本鈔の書写本の系統には三種から四種の系統を認めるが、 本鈔を最も早く写伝したのは第三代覚如上人である。 写伝本の奥書などにより正応二 (1289) 年十一月と暦応四 (1341) 年の二度にわたって書写が行われたことが知られる。 いずれも現存していないが、 正応二年本の系統を伝えるものが、 本派本願寺蔵応仁三年書写本 (零本) と和歌山県真光寺蔵室町末期書写本であり、 暦応四年本の系統を伝えるものが、 新潟県浄興寺蔵永享六年書写本である。
 この浄興寺蔵本の奥書には、 解説で触れられている 「観応三歳」 の奥書の他に、 この書写本の由来が示してある部分があり、 それによれば、 この書写本は、 同寺の周観が上洛した際に、 本願寺第七代存如上人の許しを得て書写したものであることがわかる。 なお、 下巻の 「群賊悪獣者」 から 「言白道四五寸者」 までの一丁分が欠失している。