蓮如上人が撰述された著作で確たるものは和文の ¬正信偈大意¼ であって、 それまでにも 「正信偈」 についての註釈書を著されており、 現在伝わるものには漢文体で示された ¬正信偈註¼ と ¬正信偈註釈¼ がある。 「正信偈」 とは ¬教行信証¼ 「行文類」 末尾に置かれる偈文のことで、 その六十行百二十句には親鸞聖人が開顕された一宗の要義がおさめられている。 蓮如上人は後に 「正信偈和讃」 を開版されたことからも、 「正信偈」 に対する関心が非常に高かったといえる。 この背景には、 父である第七代存如上人の存在が指摘されている。 本願寺において 「正信偈」 を重視し、 単独の書物として最初に書写されたのが存如上人である。 蓮如上人はその意思を受け継ぎ、 「正信偈」 に関心を寄せられたと考えられる。
これら三つの書物の特徴を窺うと、 いずれも存覚上人の ¬六要鈔¼ の釈を承けて解釈されているが、 註釈方法については大きく異なっている。 すなわち、 ¬正信偈註¼ ¬正信偈註釈¼ は行間あるいは上下欄の空白に和讃や聖教の文言が細字で記されており、 手控本としての性格が強い。 このことは、 袖書に 「釈蓮如之」 とあるのが自用を示しているとみられることからも知られる。 これに対して、 ¬正信偈大意¼ は奥書に 「右此 ¬正信偈の大意¼ は、 金の森の道西、 一身して才学のために連々そののぞみこれありといへども…たゞ願主の命にまかせて、 ことばをやはらげ、 これをしるしあたふべきよし、 その所望あるあひだ、 わたくしにこれをしるすところなり」 と述べられるように、 金森の道西の懇望に応じて著された書とされ、 先の両書より平易かつ簡明な体裁をとっている。 これらの成立関係について示すと、 はじめに ¬正信偈註釈¼ が著され、 これを整理・補完して ¬正信偈註¼ が制作された。 ¬正信偈註釈¼ が、 ¬六要鈔¼ の表記を忠実に受けて経の文言を省略しているのに対して、 ¬正信偈註¼ はその文言や経名の補い・整理がなされている。 その形跡は、 たとえば ¬正信偈註釈¼ において上下欄の空白に記されている経文の多くが、 ¬正信偈註¼ においては本文に編入されていることなどに見られる。 このことから、 ¬正信偈註¼ は先だって著された ¬正信偈註釈¼ の補訂本とみることができる。 この ¬正信偈註¼ を元に ¬正信偈大意¼ は、 長禄四 (1460) 年に著されたとされるが、 滋賀県善立寺蔵本の奥書には、 長禄二 (1458) 年に撰述された旨が記されている。 この相違については誤写とも、 同二年が草稿本を示し、 同四年が完成を示したものともいわれる。 さらに奈良県教行寺蔵本の奥書から寛正二 (1461) 年に重ねて清書されたことがわかる。 現存するものには室町時代の書写本が多く、 早い段階で広く流布していたと考えられる。 なお、 ¬金森日記抜¼ によれば、 ¬正信偈大意¼ の蓮如上人自筆本は元亀兵乱で焼失したといわれている。