高田派専修寺蔵貞和五年定専上人書写本は、 表紙が鍵形に裁断されている。 このことは、 末尾に 「右このうち表紙の空仏上人の/六字名号に取るなり聞書のすへの/定専上人の六字名号に取る/享保十九年 天十月十三日」 とあることから、 享保十九 (1729) 年に切り取られたことが知られる。 高田派専修寺には 「南無阿弥陀仏 釈空仏」 の一軸が所蔵されているが、 その切り口と定専上人書写本の表紙の切り口とが一致することから、 この一軸が表紙から切り取られたものとされている。 その切り口を合わせれば、 当初の表紙には、 中央に外題があり、 その下に 「釈空仏」、 外題の左側に 「南無阿弥陀仏」 とあったことになる。 また、 本文が終わった箇所には、 同じく切り取られた形跡があり、 先の表紙と同じく軸装された可能性もあるが、 その存在は確認されていない。 定専上人書写本は、 本文と表紙との筆跡が一致することから、 切り取られた表紙にあった 「釈空仏」 も高田派第五代定専上人によるものとされ、 定専上人から第六代空仏上人に授与されたものと考えられている。 奥書の 「貞和五歳 ひのとのうし 七月廿二日/釈定専 二十」 の後には、 「聖人御歌」 として、 「我心 我だにしらず 人しらじ 人の心を いかにしるべき」 「月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ」 「あぢきなき うき世にすまじ 我身には なき事今は 身にかゝりけり」 の三首の和歌が、 本文と同筆で記されている。 二首目の和歌が源空聖人の歌としてよく知られていることから、 「聖人御歌」 の 「聖人」 とは、 源空聖人を指すと考えられている。 また、 和歌の後には、 第十八願文などが書かれており、 筆致と墨色から定専聖人による異時筆とされている。
 体裁は半葉五行、 一行十六字内外である。