底本は高田派専修寺に蔵せられる。 本集は二冊で現存しているが、 これらは元来一冊だったものが、 後に三冊に分冊された内の二冊であるとされる。 すなわち現存のものは ¬唯信鈔¼ の収録が途中からとなっており、 現存する二冊に先行する、 いわば第一冊目が存在したと考えられるからである。 現存するうち第二冊に当たるものには 「見聞集」、 第三冊に当たるものには 「涅槃経」 と、 それぞれ異なる外題が宗祖によって付されているが、 一般に 「見聞集」 と併せて通称される。
本集の成立については所説あるが、 当初は袋綴の体裁で、 漢字と平仮名とを用いて書写された聖覚法印の ¬唯信鈔¼ が途中から奥書まで書写され、 その奥書から尾題までの間に、 法印がかつて源空 (法然) 小人の六七日に際して制作した表白 (聖覚法印表白文) と、 法印が後鳥羽上皇の第三皇子雅成親王へ宛てた消息 (御念仏之間用意聖覚返事) が書写されている。 ¬唯信鈔¼ に 「文歴二歳 乙未 六月十九日 愚禿親鸞書之」 との書写奥書があるが、 この年の三月に法印が示寂されていることから、 その報に接した宗祖が一連にしたためたのもといわれている。
ところが後に、 他の聖教を書写する必要が生じたようで、 宗祖はこの袋綴の小口を割き、 その裏に ¬般舟讃¼ ¬浄土五会念仏略法事儀讃¼ ¬涅槃経¼ の文と、 更に後鳥羽上皇が法印を釈尊として拝したという夢の記録 (或人夢) とを書写されている。 したがって本集は、 結果的に袋綴の表面に書写されたものと、 裏面に書写されたものとが、 見開きごとに交互に出現するという特殊な形態を有することとなっている。
本集は、 宗祖の聖覚法印への敬慕を伝えるという面もさることながら、 宗祖の六十三歳当時の筆を伝えるものとして筆跡の判定基準ともなっている貴重なものである。 なお本集最後部に書写されている釈尊に関する記録については ¬涅槃経¼ に付記されたものと判断してその末尾に載録した。