本書は、 親鸞聖人の畢生の大著であり、 浄土真宗の教義の鋼格を本願力回向の壮大な体系をもって明らかにされた立教開宗の根本聖典であることから 「本典」 と称される。 また 「教行信証」 「教行証」 「教行信証文類」 「教行証文類」 と略称され、 ¬浄土文類聚鈔¼ に対しては 「広文類」 「広書」、 また 「本書」 とも称される。 宗祖は、 浄土真宗の法義を阿弥陀仏の往相・還相という二種の回向をもって示されている。 すなわち衆生が浄土に往生していく因も果 (往相) も、 往生した者が十方の衆生を救うために穢土に還り来ること (還相) も、 すべて阿弥陀仏の本願力回向によるとされている。 内容は、 浄土三部経や七高僧の著述を中心としてさまざまな経論釈の聖文を体系的に集めて、 宗祖が私釈を施した文類の形式をとり、 その深い宗教体験と強靱な思索の結果が随所にあらわれたものとなっている。
本書は、 教・行・信・証・真仏土・化身土の全六巻で構成され、 冒頭には 「総序」、 末尾には 「後序」 と呼ばれる全体の序と結となる文があり、 「信文類」 には更に 「別序」 と呼ばれる文が置かれる。 また 「行文類」 以下の冒頭で、 ¬大経¼ に説かれる阿弥陀仏の願名を標し、 それによって法義内容が展開してゆくという構成となっている。 最初に教とは、 釈尊の出世本懐をあらわした真実教である ¬大経¼ を指す。 ¬大経¼ とは、 釈尊によって、 阿弥陀仏の本願を宗とし名号を体として説き明かされた経であり、 そこにあらわされた法義が次に行・信・証と展開する。 行とは、 第十七願に誓われた諸仏所讃の名号を指し、 万人を往生成仏させるその徳用から特に大行といわれる。 この大行とは、 名号の活動相であり、 破闇満願の徳の備わることが明かされており、 巻末には 「正信念仏偈」 が置かれている。 信とは、 大行を領受した無疑心を指す。 この信心は往生成仏の因となる本願に誓われた三心即一の信心として明かされ、 また阿弥陀仏の大慈大悲の名号を体とするので、 特に大信と呼ばれ、 現在において正定聚の位につき、 命終と同時に真実報土に生まれてただちに仏となる徳のあることが明かされる。 証とは、 先に明かされた行信の因によって得る果を指し、 すなわち弥陀同体のさとりを意味する。 その証果の悲用として還相のはたらきが広く明かされている。 真仏土とは、 光明無量・寿命無量の真実の如来・浄土の境界を指し、 二回向の淵源であると共に、 衆生の証入する境地として明かされる。 以上の前五巻に対して、 第六巻の化身土とは、 方便の如来・浄土を指し、 それらは 「仮」 である聖道門と浄土門内の要真二門という方便の行信によって得る果であることが明かされる。 また 「偽」 と呼ばれる仏教以外の外道についても合わせて説かれ、 全体として真実にあらざる 「仮」 「偽」 と真実とを対照することによって、 より鮮明に真実があらわされている。
本書の撰述年代は、 真宗大谷派蔵の宗祖真跡本 (板東本) をはじめとした書写本に、 宗祖の他の著作にみられるような撰述に関する奥書がないため不明である。 そうした中で古くから注目されたのは、 「化身土文類」 に正像末の三時について述べた 「按↢三時教↡者、勘↢如来般涅槃時代↡、当↢周第五主穆王五十一年壬申↡。従↢其壬申↡至↢我元仁元年 元仁者後堀河院諱茂仁聖代也 甲申↡、二千一百八十三歳也」 との記述であり、 ここから元仁元 (1224) 年、 宗祖五十二歳のときに撰述されたとする説がとられていた。
