本書の著者は善導大師 (613~681) である。 大師は、 光明寺和尚、 宗家大師、 終南大師とも呼ばれる中国浄土教の大成者であり、 その生涯は数多くの伝記より知られる。 誕生の地は、 臨淄 (現在の山東省臨淄) とされるが、 あるいは泗州 (現在の江蘇省宿遷) ともいわれ、 年少の頃に明勝について出家したとされる。 各地を遍歴して求道の師を訪ね歩き、 阿弥陀仏の西方浄土の様相を描いた浄土変相図をみて深い感銘を受け、 浄土往生を願うようになったとされる。 そして、 すでに晩年であった道綽禅師を玄中寺に訪ねて、 その門下として研鑽を積んだ。 道綽禅師が示寂した後には長安に向かい、 終南山悟真寺、 光明寺、 慈恩寺、 実際寺等に止住して、 活発な教化活動を展開し、 念仏弘通につとめた。 その姿勢が熾烈なものであったことは、 生涯のうちに書写した ¬阿弥陀経¼ は十万巻、 描いた浄土変相図は三百余鋪であったと伝えられる点からも窺うことができる。 また、 唐の高宗、 皇后武氏の発願勅命による国家事業であった洛陽雁門石窟の大仏造営において、 監督の任である検校僧として携わったといわれ、 その多彩な活躍が知られる。
 大師が ¬観経¼ を中心に自身の教学を形成したことは、 道綽禅師の影響があったことは勿論であるが、 一方で中国における ¬観経¼ の隆盛が背景にあったと考えられる。 ¬観経¼ は畺良耶舎によって中国で訳されると、 南北朝末期頃から注目されるようになり、 随・唐の時代までには講説や読誦あるいは註釈書が少なからず見られ、 今日に伝えられる著作の真偽は別にしても、 浄影寺慧遠をはじめ天台宗の智顗、 三論宗の吉蔵などの各宗の立場から、 あるいは摂論家などによって ¬観経¼ の研究がなされる。 そのような中で著された本書に通底するのは、 「古今楷定」 といわれる、 古今の諸師の ¬観経¼ 理解をあらため、 同経の真意すなわち仏意を明らかにせんとする大師の意趣である。
 本書は 「玄義分」 「序分義」 「定善義」 「散善義」 の四巻 (帖) にて構成されることから、 ¬四帖疏¼ ともいわれる。
 「玄義分」 は、 ¬観経¼ を註釈するに際し、 まずもってその玄旨を明かした総論部分にあたる。 はじめに 「帰三宝偈」 (「勧衆偈」、 「十四行偈」 ともいう) と呼ばれる五字一句の偈頌がおかれ、 その後に序題門、 釈名門、 宗旨門、 説人門、 定散門、 和会門、 得益門の七門にわたり大師独自の ¬観経¼ 理解が明示されている。 そこには善導教学の大綱が集約して述べられており、 九品の機類はすべて凡夫であり、 下下品の凡夫が願行具足の念仏によって往生できることが示され、 すべての衆生の往生の道が説かれている。 また、 凡夫が往生できる阿弥陀仏の浄土は、 程度の低い凡聖同居土や応身応土ではなく、 因願酬報の勝れた報身報土であることを証明し、 それは仏願力によることが明かされている。
 「序分義」 以下の三巻は、 ¬観経¼ の叙述に沿った詳しい註釈である。 大師は ¬観経¼ が王舎城の王宮 (王宮会) と耆闍崛山 (耆闍会) とで説かれたこと (一経二会) を示し、 その全体を序分、 正宗分、 得益分、 流通分、 耆闍分 (会) の五つに分ける。 序分をさらに証信序と発起序に大別し、 そのうち発起序の中に化前序を設け、 続けて禁父縁、 禁母縁、 厭苦縁、 欣浄縁、 散善顕行縁、 定善示観縁に分けている。 また、 耆闍分の中は正宗分、 得益分、 流通分の三つに分ける。 「序分義」 では、 冒頭から第一観である日想観に入る直前までの範囲を註釈する。 「定善義」 では、 正宗分として韋提希の請いに応じて説かれた定善十三観の一々について註釈を施し、 「散善義」 では、 釈尊が自ら開説した散善の九品段までを正宗分として註釈して、 得益分、 流通分、 耆闍分に続いて後跋を付し、 本書を結ぶ。 その中、 注意されるのは至誠心・深心・回向発願心の三心の解釈である。 まず、 至誠心とは真実心であり、 往生の行は内外相応の真実心においてなされなければならないとし、 次に深心とは深く信ずる心であると規定し、 それを二種の相に開いていわゆる機法二種の深心を示している。 さらに、 法の深心の中、 就人・就行立信を示して五正行のうち称名が正定業であることを明かし、 阿弥陀仏の本願に順じることを示している。 また、 回向発願心は、 至誠心と深心にもとづき、 過去世および今生における自他の善根をもってふりむけ、 往生を願う心とする。 なお、 信心を守護するために具体的な様相をもって示したのが二河譬である。 流通分においては、 阿難に付属されたのは定散二善ではなく称名念仏であり、 下品に示された称名念仏による往生こそが ¬観経¼ の中心であるとして念観廃立の義を明かしている。 また、 そのことは ¬観経¼ という経典が定善観法を修すことのできる聖者のために説かれたのではなく、 すべての凡夫のために説かれた 「為凡の経」 であることを示しているのである。
