観無量寿経註・阿弥陀経註 解説
 本書は、 宗祖が ¬観経¼・¬小経¼ の経文を書写し、 その行間や上下欄、 紙背に、 ¬観経疏¼・¬法事讃¼ など関係する註記の文 (以下、 註文) を細小な字で丁寧に書き入れたものである。 かつては本派本願寺宝庫に 「観無量寿経」 として保管されていたが、 昭和十八 (1943) 年の寺宝調査の際に注目され、 後述の通り宗祖真筆と確認された。 簡単な表紙のみで題簽などもなく、 ¬観経¼ 部分は二十八枚、 ¬小経¼ 部分は八枚の料紙を継ぎ合わせた巻子本であったが、 保存状態は良く、 破損箇所も殆ど無かったとされる。 昭和十九 (1944) 年の修復時に二経に分離し、 新たに表装して二巻となった。 この頃から 「集註」 とも呼ばれている。 経文の体裁は両経ともに一行十七字である。
 ¬観無量寿経註¼ (観経註) の経文は、 首題は善導大師 ¬観経疏¼ の記述と一致するが、 全体を三十三段とする本派本願寺蔵の刊本など現行の流布本と比べると聊か異なり、 九品段を上・中・下輩の三段にまとめるなど二十四段で構成されている。
 ¬阿弥陀経註¼ (小経註) の経文は、 「七重欄楯」 と 「有七宝池」 の段を連書する他は、 流布本と一致する。 段落を改める場合には符号で指示する箇所もある。
 次に ¬観経註¼ の註文は、 善導大師 ¬観経疏¼ の科段や註釈によっており、 ¬観念法門¼・¬往生礼讃¼・曇鸞大師 ¬往生論註¼・宗暁 ¬楽邦文類¼ が適宜引用されている。
 ¬小経註¼ の註文は、 善導大師 ¬法事讃¼ を主とし、 ¬往生礼讃¼・¬観念法門¼・元照 ¬小経義疏¼・¬称讃浄土経¼ が適宜引用されている。
 両註を合わせると、 欄外と紙背だけでも百九十以上にのぼる。 科段や註釈はおおよそ経文の右傍・左傍に書写され、 長文にわたる註釈などは上下の欄外に及ぶ。 紙背にも多く書写されており、 表書と対応するものも少なくない。
 また、 ¬観経註¼ 巻頭には、 漢字音の発声やアクセント、 清濁などを示す四声点図がある。 本文には、 声点 (圏発点) や区切り点、 時には訓点が付され、 欄外には異本や字句の情報などが加えられている。
 本書には、 宗祖の特徴的な文字である 「无」 が多用され、 文字の訂正法や、 善導大師や元照の書をそれぞれ 「光明寺疏云」 「大智律師疏云」 などとする引用法は、 ¬教行信証¼ など他の宗祖著作と共通する特徴である。 全体にわたって訂記等は少なく、 細心の注意を払って書写されているが、 流布本と相異する箇所も見受けられる。 宗祖披見の経疏が書写されたものとして貴重である。
 本書の成立時期については、 奥書もないことから、 筆跡などによって推定されている。 本書の筆致は、 多く現存する宗祖七十歳以降の真筆と比べると多少異なるといわれているが、 たとえば、 「照」・「爲」 の烈火を三点にする字形などから、 宗祖壮年期の筆と考えられている。
 また、 註文の内容からも検討が加えられ、 善導大師五部九巻のうち ¬般舟讃¼ のみが本書に引用されていないことが特徴とされている。 日本における ¬般舟讃¼ の伝来については、 「正倉院文書」 に天平二十 (748) 年の書写記録があり、 承和六 (839) 年に円行によって将来されたことが知られる。 その後伝来を絶ったようであるが、 源空 (法然) 聖人示寂から五年を経た建保五 (1217) 年に静遍によって仁和寺経庫から円行将来本が発見され、 その後開版されるなどして広く世に流布することになった。 こうしたことから、 本書の成立は、 宗祖が源空聖人の門下にいた二十九歳から三十五歳頃と推定されている。 ただし、 註文のうち朱筆で書写される ¬楽邦文類¼ は、 建暦元 (1211) 年に泉涌寺俊芿が将来した転籍の中に含まれ、 俊芿が京都に入ったのはその七年後である。 この ¬楽邦文類¼ や、 同じく朱筆で書写される ¬称讃浄土経¼ は、 墨書と比べてやや時代が下る書き入れと考えられる。 なお、 本書には宋版一切経による宋朝文字が見られることから、 宗祖が当国在住であった頃から帰洛に近い時期に成立したと推定する説もある。
 本書を宗祖真筆とする傍証としては、 存覚上人による披見・書写が挙げられている。 まず、 高田派専修寺に蔵され、 外題を ¬観阿弥陀経註¼ とする一巻本の奥書には、 「此本者以上人御自筆慥所奉写也自去年丁巳/季春之候至今茲戊午暮春之天渉両載数月之/居諸終一巻二経之書写訖経文釈文之交行也/愚蒙易迷大字小字之連点也不審難明之間為顧/短慮雖致固辞依願主慇懃之懇望励小量随分之/微功者也努力努力可被止外見而已/右筆釈存覚 廿九歳」 とある。 この奥書によると、 存覚上人書写本は、 約一年七ヶ月を要して、 宗祖真筆の本書を忠実に模写したものであり、 重要な文献である。
 次に、 ¬浄土三部経¼ 本派本願寺蔵正平六年書写本のうち、 ¬観経¼ には 「正平六歳 辛卯 十一月七ヶ日御報恩念仏中参籠/本願寺之間以上人御自筆本差声切句畢日来/所奉写持之本先年於関東紛失之間今楚忽/奉写之後日以此本可奉書写安置者也/於上下堺之上下行間難被記疏文略之 釈存覚」、 ¬小経¼ には 「正平六歳 辛卯 十一月廿八日於大谷御廟以御/自筆写声句畢御本所被披観経也称讃/浄土経文法事讃元照律師釈等難被/載之今所略也/釈存覚」 という奥書がある。 これによると、 存覚上人は正平六 (1351) 年に大谷本願寺にて宗祖真筆の ¬観経¼・¬小経¼ を披覧し、 経文には声点・句読点を施したが、 行間や上下欄外の註文は省略したといい、 実際に ¬観経¼ 冒頭には本書と同じ内容の四声点図が書写されている。 そうしたことから、 ¬観経¼ 奥書の 「上人御自筆本」 とは本書のことで、 古くから宗祖真筆と見られていたことがわかる。 また、 「先年於関東紛失之間」 とある存覚上人所持本は、 先述の専修寺蔵 ¬観阿弥陀経註¼ にあたると考えられる。 なお、 ¬大経¼ の奥書によれば、 存覚上人が書写した ¬大経¼ は、 宗祖外題・兼有律師加点本と伝えられる本であるが、 存覚上人当時、 本書に類する ¬大経註¼ があったかどうかは定かでない。
 以上のように本書は、 現在宗祖真筆と認められる筆跡の中で最も古い部類に属し、 宗祖壮年期までの著作や書写本のうち、 唯一まとまった形で現存するものでもある。 宗祖の浄土教転籍に対する精緻な研鑽の姿や、 その教学的関心が窺える書として重要である。