本消息は、 京都府清涼寺に蔵される、 源空 (法然) 聖人が門弟の熊谷次郎直実宛に返信した自筆の書簡で、 直実の疑問に答えたものである。
本消息の内容は、 「又かうせうのまんだらは、 たいせちにおはしまし候。 それもつぎのことに候。 たゞ念仏を三万、 もしは五万、 もしは六万、 一心にまうさせおはしまし候はむぞ、 決定往生のおこなひにては候。 こと善根は、 念仏のいとまあらばのことに候」 と述べているように、 念仏の実践を説くことに主眼が置かれている。
具体的には、 まず 「念仏の行は、 かの仏の本願の行にて候。 持戒・誦経・理観等の行は、 かの仏の本願にあらぬをこなひにて候へば」 と、 念仏が阿弥陀仏の本願に誓われた行であり、 持戒等の諸行は本願の行ではないことを示す。 そして、 「極らくをねがはむ人は、 まづかならず本願の念仏の行をつとめてのうへに、 もし⊂⊃おこなひをも⊂⊃しくはへ候はむとおもひ候はゞ、 さもつかまつり候」 と、 極楽往生を願う人はまず必ず念仏を称えるべきであり、 もし他の行を修したいのであれば、 念仏を称えた上で行うべきである旨を説く。 さらに、 「念仏をつかまつり候はで、 たゞことおこなひばかりをして極楽をねがひ候人は、 極楽へもえむまれ候はぬことにて候」 と、 念仏をせずに他の行だけを修して往生を願う者は往生が叶わない旨を説き、 その根拠を 「善導和尚のおほせられて候へば、 たん念仏が決定往生の業にては候也。 善導和尚は阿弥陀化身にておはしまし候へば、 それこそは一定にて候へと申候に候」 と述べて、 阿弥陀仏の化身である善導大師も念仏のみが往生の業であると論じた点に置いている。
次に、 持戒や孝養などについて、 「持戒の行は、 仏の本願にあらぬ行なれば、 たへたらんにしたがひて、 たもたせたまふべく候。 けうやうの行も仏の本願にあらず、 たへんにしたがひて、 つとめさせおはしますべく候」 と、 いずれも仏の本願の行ではないことを述べ、 戒や孝養は自身の能力の範囲でつとめる旨が示されている。 そして、 「まめやかに一心に、 三万・五万、 念仏をつとめさせたまはゞ、 せうせう戒行やぶれさせおはしまし候とも、 往生はそれにはより候まじきことに候」 と、 一心に三万回、 五万回と多くの念仏を称えたならば、 たとえ少々戒を破ることになったとしても、 往生の妨げにはならないと説いている。 また、 孝養については、 「けうやうの行も仏の本願にあらず」 と述べて、 仏の本願ではないとしながらも、 「たゞしこのなかにけうやうの行は、 仏の本願にては候はねども、 八十九にておはしまし候なり」 と、 直実の八十九歳になる母親のことに触れ、 「あひかまへてことしなんどをば、 まちまいらせさせおはしませかしとおぼえ候」 と、 高齢で直実一人を頼みとする母親を大事にし、 浄土往生が今年かもしれないという心構えを持っておくことを示している。
本消息の宛所である直実について、 ¬四十八巻伝¼ 巻二十七等では次のように伝えている。 もとは武蔵国の御家人であり、 平家追討の際には所々の合戦で活躍して名を挙げた武将であったが、 建久三 (1192) 年に所領争いから将軍に対して不信を生じ、 発心・出家して蓮生と名乗った。 そして聖覚法印のもとを訪れて後生菩提を尋ねたところ、 源空聖人に尋ねるよう促され、 源空聖人から罪の軽重を問わずただ念仏することで往生できると聞かされて涙し、 信心決定後は上品上生の往生を願った人物とされる。
本消息の成立について、 文末に 「五月二日 源空 拝」 と記されるが、 具体的な年までは記されていない。 おおよその年代としては、 直実自筆誓願状や、 前述の ¬四十八巻伝¼ 巻二十七に、 直実が元久元 (1204) 年に上品上生の往生を願った経緯が記されていることを踏まえ、 本消息にも同内容が見られることから、 直実が上品上生の往生を願った後、 すなわち元久年間 (1204~1206) 以降と考えられている。 なお、 本消息から推測される直実の疑問のほとんどが、 初歩的なものであることなどから、 源空聖人の室に入門した直後の建久四、 五 (1193、 1194) 年の成立との見解もある。
本消息は、 ¬拾遺語灯録¼ 巻下や、 ¬四十八巻伝¼ 巻二十七等に、 同内容が収録されている。