本書は、 存覚上人の撰述であるが、 厳密にいえば、 存覚上人による口述を、 第七子である慈観上人 (綱厳) が筆記したものである。
 内題に 「常楽台主老衲一期記」 とあるように、 京都府常楽寺の開基である存覚上人の生涯を編年体で著した書であり、 ¬存覚上人一期記¼、 ¬存覚一期記¼ とも呼ばれる。
 本書の内容については、 存覚上人の事績のほか、 当時の本願寺の動静、 嘉元元 (1303) 年の関東における念仏停止の禁制などが記され、 初期教団の趨勢を知る上で貴重な資料である。 本文の構成は、 まず存覚上人の出自について、 続けて大谷南地の買得と覚恵上人の異父弟・唯善について述べられ、 その後、 正安三 (1301) 年、 十二歳の条以降は、 年齢別に分けて記述されている。 本文の各所には、 いわゆる唯善事件について詳しく記録されている。
 存覚上人は、 正応三 (1290) 年六月四日、 本願寺第三代宗主覚如上人の長男として誕生した。 永仁五 (1297) 年、 八歳の時に親綱と名乗り、 前伯耆守日の親顕の猶子となった。 親顕の死期はその父親親業を猶父とした。
 乾元元 (1302) 年、 十三歳で大和国中河成身院の子院である東北院慶海のもとに入って修学し、 嘉元 (1303) 元年、 十四歳で出家、 東大寺において受戒し、 興親と改名した。 嘉元二 (1204) 年、 十五歳で心性院経恵に付いて親恵と改名すると、 同年、 尊勝院玄智に師事し、 慈道法親王のもと、 延暦寺で再び受戒している。 嘉元三 (1305) 年、 十六歳で尊勝院光恵と兄弟の契りを結び、 日野俊光の猶子となり、 光玄と改名した。 同年二月より十楽院に参仕したが、 徳治二 (1307) 年、 祖父にあたる覚恵上人より尊覚の名を授けられ、 さらに存覚と名を改めた。 同年十月から十二月には、 阿日房彰空より ¬観経疏¼ を学んだという。
 この間、 正安三年から嘉元元年にかけて、 大谷敷地に関する譲状や院宣をめぐり、 唯善と覚恵上人との論争があった。 徳治元 (1306) 年には、 唯善の騒乱が再び起こったため、 覚恵上人は大谷を退去したが、 翌年、 二乗朱雀の衣服寺にて示寂した。 唯善との大谷敷地に関する争いでは、 覚如上人に多くの門弟の支持が集まり、 延慶二 (1309) 年、 青蓮院の決裁により収束を迎えた。
 唯善との相論の後、 存覚上人は覚如上人のもとに呼び戻され、 父を補佐するようになる。 延慶三 (1310) 年には、 覚如上人の留守識就任のための勧進状を執筆し、 東国に赴いた。 応長元 (1311) 年には、 覚如上人と共に越前へ向かい、 翌年大町如道に ¬教行信証¼ が伝受されたが、 その大部分を存覚上人が講義した。 正和三 (1314) 年条によれば、 存覚上人は大谷の管領を譲られたとされる。 正和五 (1316) 年には、 覚如上人の計らいで奈有を迎え結婚している。
 ところが元亨二 (1322) 年、 覚如上人と存覚上人との対立が激しくなり、 存覚上人は義絶されるに至った。 大谷を退去した存覚上人は、 下川原の牛王子辻子、 近江瓜生津を経て、 さらに関東、 奥州へと向かっている。
 これに前後して、 存覚上人は、 仏光寺の了源上人との交流が盛んとなり、 多くの書写聖教や自身の著作を与えている。 元亨三 (1323) 年に奥州から帰った存覚上人は、 了源上人の山科興正寺に入った。 その後、 山科興正寺は渋谷に移って寺号を仏光寺と改めたが、 ほどなくして火災に遭ったため、 元弘元 (1331) 年正月に関東へ赴き、 鎌倉に滞在した。 正慶二 (1333) 年に帰洛したが、 建武三 (1336) 年に大谷本願寺が焼失し、 塩小路烏丸の興国寺に居を移した。
 暦応元 (1338) 年、 存覚上人は備後に赴き、 悟一と名乗って法華衆徒と対論し、 その後、 ¬決智鈔¼・¬仮名報恩記¼・¬至道鈔¼・¬選択注解解¼ 等を著した。 また同年には、 明光の願いにより、 ¬顕名鈔¼ を著している。
 撰述した元亨二年以来の覚如上人による義絶は、 暦応元年に解かれたが、 康永元 (1342) 年、 五十三歳の時に再び義絶を申し渡された。 二度目の義絶は、 各方面からの助力によって観応元 (1350) 年に解かれたが、 その翌年には覚如上人は示寂した。 同年の条には、 覚如上人の葬送に関して詳しく記されている。
 文和元 (1352) 年、 六十三歳の条以降は、 覚如上人の一周忌、 錦織寺への出向、 大谷での報恩講への参列、 年始の勤行などについて述べられており、 大谷と錦織寺との往来を中心に構成されている。 存覚上人は、 応安六 (1373) 年二月二十八日、 八十四歳で示寂した。

 本書の成立については、 巻頭に 「於御前口筆畢」 とあり、 奥書に 「右此一期記者存覚上人御在世之時綱厳/僧都於御前口筆之旨被載端書畢/但七十二歳已後者綱厳所書加給歟」 とある。 これらの記述から、 存覚上人の誕生より弘安元 (1361) 年、 七十二歳の条までは、 存覚上人の口述を慈観上人が筆記し、 それ以降存覚上人が八十四歳で示寂されるまでの記事は、 慈観上人が書き加えたものとされる。
 また、 同じく奥書によれば、 ¬反故裏書¼ の著者である光教寺顕誓が大永年間 (1511~1528) に上洛した際に、 常楽寺兼忠から本書の原本を借覧し、 抄出本を作成している。 抄出する際には、 「御在世園城寺御略歴」、 「諸徒之談法」、 「東関御行化」 の三つを省略したという。 しかし、 本書の原本は、 享禄年間 (1528~1532) の擾乱による常楽寺炎上に伴い焼失している。 そのため、 奥書に 「于時天文廿年睦月五日記之」 とあるように、 顕誓の抄出本を天文二十 (1551) 年に再写したものが、 現存する諸本の本文にあたると考えられる。 現存諸本の内容は、 原本の大要を伝えているとされるが、 伝写の際に誤読もしくは誤写されたと考えられる箇所がいくつかあり、 難解な部分も残されている。