本書は、 覚如上人の門弟乗専の撰述である。 乗専は、 もと清範法眼と号していたが、 覚如上人六十二歳の頃に帰依し、 出雲路に毫摂寺を創建するなどした。 覚如上人口述の ¬口伝鈔¼・¬改邪鈔¼ を筆記したほか、 数多くの聖教を書写しており、 覚如上人の信任が厚かったようである。
 本書は七巻二十八段から成る覚如上人の伝記である。 ただし、 現存する古写本には、 第三・四巻を欠いており、 かなり古い時代に失われたようである。
 現存している各巻の内容は、 概略以下の通りである。
 第一巻は、 全二十八段中の第一段のみで構成され、 まず、 自ら善行を積むことでは迷いを超えることができない衆生を、 阿弥陀仏の本願は摂め取って捨てないので、 闘魂の衆生は真宗の教門に帰し、 極楽の往生を期すべきであると述べられている。 次に、 インド・中国・日本の先学、 源空 (法然) 聖人、 宗祖、 如信聖人、 覚如上人によって阿弥陀仏の教えが連綿と受け継がれてきたことが示されている。 なお、 源空聖人に関する記録は、 善導大師の夢告を承けたという逸話を含めた求道の様子が示されている。 また、 宗祖に関する記録は、 ¬慕帰絵¼ では極めて簡単に触れられているにすぎないが、 本書では ¬親鸞聖人伝絵¼ でいうところの、 出家学道・吉水入室・六角夢想・選択付属・師資遷謫に該当する部分がまとめて記されている。 そして、 父である覚恵上人の来歴と覚如上人の出自・誕生が明かされ、 第一段が結ばれている。
 第二巻は、 幼少期の聡明さと修学の有様が述べられる。 第二段では、 三歳の頃、 生母との死別を機に大人びた言行をするようになり、 五、 六歳にして周りの者が舌を巻くような利発さであったことが明かされている。 第三段では、 慈信房澄海の下で ¬和漢朗詠集¼ をはじめとした内典・外典にわたる教えを受け、 長じては藤原南家の大内記業範に学んだこと、 さらには ¬慕帰絵¼ の記述と同じく、 ¬倶舎論本頌¼ の暗誦とと天台の秘書である ¬初心抄¼ の付属について述べられている。 第四段では、 十三歳の頃、 天台の名匠宰相法印宗澄のもとで学んだことが記され、 第五段から第七段では、 十四歳の頃、 南瀧院浄珍の坊に連れ去られたことの事情が、 ¬慕帰絵¼ よりも詳しく描写されている。
 第五巻は、 第十七段では慈信房善鸞に関して、 第十八段では唯善との論争について述べられており、 それぞれ、 ¬慕帰絵¼ 第四巻の第一段、 第五巻の第一段に対応している。 次の第十九・二十段の修学課程の内容は、 ¬慕帰絵¼ に無い記述である。 第十九段では、 阿日坊彰空から浄土宗の西山義を聴受し、 また慈光寺勝縁から幸西の一念義を習学したことが記されている。 第二十段では、 澄海の真弟である禅日坊良海から大谷南地を譲り受けた際、 澄海やその師である敬日坊円海の鈔物・秘書等をもらいうけ、 それによって隆寛律師の凋落寺流を学び、 宗祖の教えに対する領解を深める縁としたことが明かされている。
 第六巻は、 第二十一段では、 自性房了然に三論宗の師授を得たことが記されている。 第二十二段では、 如信上人の臨終の様子とその後の仏事について記され、 師長の厚徳の謝しがたいことが述べられている。 第二十三段、 第二十四段では、 覚恵上人が病を患う中、 唯善が大谷廟堂強奪を企てたことによって、 覚恵・覚如両上人が大谷の地を追われたこと、 そして覚恵上人の臨終やその後の年忌法要の様子が示されている。
 第七巻は、 第二十五段では、 漢詩や和歌などの風雅の道について、 わずか一段に簡潔に記されており、 ¬慕帰絵¼ で第六巻以降のほとんどが詩歌に関するもので占められているのとは大きく異なっている。 第二十六段では、 覚如上人の著作について述べられている。 そして、 第二十七段では、 都での戦乱の最中に覚如上人が臨終を迎えられたこと、 第二十八段では、 葬送の様子と奇瑞に関することが述べられ、 本書が結ばれている。
 本書は、 覚如上人示寂から九ヶ月後に制作された ¬慕帰絵¼ を補うものとされ、 奥書に 「文和元歳 壬辰 十月十九日令書写安置之/隠倫乗専」 とあるように、 示寂の翌年の文和元 (13529 年十月十九日に成立している。 第一巻第一段に 「たゞ法門宣説の物にして、 おりにふるゝ雑談もありし次に、 聖道経歴の古の事をもかたりいで、 真宗帰入の昔のゆへをもしめし給しことのをのづから耳にとゞまり、 わづかにこゝろにうかぶをしるしはんべれば」 などとあり、 乗専が聞き受けていた覚如上人の事績を書きとどめたものとして資料的価値が高く、 ¬慕帰絵¼ と比べて、 より詳しく細かな描写がされている。 なお、 本書の制作に当たっては、 存覚上人が関わっていたとも考えられている。
 なお、 欠巻となっている第三・第四の詳細は不明だが、 構図を絵師に指示した指図書を忠実に写した江戸時代末期影写本が本派本願寺に伝存しており、 それによると覚如上人の十四歳から二十歳にいたる七年間の亀茲で構成されていたと推測できる。 また、 全巻にわたって絵図は全く伝わっておらず、 絵巻化が行われたかどうかは不明である。