本書の著者は龍樹菩薩と伝えられる。 龍樹菩薩は梵名をナーガールジュナといい、 漢訳して龍勝あるいは龍猛ともいう。 活躍したのは、 およそ150から250年頃とされ、 南インドのバラモンの家に生れた。 幼少の頃より、 ヴェーダを始めとする様々な学問に精通したが、 出家して部派の経・律・論を学び、 のちに北インドにわたって大乗経典を学修して多くの論書を著した。 とくに中観思想を確立して大乗仏教の教理を理論的に組織するなど、 偉大な足跡を残し、 「八宗の祖」 と仰がれている。 龍樹菩薩には ¬中論頌¼ ¬廻諍論¼ ¬六十頌如理論¼ ¬空七十論¼ ¬宝行正行論¼ ¬勧誡王頌¼ ¬ヴァイダルヤ論¼ ¬因縁心論¼ などの著作があり、 他にも本書に引用される ¬菩提資糧論¼、 浄土思想に関連するものとして ¬十住毘婆娑論¼ ¬大智度論¼ などがある。 なお、 「易行品」 は ¬十住毘婆娑論¼ に収録される一品である。
¬十住毘婆沙論¼ は、 ¬華厳経¼ 「十地品」 のうち、 初地と二地とを解釈したもので、 鳩摩羅什の漢訳のみが現存する。 ¬十住毘婆娑論¼ の 「十住」 とは、 菩薩の階位である十地を意味し、 「毘婆沙」 とは、 梵語ヴィバーシャの音写で、 広説・勝説などと漢訳される註解という意味である。 高麗版 ¬大蔵経¼ によってその内容を見ると、 全体が三十五品で構成され、 第一序品に総説、 第二入初地品から第二十七略行品までに初地における在家の菩薩の行法、 第二十八分別二地業道品から第三十五戒報品までに第二地における出家の菩薩の行法が示されている。 なお、 高麗版 ¬大蔵経¼ では十七巻三十五品、 明版 ¬大蔵経¼ では十五巻三十六品と、 巻数・品数が相違している。
¬十住毘婆娑論¼ は、 三地以降の解釈が存しない。 その理由については、 龍樹菩薩自身が解釈しなかったのか、 或いは翻訳されなかったのか不明であるが、 法蔵の ¬華厳経伝記¼ に以下の記事がある。 つまり、 「十住毘婆娑論十六巻 龍樹所造 釈十地品義 後秦耶舎三蔵口誦其文 共羅什法師訳出 釈十地品内至第二地 余文以耶舎不誦 遂闕解釈」 との記事である。 この記事によれば、 ¬十住毘婆娑論¼ は仏陀耶舎が原文を口誦し、 鳩摩羅什と共に訳出したが、 三地以降は仏陀耶舎が口誦しなかったために欠いたとされる。 口誦しなかった理由については、 そもそも ¬十住毘婆娑論¼ の訳出は ¬十地経¼ (¬華厳経¼ 「十地品」) 翻訳の参考のためであったが、 ¬十住毘婆娑論¼ が ¬十地経¼ を随文解釈するものではなかったために中断したなど、 様々に推測されているが詳細は不明である。 このような経典とその注釈書を共に訳出する例は、 鳩摩羅什が ¬大品般若経¼ を翻訳する際、 その内容を正確なものとするために、 龍樹菩薩による ¬大品般若経¼ の注釈書である ¬大智度論¼ を合わせて翻訳しながら訳文を調えたとされることからも知られる。 なお、 三地以降を口誦しなかったとする記事は、 ¬華厳経伝記¼ のみにしか見られないため、 その記事の内容を疑問視する見解もある。 三地以降が存在しないことについて、 ¬十住毘婆娑論¼ を未完の書とする見解もあるが、 全体の内容からすれば大乗菩薩道について諸大乗経典の要点が解説された独立した論書とする見解もある。 ところで、 ¬出三蔵記集¼ には鳩摩羅什の訳出以前、 すでに竺法護によって ¬十住毘婆娑論¼ 第十・第十一品を抄出した ¬菩薩悔過経¼ が存在したことが記されている。 また、 ¬出三蔵記集¼ によると、 当時 (514年)、 ¬十住毘婆娑論¼ の抄出本として、 ¬十住毘婆娑論¼ 第八品を抄出した ¬菩薩五法行経¼、 第九品を抄出した ¬初発意菩薩行易行品¼、 内容不明の ¬十住毘婆沙経¼ の三本が存在したと記されている。
「易行品」 の内容は、 まず、 不退 (阿惟越致) の位に至る道には、 様々な修行 (諸) を長い時間かけて (久) 行ったとしても、 二乗に堕する恐れ (堕) があるため、 易行道があれば教示してほしいとの問いが設けられる。 これに対して、 難行道は根機の優れた者のための道であったとしても、 雄々しく堅固な志を持って修行に励むべきと叱責するが、 根機の劣った者のために信方便易行の法が説き述べられる。 その信方便易行の法については、 最初に恭敬心をもって東方の善徳など十方十仏の名を称えることであると偈頌をもって示される。 そして、 その明証として ¬宝月童子所問経¼ を引用し、 続けて十方十仏の名が解釈され、 最後にあらためて偈頌によって、 その内容がまとめられている (十方十仏章)。 つぎに、 他の仏の名号によっても不退の位に至ることができるかとの問いが設けられ、 百七仏 (百七仏章) や阿弥陀仏 (弥陀章) について示され、 続けて毘婆尸仏などの過去七仏と未来の弥勒仏 (過去八仏章)、 徳勝仏などの東方八仏 (東方八仏章)、 三世の諸仏 (三世諸仏章)、 善意菩薩などの諸大菩薩 (諸大菩薩章) を憶念称名することも、 同じく易行の法であると示し、 一品の説述が終えられている。 このように、 本書には阿弥陀仏だけではなく、 諸仏・菩薩の名を称えることも易行の法であると示されている。 しかし、 本書の主眼は阿弥陀仏の易行を示すことにある。 そのことは、 弥陀章において阿弥陀仏に限って改めて讃えられていること、 阿弥陀仏を讃える偈文の数や文章内容が諸仏のそれに対して詳しく述べられていること、 阿弥陀仏に限って本願が示されていること、 阿弥陀仏のみに往生の利益が示されていること、 弥陀章においてのみ龍樹菩薩自ら 「是故我常念」 との自帰の文や、 「乗彼八道船 能度難度海」 との易行道としての乗船の喩えが述べられることなどから知られる。 このことから浄土真宗では、 本書の主眼は阿弥陀仏による信方便易行を明らかにすることにあると見て本書を重視し、 所依の聖教の一つとするのである。