底本は本派本願寺蔵徳治二年覚如上人書写本である。 本書は他に書写本が存在しない孤本である。 奥書によると、 まず正嘉元 (1257) 年に宗祖によって著され、 弘安六 (1283) 年、 それを和田門徒と考えられる寂忍が書写している。 徳治二 (1307) 年に至って第三代覚如上人が造岡道場にてこの本を閲し、 和田の宿坊で書写を試みたが、 眼病が再発したために他の者を雇って書写させたとある。 奥書のみは覚如上人によるものである。
本書の内容は、 源為憲の ¬三宝絵詞¼、 珍海の ¬日本三宝感通集¼、 太子伝の一つである ¬文松子伝¼ の文からなっており、 ¬日本三宝感通集¼ および ¬文松子伝¼ については現在伝わっていない。
まず ¬三宝絵詞¼ からは太子伝が抄出されている。 ¬三宝絵詞¼ の太子伝は、 とりわけ ¬聖徳太子伝暦¼ に基づいており、 ¬聖徳太子伝暦¼ に示された太子の行実や奇瑞が数多く採録されている。
次に、 珍海の ¬日本三宝感通集¼ からは、 四天王寺の 「御手印縁起」 が引かれ、 同寺に伝わる仏舎利について述べられている。 また、 続いて同書より 「太子御廟の註文出現の事」 として、 天喜二 (1054) 年に僧忠禅が磯長の太子廟から掘り出したとされる銅函の銘文が引かれている。
続いて ¬文松子伝¼ からは、 「廟窟偈」 の文が引かれている。 この偈の最後の二句にあたる 「印度号勝鬘夫人 震旦称恵思禅師」 については、 他の太子伝の偈に見えないことから、 本来は偈の後に続く文であったものが、 ¬上宮太子御記¼ においては偈の末文として加えられたとの指摘がある。 またその一方で、 「廟窟偈」 には数種のものが伝えられていることから、 宗祖所覧の 「廟窟偈」 にはじめからこの二句が含まれていた可能性も指摘されている。 この偈に続いて太子の師として、 恵文、 恵慈、 恵思の各師が挙げられており、 続けて仏法の伝来と正像末の三時について述べられる部分をもって引用は終えられている。
本書については宗祖が一部の書とされたのか、 あるいは既に編纂されていた本書を、 宗祖が書写されたのかという議論がある。 それについては、 宗祖は両太子和讃 (七十五首及び百十四首和讃) において直接本書を典拠としておられないことから、 その時点で本書は未だ存在していなかったものと思われる。 また、 本書と太子和讃の制作態度には共通点があり、 それらの点から、 本書は宗祖が両太子和讃を制作された後に、 自ら編纂されたものではないかと考えられる。