本書の著者は源信和尚 (942-1017) である。 源信和尚は天慶五 (942) 年、 大和の當麻郷に生まれた。 父は占部正親、 母は清原氏であり、 父とは早くに死別している。 出家の時期は明らかではないが、 比叡山の良源のもとで研鑽を積み、 三十二歳の時、 横川の地に隠棲している。 本書の撰述は寛和元 (985) 年とされるが、 執筆期間がわずか半年であることや、 その間に示寂した師の良源について本書に何も記されていないことなどから、 本書の成立年には異論もある。 しかし、 事前に要文の抄出等の準備をした上で本書を半年で完成させ、 加えて、 自身ならびに同行への指南書という本書の性格により、 師の示寂という個人的事情については特記しなかったとも考えられる。 また、 本書は永延二 (988) 年に宋の天台山国清寺に送られて高い評価を得ている。 源信和尚は六十三歳の時、 権少僧都に任ぜられたが、 一年でこれを辞し、 寛仁元 (1017) 年六月十日、 七十六歳で示寂している。 横川の恵心院に住したことから、 恵心僧都とも呼ばれる。
本書は、 (1)厭離穢土 (2)欣求浄土 (3)極楽証拠 (4)正修念仏 (5)助念方法 (6)別時念仏 (7)念仏利益 (8)念仏証拠 (9)往生諸行 (10)問答料簡の十門から成り、 本書の内容については広略要の三例の見方が示されている。 まず広例とは正修念仏門を中心とする見方であり、 主として観念念仏を往生行の中心とする見方である。 次に略例とは助念方法門の総結要行を中心とする見方であり、 称名念仏を重要な行としながらも、 これを助念仏の位としてみるものである。 そして要例とは念仏証拠門を中心とする見方であり、 往生の行業とはまさしく他力念仏であるとするものである。 本書の諸説は多くの浄土教者を教導するとともに、 また地獄の描写等は後の日本文学にも影響を与えている。
ところで、 本書については、 建長五 (1253) 年刊行の刊記に 「或古本云自本此文/有両本遣唐本留和本今本是遣唐本也祇園精/舎无常院文有二行余是留和本也 已上 故知遣唐本/再治本明矣」 とあることから、 宋に送られた 「遣宋本」 と、 日本に留められた 「留和本」 との二つの系統があったとされ、 現存する諸本がそのいずれの系統に属するかが議論されてきた。 右の奥書によると、 留和本が草稿本、 遣宋本は留和本の本文の一部が削除された再治本であるとされるが、 その一方で、 遣宋本がむしろ草稿に近く、 留和本を後世の加筆本とする見方もあった。 しかし、 全文を完備する書写本として最古のものである最明寺蔵本が発見され、 その本文が留和本系統であったことから、 今日では留和本がより古い形態であると認められる。 両者の本文の細かい相違については、 これまで十六箇所が指摘されてきたが、 そこには後に付された註記や単純な誤刻等による文言の相違も含まれており、 実際には両本の本文の相違はそれほど大きいものではない。 このことから、 留和本と遣宋本との二系統の分類自体を疑問視する説もある。