本鈔は、 存覚上人の撰述である。 存覚上人については ¬存覚一期記¼ を参照されたい。 「決智鈔」 という題号は、 末世において仏智一乗の法門が法華と念仏のいずれにるのかを決判する、 という意味から名づけられたものとされている。
 本鈔は、 日蓮宗徒との対論を受けて、 法華と念仏の関係を論じながら、 末代鈍根の凡夫が救われる法は念仏であると主張したものであり、 概要は以下の通りである。
 まず、 「ひろく一代半満の教をたづぬるに、 衆生出離の門にあらずといふことなし。 諸経のとくところまちまちなれども、 菩提の覚位を成ずるをもて詮とし……」 と述べて、 すべての教えが衆生出離の門であるとする存覚上人の理解が示される。 そして、 数多に分かれた釈尊一代の法門を、 聖道門と浄土門に配当している。 その聖道門とは、 現身に法性の理を顕すことを説く自力修入の道であり、 浄土門とは弥陀の名号を称えて本願に乗じて順次に極楽浄土へ往生し、 さとりを得る道であると定義している。 このように二門を設けることは、 釈尊在世の機は聞経の功徳により得益して未来に成仏するという記別を受けるが、 末世造悪・障重鈍根の凡夫は聖道門の修行に堪えることができないために易行の一道である浄土門を設けて他力往生が示されたと述べている。 すなわち、 念仏往生は時機相応の教えであり、 これは如来真実の所説、 諸仏証誠の教法であると、 念仏の教えの正当性を主張している。
 そして、 以下に二十二の問答を設けて日蓮宗徒の問難に弁釈していく。 その問難は、 たとえば念仏は無間地獄の業であるとするもの、 釈尊の出世本懐は浄土経典ではなく ¬法華経¼ であるというもの、 浄土教は大乗ではないとするもの、 ¬法華経¼ 以前の教説はすべて方便であるとするもの等、 法華最上の立場を示したものである。 これらの疑難に対し存覚上人は、 ¬法華経¼ の功徳が優れていることを認めた上で、 念仏と法華はどちらも仏智一乗の法門にして一法であるとの理解を示しながらも、 結論としては念仏を修するべきことを説いている。 すなわち、 「たゞし末代鈍根のわれらには修行成就しがたきがゆへに、 易行の念仏に帰して……」 「濁世末代の衆生、 在家愚鈍の凡夫、 まめやかに生死をはなれんとおもはゞ、 一心に西方をねがひ、 一向に念仏を行ずべきものなり」 等と処々に述べられているように、 末代鈍根の者に聖道門の修行は成じ難いので、 生死出離のためには易行の念仏に帰して一向に行ずべきことを勧めている。 このような存覚上人における法華と念仏の理解を窺う上で特徴的な点は、 三論宗の等・勝・劣の三義、 および天台宗の分別・開会の二義を援用して論じることである。 すなわち、 等・勝・劣の義で窺えば、 聖者のためという観点からは法華が勝にして念仏は劣、 凡夫のためという観点からは念仏が勝にして法華が劣となる。 一法でどちらも仏智一乗の法門であり出離の因となるという観点からは、 念仏と法華は等同であるとする。 分別・開会の義で窺えば、 分別門の立場で見ると、 念仏と法華は称名と実相、 事教と理教、 往生と成仏、 為凡と為聖、 易行と難行、 他力と自力といった異なりがあり、 機根相応の観点から互いに勝劣を生じる。 一方、 開会門の立場で見ると、 ともに仏智一乗の法門であるから同じものであり、 分別門における相違がすべて不離、 不別、 不二、 一益であると示される。
 このように、 法華と念仏はともに仏智一乗の法門、 本来一法の関係であるが、 約時被機の観点から念仏を勧めている。 すなわち、 理論的側面からすれば法華と念仏に優劣はないが、 実践的側面から見れば念仏は末世鈍根の機も修することができるから、 法華より念仏が優れていると決判している。
 なお、 本鈔の処々に見られる、 他の教義をいったん認めた上で、 別の視点から自宗の教義の優位性を示し、 他の教義を斥ける与奪論法は、 ¬浄土真要鈔¼ 等の存覚上人の種々の著作に見られる。
 本鈔は、 ¬存覚一期記¼ 四十九歳の冬に、 「四十九歳 暦応元 三月、 於↢備後国府守護前↡、 与↢法花宗↡対決了……其次作↢¬決智抄¼↡了」 とあるから、 暦応元 (1338) 年、 存覚上人四十九歳の時に備後国で日蓮宗徒と対論した後、 その対論を契機に撰述されたものである。 本鈔の所望者については、 本派本願寺に所蔵される ¬浄典目録¼ によれば、 備後国山南の慶空であったと伝えられる。 一方で、 大阪府真宗寺に所蔵される ¬浄典目録¼ には明光上人の所望と伝えられる。 このように両説あるが、 寂慧の ¬鑑古録¼ に、 「暦応元 戊寅 年、 存師四十九歳三月。 備後国ニシテソノ守護某ニテ、 日蓮宗僧輩法問アリ……コノトキ、 同国南山慶空所望ニヨリテ、 決智鈔、 歩船鈔述作……」 と記されていることを鑑みて、 慶空の請いに応えて著された書であると考えられている。