っていました。しかし、まさかこんな近くに巣を作っているとは思わず、かわいそうなことをしました。
草刈機をバリバリいわせながら作業をしていたのですが、ほんの1メートルあるかないか、ほとんど草刈機の歯が届かんばかりになって、親がひょっこり姿を現して向こうへ逃げました。「え?」と思ったときにはもう遅く、払った後に卵が5つ残っていました。
あわれ、キジの巣は私が跡形もなく刈り払ってしまいました。ところで自分自身の家はどんなものか。火宅無常の戒めを思います。
如来様の背中 (5月8日)
如来様は、私を決して見捨てたまうことがありません。私に背を向けようにも、如来様には背中がないのです。
本当は、如来様には色も形もありません。ですから当然顔も背中もないのですが、私が出逢う一切のことがらは――嬉しいことも、苦悩の種も――如来様の、私を目当てとする働きかけなのです。
それでも、如来様に背を向け続ける私なのです。
安心 (5月13日)
他力の信とは、阿弥陀仏の願いが私に届いた姿のことです。
私においては、私を取り巻く一切の事柄に対する、根本的な信頼と現れます。
それを安心(あんじん)と呼びます。
テッセン (5月16日)
テッセンの花が咲きました。青紫色の花がさわやかです。
茎が細くて硬く、針金のようであることから鉄線(テッセン)と名づけられたそうです。花から受ける印象と、呼ばれ方との間のずれを、長い間不思議に思っていました。
自分で草引きをし、一年を通して見続けてみて、ようやくうなずけるようになりました。花の間は短く、後はしつこくて手に負えないつる草なのです。
昔の人は、ひと時の花よりもその生き様で、この花を受け入れていたのでしょう。
花ばかり急ぎ、花にばかり目を向けている今日のご時世を思います。
人間 (5月20日)
何に育てられるかで、人間はひとにも畜生にも、鬼にも仏にもなります。
恐ろしいことです。ありがたいことです。
茶摘み (5月25日)
茶摘みが峠を越えました。
もっとも、お茶を摘むのは主に母の仕事で、私はお茶を揉むとき手伝うだけです。一葉ひとは摘んで、釜で火に当てしなっとさせたものを揉み、よくほぐし拡げて乾かし、ごみや大葉を選り分け、と簡単な番茶にするのでもけっこう手がかかります。
一番茶は柔らかく、ちょっと揉めばすぐ柔らかくなってきれいに捩(よじ)れ、やっていても愉快なのですが、この時期の二番茶・三番茶ともなると、汗びっしょりになって揉んでもどこか角張った感じた取れず、捩れずに葉っぱの形のままでいるものが残って、もういいことにしようとあきらめたときが揉み終わりです。
六月にかかるくらいで、例年茶摘みはお終いです。それより固くなるともう揉めません。
諸仏のさじを投げられたこの私を決して見捨てず、そのままよいお茶に仕上げてくださる阿弥陀様は、いったいどれだけの工夫をなさったのでしょうか。ご苦労をしみじみ思います。
苦 (5月29日)
苦しいのは、生きているあかしです。
苦(く)・集(じゅう)・滅(めつ)・道(どう)の、救いの入口です。