→太子讃について
大日本国粟散王聖徳太子奉讃 解説
本和讃については、 宗祖の真撰について議論があったが、 これについては後に享和三 (1803) 年深応書写本の奥書から、 第三代覚如上人による書写本の存在が明らかとなり、 本和讃が宗祖の真撰であることがほぼ確実なものとなった。 また、 宗祖は ¬上宮太子御記¼ を編纂された際、 ¬三宝絵詞¼ を主な典拠としながらも、 しばしば ¬聖徳太子伝暦¼ の記述を用いておられる。 本和讃においても典拠として ¬三宝絵詞¼ と ¬聖徳太子伝暦¼ が併用されていることから、 このような制作態度の共通性からも、 本和讃が宗祖の真撰であることが裏付けられる。
和讃の内容を窺うと、 はじめの二首はいわば総讃にあたるものであり、 これらは ¬正像末和讃¼ 「皇太子聖徳奉讃」 の第八および第九首目の和讃と同内容のものである。 三首目以降は太子の生涯の行実や事績を追っており、 太子の誕生からはじまり、 物部守屋の討伐と四天王寺の建立、 ¬勝鬘経¼ の講説や皇妃との入滅の近い等が述べられ、 最後は太子の数種の呼称にまで及んでいる。