 大師の現存する著作は、 古来より 「五部九巻」 と総称される。 五部とは本書および ¬法事讃¼ ¬観念法門¼ ¬往生礼讃¼ ¬般舟讃¼ を指し、 九巻とは本書四巻、 ¬法事讃¼ 二巻、 その他三部一巻ずつの三巻を合わせた呼称である。 本書を善導教学の要諦が明かされていることから 「本疏」 あるいは 「解義分」 と称するのに対して、 他の四部は浄土教の儀礼・実践を中心とした内容であることから 「具疏」 あるいは 「行儀分」 と称している。
 五部九巻の撰述年代は、 おおよそ長安在住の頃であろうと想定されるが、 五部それぞれの種々の説が提示されている。 たとえば、 本書については唐太宗の ¬聖教序¼ との関係から三十六歳から四十四歳までの間とみる説、 ¬法事讃¼ については末尾にある唐王室の資福の願文を糸口として四十四、 五歳頃とみる説、 あるいは国家事業であった龍門の大仏造営の検校僧になったことと末尾の願文とを関係づけて六十歳前後とし、 下限を六十二歳とみる説、 ¬観念法門¼ については引文形式に ¬安楽集¼ との関連がみられるなどの理由から玄中寺に住していた三十歳前後とみる説、 また ¬般舟讃¼ については本書および ¬往生礼讃¼ とともに、 日本への将来者を推定してその帰国年時以前である四十九歳以前の作とみる説などであるが、 いずれも多数の支持を得るまでには到っていない。
 また、 撰述年代と関連する五部九巻の前後関係についても議論が重ねられており、 諸説は ª本疏→具疏º あるいは ª具疏→本疏º という二つの成立順に大別して見ることができる。 良忠が ¬法事讃私記¼ において、 ª本疏→具疏º である ¬観経疏¼ → ¬法事讃¼ → ¬観念法門¼ → ¬往生礼讃¼ → ¬般舟讃¼ の順序を示して以降は、 基本的に ª本疏→具疏º の見解が踏襲されるが、 思想内容の比較から本疏を最も円熟した内容をもつとして、 ª具疏→本疏º である ¬般舟讃¼ ¬法事讃¼ ¬往生礼讃¼ → ¬観念法門¼ → ¬観経疏¼ との見解が提唱される。 その後は、 本書に 「讃云」 として ¬往生礼讃¼ を引用している点などから、 ª具疏→本疏º を支持する ¬観念法門¼ → ¬般舟讃¼ ¬法事讃¼ → ¬往生礼讃¼ → ¬観経疏¼ との順序を示す見解もみられる。 しかし、 単純に経典をどのようにみて教義を確立したかという点だけでなく、 大師における浄土教実践なども含めて問題となるのであり、 本疏・具疏および具疏間の前後関係については今日でも定説をみない。 また、 大師の真筆あるいはそれに準じるような信頼に足る資料が現存しない今日においては、 五部九巻の思想内容を明確に位置づけ、 その比較によって著作の前後関係を確定することは極めて難しいといわねばならない。
 五部九巻の伝来のうち、 具疏については各解説に譲るが、 本書については中国における依用の跡はほとんどみられないものの、 日本における将来は早く奈良時代である。 「正倉院文書」 によれば、 本書の最古の書写記録は天平十五 (743) 年であり、 天平二十 (748) 年までに ¬往生礼讃¼ ¬法事讃¼ (異説あり) ¬般舟讃¼ も将来されたことが知られる。 この将来者については、 慈訓や玄といわれていたが、 近年、 道昭によるとも推定されている。 その説に従うならば、 将来の上限は道昭が帰国した斉明七 (661) 年まで引き上げられ、 大師の在世中にはその著作が伝来していたことになる。 その後、 本書は源信和尚の ¬往生要集¼、 源隆国の ¬安養集¼、 永観の ¬往生拾因¼、 珍海の ¬決定往生集¼、 源空 (法然) 聖人の ¬選択集¼、 宗祖の ¬教行信証¼ 等に引用され、 浄土教の隆盛とともに流布していったと考えられる。 なお、 ¬往生要集¼ では本書のうち 「玄義分」 のみが引かれ、 五部九巻すべての引用は宗祖のみである。
 さらに本書および具疏の刊行について、 幸西の門弟である明信は、 従来の流布本に誤りが多かったことから、 宋に渡って大師の遺跡を訪ねるなどして熱心に証本を探し求めたが、 一部も発見することができなかった。 そのため、 建暦三 (1213) 年に諸本を校訂して五部九巻のうち ¬般舟讃¼ を除いた四部八巻を開版した。 伝来後の消息が途絶えていた ¬般舟讃¼ は、 源空聖人も披閲できなかったとみられる。 しかし、 建保五 (1217) 年に発見された後に、 入真によって貞永元 (1232) 年に開版されている。 この ¬般舟讃¼ の開版によって、 五部九巻の刊本がはじめて揃ったことになる。 なお、 本書については建暦三年版の版木が摩滅してきたことから、 嘉禎三 (1237) 年に証空の門弟である証慧により継承されて開版されている。 また、 五部九巻は、 後に知真によって正安四 (1302) 年と元亨二 (1322) 年とに揃って開版されている。 建暦三年版および正安四年版、 元亨二年版の初摺本は現存しないが、 建暦三年版の由来は大谷大学造本 ¬般舟讃¼ の刊記によって知られ、 正安四年版の形態は龍谷大学蔵本に伝えられている。