末灯鈔 ¬末灯鈔¼ は、 覚如かくにょ上人の次男じゅうかく上人 (1295-1360) が正慶しょうきょう二 (1333) 年四月に編集されたものである。 この年に従来安置していた親鸞聖人の御消息数通に、 諸国に散在していたものや法語を加えて二十二通とし、 年号や日付の前後錯乱等を正し、 編集したものであることが、 従覚上人の正慶二年の跋文から明らかである。 その後、 従覚上人はけん三 (1336) 年の大谷本願寺の火災で安置していた初稿本が焼けてしまったので、 建武五 (1338) 年六月に転写本を書写し、 翌月再治している。
 本鈔の成立は、 他の御消息集に比べれば、 年代的には最も遅い。 しかし、 その流布は最も広く、 古写本もかなり多い。 本章の冒頭には 「本願寺親鸞大師御己証辺州所々御返事等類聚抄」 とあるが、 ¬末灯鈔¼ という書名は、 首題にも尾題にも奥書にもみえない。 したがって外題に付された書名であったと考えられるが、 従覚上人の自筆本が現存せず、 現在最古の書写本であるじょうせん書写本も表紙が失われており、 当初から ¬末灯鈔¼ という書名があったかどうかは明らかでない。 ¬末灯鈔¼ の書名を持つ本の初見は、 大谷大学蔵の蓮如れんにょ上人書写本である。 この本は文安ぶんあん四 (1447) 年の奥書を持つ上人自身の手による書写本であり、 下巻の表表紙に上人の筆で 「末灯鈔 末」 (左上題箋) と右下に 「釈蓮如」 の袖書がある。 この頃から 「末灯鈔」 の外題を持つ書写本が見られるので、 恐らく蓮如上人の頃から付された書名であったと思われる。 なお表紙は、 一般に流布しているものは本末を分けていないものもあるが、 原形は本末二巻である。
 さて、 本鈔には種々の古写本がある。 まず滋賀県慈敬寺蔵本と大阪府願得寺蔵本は、 ともに覚如上人の高弟乗専の書写にかかる。 前者は本巻 (題一通~第十三通) で康永こうえい三 (1344) 年の奥書があり、 後者は末巻 (第十四通~第二十二通) で康永元 (1342) 年の奥書がある。 この奥書から乗専は少なくとも二回、 本鈔を書写したことになる。 乗専書写本は現在知られている書写本の中で最も古いものであり、 本鈔成立後十年余りの書写本であるから、 最初の面影をよく伝えている。 また蓮如上人書写本など後世の多くの書写本にみえる 「凡斯御消息者念仏成仏咽喉 愚痴愚迷之眼目也可秘々々而已」 の奥書を持つ初めての書写本として注目される。 ただ、 「真蹟消息」 と重複するものには写伝の誤りと思われる箇所がある。
 愛知県浄光寺旧蔵版は、 本巻の本文の初めに 「親鸞聖人御消息集」 とあり、 奥書の類はまったくない。 この本に収録されている御消息はすべて ¬末灯鈔¼ にあり、 その配列順序、 内容等よりみて、 従覚上人が ¬末灯鈔¼ を編集した際、 この系統の原本が材料になったとみることができる。
 龍谷大学蔵室町時代中期写本は、 第二十通が第十九通に続いて記されており、 ¬しんしゅう法要ほうよう¼ 所収本と同じく二十一通の体裁になっている。 正嘉二年の奥書のみがあり、 建武五年の再治の奥書がないことから、 初稿本の形態を伝えていると考えられる。
 ¬真宗法要¼ は、 真宗典籍の刊行の氾濫による教学の混乱を避け、 聖教の真偽を簡別して聖教の統制を計るため、 ほうにょ文如もんにょ両宗主が親鸞聖人五百回大遠忌の記念事業としてたいがん僧樸そうぼく道粋どうすい等に命じて、 めい二 (1765) 年に本願寺蔵版として刊行したものである。 ¬末灯鈔¼ は第三巻目に収められ、 蓮如上人の文安四年の識語を持つ書写本を底本にし、 正慶二年と建武五年の了奥書を持つ書写本で校合しており、 本末を分けていない。