六角堂における聖徳太子示現の文の感得が、 宗祖にとって大きな転換となったことはよく知られている。 宗祖は太子を 「和国の教主」 と尊称され、 敬慕の念を捧げられた。 そのような太子への深い思いから晩年まとめられたものが、 ¬皇太子聖徳奉讃¼ (75首) ならびに、 ¬大日本国粟散王聖徳太子奉讃¼ (114首) である。 このほか宗祖が太子について讃じられたものに、 文明本 ¬正像末和讃¼ にみえる 「皇太子聖徳奉讃」 11首 (以下、 十一首和讃) があり、 こちらが一首ずつ内容が簡潔しているのに対し、 両和讃は史伝に基づき、 時に複数の和讃にまたがりつつ、 太子の行実を並べ讃じる形式をとっている。 また、 両和讃は 「三帖和讃」 に比べてかなり調子が異なるため、 未定稿であるとの指摘や、 百十四首和讃を宗祖の真撰とみなすかについては議論があった。
まず、 七十五首和讃について内容を窺うと、 六角堂及び四天王寺の縁起や太子の前生譚にはじまり、 百済の使者から捧げられた太子礼讃の文、 そして、 太子による憲法十七条の制定、 磯長の太子廟の伝説等が讃じられている。 また、 和讃の終わり近くに至っては、 排仏に動いた物部守屋について繰り返し述べられ、 最後は憲法十七条の一節を詠じて和讃は終えられている。 これらの内容については ¬御手印縁起¼、 ¬聖徳太子伝暦¼、 ¬文松子伝¼ 等の史伝に典拠が置かれている。 なかには出典の記述をほぼそのまま和讃調にしたものもあり、 典拠と成史伝に非常に忠実な様子が窺われる。 その一方で、 憲法十七条の一節でやや唐突に終わる点などから、 本和讃を数編の未定稿が集められたものとする指摘もあるが、 宗祖真筆の断簡には首番号も見え、 また宗祖に先立って示寂した真仏上人が本和讃を書写していることから、 宗祖がこの内容と構成をもって書写を許可されたと考えられる。
次に百十四首和讃については、 宗祖の真撰について議論があったことは既に述べたが、 これについては後に享和三 (1803) 年深応書写本の奥書から、 第三代覚如上人による書写本の存在が明らかとなり、 本和讃が宗祖の真撰であることがほぼ確実なものとなった。 また、 宗祖は ¬上宮太子御記¼ を編纂された際、 ¬三宝絵詞¼ を主な典拠としながらも、 しばしば ¬聖徳太子伝暦¼ の記述を用いておられる。 本和讃においても典拠として ¬三宝絵詞¼ と ¬聖徳太子伝暦¼ が併用されていることから、 このような制作態度の共通性からも、 本和讃が宗祖の真撰であることが裏付けられる。
和讃の内容を窺うと、 はじめの二首はいわば総讃にあたるものであり、 これらは十一首和讃の第八および第九首目の和讃と同内容のものである。 三首目以降は太子の生涯の行実や事績を追っており、 太子の誕生からはじまり、 物部守屋の討伐と四天王寺の建立、 ¬勝鬘経¼ の講説や皇妃との入滅の近い等が述べられ、 最後は太子の数種の呼称にまで及んでいる。