本鈔は、 存覚上人の撰述である。 存覚上人については ¬存覚一期記¼ を参照されたい。 本書は、 題号の示す通り報恩について解説したものであり、 その内容は大きく二段に分けることができる。 すなわち、 父母に対する報恩について示す部分と、 師長に対する報恩について示す部分とで構成されている。
 第一段は、 父母の恩が深いことを表し、 その恩に報いるべき旨を示すことに重きが置かれている。 冒頭に 「孝養父母は百行の本なり、 内典にも外典にもこれをすゝむ」 と述べられていることから知られるように、 孝養の重要性を証明するために内外の典籍を引用する。 すなわち内典は ¬心地観経¼・¬観経¼・¬梵網経¼・¬観経疏¼・¬父母恩難報経¼・¬四十二章経¼・¬盂蘭盆経疏¼・¬増一阿含経¼・¬報恩経¼・¬父母恩重経¼・¬六度集経¼・¬雑宝蔵経¼・¬法華経¼・¬涅槃経¼、 外典は ¬孝経¼・¬礼記¼・¬釈名¼・¬諡法¼ にまで及ぶ。 この中、 外典は主に 「孝」 の字義を明かすことを目的として引用されており、 孝行は父母のこころに随順することであると示されている。 一方、 内典には三宝に仕えることも孝順になることが説かれている。 また没後の追善を営むことも菩提に向かうための孝養となることが示されるが、 後述するように扱いには注意を要する。
 第二段は、 師長の恩について、 父母に対する孝養と比較し、 仏法によって生死出離を求める人にとっては、 何より師長に対する恩を大事にすべきことが示されている。 その根拠として、 ¬大経¼ や ¬観経¼ をはじめとする浄土教の経論が中心に引かれており、 中でも ¬観経疏¼・¼般舟讃¼・¬礼讃¼・¬法事讃¼ といった善導大師の著作が多く用いられていることに特徴がある。
 全体を通して見れば、 本書の特徴として次の二点を挙げることができる。 一つ目は、 一段目の最後に 「然ば、 生前にそこばくの孝行をいたしいたさんよりは、 没後に随分の善根をも営てかの仏果をかざらんは、 其功徳殊に莫大なるべし。 定て諸仏の大悲にかなふべきなり」 と示され、 生前よりも、 没後の報恩に主眼が置かれていることである。 ただし、 「生前にも最も尊重頂戴の志をぬきいで、 没後にも殊に追善のつとめを致べきなり。 其追善のつとめには念仏第一なり」 や 「現世の祈祷、 亡者の追善、 念仏の功力に超たるはなく、 弥陀の利益に勝たるはなし」 と述べられるように、 最終的には念仏の利益が第一であることが主張されており、 念仏の位置づけを高めようとした存覚上人の意図が窺える。 二つ目は引用される典籍が広範にわたることである。 第一段で外典が引用されることもその一つであるが、 その他には、 たとえば、 聖徳太子と善光寺如来が取り交わした書簡の説話を挙げることができる。 そこでは聖徳太子が小野妹子を使者として善光寺如来へ消息を送り、 本太善光の取り次ぎによって進上したことが示され、 また善光寺如来からの返事を受け取った聖徳太子はさらに念仏弘通の志が深くなり、 心の中で返歌を詠むに至ったとされている。 このように当時広く世に知れ渡っている説話が引かれていることも特徴の一つである。
 本書の成立について、 ¬浄典目録¼ によれば 「報恩記一巻 依同所願空望草之」 とある。 ¬浄典目録¼ の構成から、 この 「同所」 とは備後山南を指していると思われ、 本書が備後山南の願空の所望によって著されたものであることになる。 なお、 この 「願空」 とは ¬真宗法要典拠¼ によれば、 「山南願空、 光照寺ニソノナシ。 但第四世教空歩船鈔願主、 第五世教願註解鈔願主ナルヨシ寺記ニミユ。 准ジテフニ願空教空或教願ナラン」 とあり、 教空あるいは教願の誤りであろうとされている。
 本書の撰述年代については、 ¬存覚一期記¼ 四十九歳の条に、 日蓮宗徒との対論を示した後に 「其次作↢¬決智抄¼了。 ¬仮名報恩記¼・¬至道抄¼ 各一帖 ¬選択註解鈔¼ 五帖 等也」 とあることや、 寂慧の ¬鑑古録¼ にある 「暦応元戊寅年存師四十九歳備後国山南願空所望ニツイテ、 報恩記、 法華問答乃至撰述ヘリ」 との記述から、 暦応元 (1338) 年、 存覚上人四十九歳のときに、 ¬法華問答¼ や ¬決智鈔¼ などと時を同じくして著されたものであると考えられている。 このような成立時期を踏まえて、 存覚上人が本書制作の過程においても日蓮宗徒の論難を意識していたとする見方がある。 すなわち、 ¬法華問答¼ や ¬決智鈔¼ は日蓮宗徒からの論難に対して自宗の立場を明かし、 念仏の位置づけを高めるために著されており、 それらと同時期に著された本書もその特徴において軌を一にしているとされる。
 以上のように本書は、 衆学を直接的に述べたものではなく、 浄土真宗の書としては特異な面がみられるが、 そのことは、 教団外を意識した存覚上人の対外的な姿勢からもたらされたものであるとされている。 ただし、 浄土真宗においては、 亡き人は阿弥陀仏の本願力によって往生成仏する法義であるから、 念仏は故人に向けて追善供養するためのものではなく、 念仏者の心持ちからいえば、 阿弥陀仏の大悲に摂取されていることに対して、 感謝の思いが口からあらわれ出たものであると捉えるべきであろう。