本書は、 嘉禄の法難に関連する史料がまとめられたもので、 延暦寺や朝廷の動向を記している。 貞応三 (1224) 年五月十七日付の①「延暦寺奏状」 (延暦寺大衆解)、 六月二十九日付の②「後堀河天皇宣旨」 および③「天台座主円基御教書」、 七月五日付の④「後堀河天皇綸旨」 および⑥「天台座主円基御教書」 の五点が収録されている。
①「延暦寺奏状」 (延暦寺大衆解) は、 仏教界の秩序を乱すものとして専修念仏を停止するよう、 延暦寺の大衆が貞応三年五月十七日に朝廷に上奏した文書である。 停止の理由を六ヶ条の過失をもって示している。 「不可以弥陀念仏別建宗事」 「一向専修党類向背神明不当事」 「一向専修倭漢例不快事」 「捨諸教修行而専念弥陀仏広行流布時節未至事」 「一向専修輩背経逆師事」 「可被停止一向専修濫悪興隆護国諸宗事」 の六ヶ条である。
第一条は、 念仏をもって一宗を建てることについて、 開宗の拠るべき規則に則っていないと主張する。 一宗を建てるためには、 開宗のための従うべき法式があり、 古くからある八宗同様に相承と勅許が必要であると述べる。 第二条は、 本地垂迹説を根拠とし、 専修念仏が神明を軽んじていると主張する。 本来、 神明は諸仏の垂迹であるにもかかわらず、 専修念仏者は神明を敬する風儀がないことを非難している。 第三条は、 日本・中国の社会情勢の悪化について、 浄土門が護国仏教を粗略に扱ったことに原因があると主張する。 日本においては源空 (法然) 聖人が念仏の教えを弘めたことが、 その温床であると専修念仏を非難している。 第四条では、 末法万年中は念仏興隆の時節ではないことを主張する。 念仏が興隆するのは末法の後に、 ¬大経¼ 以外の諸経が滅びた時であり、 末法万年を経ていない今は諸経が滅ぶ時ではないと指摘している。 第五条は、 専修念仏者は ¬観経¼ の経旨に背き、 道綽禅師・善導大師の実践に反していることを主張する。 称名念仏のみ重視するあまり、 持戒、 読誦などを難行として斥けていると非難している。 第六条は、 専修念仏の弘まりは護国諸宗の衰退を招き、 国が乱れる原因であると主張する。 破戒を促すものが存在した専修念仏教団に対して、 護国を目的として戒律を遵守することは当然であり、 破戒行動は国を衰弱させるものと非難している。 これらの条の中、 第一条、 第二条、 第三条、 第五条、 第六条は、 それぞれ ¬興福寺奏状¼ の第一条、 第五条、 第四条、 第六条、 第八条と論調が一致している。
②「後堀河天皇宣旨」 と③「円基御教書」 は、 藤原左衛門権佐信盛の奉行により、 天台座主円基に一向専修念仏の停止、 および延暦寺大衆の蜂起を制止するよう下した宣旨と、 それを承けた天台座主から大衆へ通達する書状 (執達状) である。 この御教書には年時が記載されていないが、 同文が記載される日蓮の ¬念仏者追放宣状事¼ の宣旨篇には 「同七月十三日被下山門宣旨云」 とあり、 嘉禄三 (1227) 年十月十五日の関東からの宣旨の返事に続き、 七月六日延暦寺に宣旨の間に収められていること、 また、 ¬公卿補任¼ によれば藤原信盛が左衛門権佐であったのは嘉禄二 (1226) 年以後のことであることから、 本書の宣旨および、 御教書は嘉禄三年のものであることが想定される。
④「後堀河天皇綸旨」 と⑤「円基御教書」 は、 隆寛・幸西・空阿の遠流が決定した旨を示し、 大衆の蜂起を制止するよう、 天台座主円基に命じた綸旨と、 それを承けて円基が戌刻に大衆に対し、 綸旨を知らせている執達状である。 この戦時も年時表記を欠いているが、 日蓮の ¬念仏無間地獄抄¼ に 「嘉禄三年七月五日被下山門宣旨云」 として収録されていることなどから嘉禄三年の宣旨であることが推定される。
本書は五点の史料をまとめたものであるが、 編集時期・編者・「一向専修停止事」 という原題の命名者など、 来歴には不明な点が多い。 また、 本書の書写本には、 本巻所収の三本の他に、 大正大学蔵本があるが、 これら諸本の中で、 最も古い書写奥書をもつ栃木県輪王寺蔵本でも、 寛永十九 (1642) 年の成立であり、 江戸時代以前の書写本は見つかっていない。 しかし、 天台宗、 浄土宗関係各所で書写本が蔵されているという事実や、 法難の経緯を伝える史料群として伝持されてきたことを考えれば、 本書が専修念仏の弾圧史を紐解く重要な史料であることには変わりない。