本書は、 存覚上人の撰述である。 存覚上人については ¬存覚一期記¼ を参照されたい。 本書は、 題号に 「わずかに」 という意味の 「纔」 が用いられている通り、 平易な言葉で簡潔に述べられている。 その内容は、 ¬大経¼ に説かれる五劫に関することと、 外道に関すること、 聖道諸宗に関することの三段で構成されている。
以下、 格段の内容を略記すると、 第一には ¬大経¼ において、 法蔵菩薩因位の時に 「具足五劫、 思惟摂取荘厳仏国清浄之行」 と説かれる 「五劫」 という時間の指し示す範囲について述べられている。 つまり、 「五劫」 という時間の長さは法蔵菩薩の思惟とその後の修行を含むものなのか、 それとも法蔵菩薩の思惟のみを指すのか、 という二義を解説するものである。 浄影寺慧遠や憬興などの説では、 五劫は法蔵菩薩の思惟のみならず修行の時間をも含み、 思惟と修行を兼ねたものとして示される。 一方、 義寂の ¬大経義記¼ には 「たゞかの願を思惟し成就する時節なり」 とあり、 五劫は思惟のみに限定されることが述べられている。 この二義の中、 存覚上人は、 義寂の説が ¬大経¼ の説相に准ずるものであり、 また 「しかうしてのちに修行したまへる時分は兆載永劫なり」 と示し、 五劫を思惟の時間とするのに対して、 「兆載永劫」 を修行の時間と理解している。
第二には、 外道の数を 「九十六種」 とも 「九十五種」 ともいうことについて、 ¬涅槃経¼ の説に基づいて示されている。 「九十六種」 については、 釈尊在世当時の六師外道とその弟子の数を合わせて算出される。 すなわち、 「一には富蘭那迦葉、 二には末伽梨拘賖梨子、 三には刪闍耶毘羅胝子、 四には阿耆多翅舎欽婆羅、 五には迦羅鳩駄迦旃延、 六には尼乾陀若提子なり」 と示される六師にそれぞれ十五人の弟子がつくことから、 六師と弟子九十人とを合わせて 「九十六」 の数になるという。 一方、 「九十五種」 については、 仏教以外の諸道を外道とし、 それを細分すると 「九十五種」 になると示され、 外道の例として 「神道・仙術・医方・陰陽・天文・卜巫」 を挙げているのみである。
第三には、 「弥陀を見たてまつれば、 十方一切の諸仏をみる」 という ¬観経¼ 取意の文によって、 浄土宗では、 一心に阿弥陀仏を念ずることは、 十方のすべての諸仏を念ずる意があることを示し、 諸仏が阿弥陀仏の仏智より生ずるという、 いわゆる弥陀本仏説を明かされる。
このように自宗の仏や教義を主張することは各宗においても見られることであるから、 次に聖道諸宗の事例を挙げている。 すなわち、 真言宗では 「一切の諸仏の中には、 大日如来を本とす」 とあるように、 大日如来をすべての仏の本仏であるとすること、 天台宗・華厳宗でも 「天台宗には、 釈迦をもて本とす」 や 「華厳宗にも、 釈迦を本とす」 とあるように、 釈迦を本部つとすることが説かれる。 三論宗では、 「諸仏みな平安なり、 諸経もみな一理なりといふ」 とあるように、 諸仏はみな平等であって諸経はすべて一理であること、 また、 法相宗では 「唯識の観門をもて至極とす」 とあるように、 唯識が至極であることが示され、 律宗では 「一切の功徳、 善根の中には戒を本とす。 されば戒はこれ仏法の大地なりといへり。 これすなはちもろもろの草木のたねあれども、 地にうへざれば生長せず。 一切の功徳、 戒をたもたざれば、 生長することなしとなり」 と示されるように、 戒を本とし、 戒を大地に喩えて、 いくら種があっても大地に植えなければ成長しないのと同様に、 基礎となる戒がなければすべての善根は成長しないことが述べられる。 また、 禅宗では、 「禅の一法は教によらずして、 みづからしるみちなり」 とあるように、 教法ではなく、 禅定によるべきことが明かされている。 なお、 このように聖道門の教えを自著に援用することは存覚上人において広く見られる点であり、 このことは聖道門に対する存覚上人の融和的・寛容的な態度ともいうべきものの一端を示すといわれている。 この一段も、 短文ではあるが、 そのような存覚上人の聖道門に対する姿勢と軌を一にするものであるといえる。 ただし、 存覚上人においては、 聖道諸宗の教義を一旦は容認しながらも、 最終的にはこの末世では浄土門の一門のみが救済されるべき道であること、 つまり、 念仏の絶対性へと止揚する意図があることを十分に考慮しなければならない。
本書の成立については、 光徳寺蔵本の 「此三箇条依乗智房望楚忽書与了/康安二歳 壬寅 七月廿八日 存覚 御判」 との奥書から、 存覚上人が本書を乗智房なる人物の求めに応じて、 康安二 (1362) 年、 存覚上人七十三歳の時に著されたことがわかる。 乗智房については、 いかなる人物か定かではないが、 ¬存覚一期記¼ によれば、 康永二 (1343) 年、 存覚上人は乗智房のために ¬教行信証¼ の延書本を制作しており、 存覚上人に近しい人物像が想定される。 また、 ¬浄典目録¼ には 「纔解記一巻 出雲路所望」 との記述があるが、 この 「出雲路」 と乗智房との関係は不明である。