しかし板東本の体裁や筆跡に関する綿密な研究をはじめ、 諸文や内容から様々な研究が行われたことにより、 この 「元仁元年」 との記述をもって直ちに撰述年代とすることはできなくなった。 つまり板東本は大体半葉七行から十行で記されているが、 全体の八割を占める八行部分は、 文暦二 (1235) 年の六十三歳のときに書写された平仮名 ¬唯信鈔¼ (高田派専修寺蔵) と同じ筆致である。 またこの八行部分は、 書き方その他からみて、 それ以前に成立していた初稿本を転写したものであることが明らかとなった。 なお先掲した 「元仁元年」 云々は、 この書写後まもなく書き改められた部分にある。 更に七行部分は、 康元元 (1256) 年前後の八十四、 五歳のときの筆致であり、 板東本とは六十歳頃に初稿本を転写された後、 晩年に至るまでそれに推敲を重ねられ成立したものであることがわかった。
こうして元仁元年撰述説以外に、 帰洛後撰述説や両説を折衷した信巻別撰説、 元仁元年撰述開始説などの様々な説が出された。 これらの説に関連する主な要点として、 後序にある天皇に関する三つの註記や引用された典籍の問題、 元仁元年の意味などを挙げることができる。
この中、 後序の三つの註記とは 「興福寺奏状」 が奏達された 「太上天皇 諱尊成」 「今上 諱為仁」 に対してそれぞれ付された 「号後鳥羽院」 「号土御門院」 との註記と、 赦免について記した所にある 「皇帝 諱守成」 に対して付された 「佐土 (渡) 院」 との註記である。 このうち土御門院は承元四 (1210) 年までの在位であり、 後鳥羽院とは仁治三 (1242) 年の追号であり、 また佐土 (渡) 院とは承久三 (1221) 年の配流から建長元 (1249) 年に順徳院と諡されるまで用いられた院号である。 従って、 この註記が本文と同時期に書かれたとするならば、 本書は宗祖が七十歳から七十七歳までの間に撰述されたとするのである。 また 「元仁元年」 の箇所にも、 「元仁者後堀河院諱茂仁聖代也」 との註記がある。 この 「後堀河院」 とは、 天福二 (1234) 年の崩御以降の追号であることから、 宗祖六十二歳以降のこととなる。 但し、 撰述した後序の 「今上」 の表記については、 当時の用例から在位の天皇に限った呼称であるとして、 この部分は宗祖が土御門天皇の在位期間であった承元四年までの流罪時代に、 公に提出ために執筆された奏状の一部を引用したものではないかとする説もある。
また本書の引用典籍からも検討が加えられた。 すなわち宗暁の ¬楽邦文類¼ が建暦元 (1211) 年に泉涌寺俊芿によって請来されるものの、 俊芿が京都に入ったのは建保六 (1218) 年であり、 ¬般舟讃¼ が御室の仁和寺から発見されたのが建保五 (1217) 年、 刊行が貞永元 (1232) 年である。 また戒度の ¬阿弥陀経疏聞持記¼ は南宋での刊行は嘉定十 (1217) 年であるが、 書き直し部分の引用である。 これらの点から引用可能な時期をめぐって検討がなされたが、 結局は撰述年代を確定する材料とはならなかった。
さらに元仁元年を出された意味については、 この年が源空 (法然) 聖人の十三回忌にあたる年であるとする説や、 「延暦寺大衆解」 が上奏され専修念仏停止が宣下された年であるためこれに対して撰述されたとする説がある。 またその他に、 この頃宗祖が ¬末法灯明記¼ をみて三時について記した旧稿を用いたものとする説や、 仏滅の干支が 「穆王五十一年壬申」 であるから計算のしやすい申歳を選んだとする説などの諸説があり、 その意味合いを確定することはできない。
また、 書写の許可をもって一応の完成とみることが可能であるため、 本書の書写された時期も注目された。 その中、 大谷大学蔵暦応四年書写本や龍谷大学蔵文明二年書写本には、 「寛元五年二月五日以善信聖人御直筆/秘本加筆校合訖 隠倫 尊蓮 六十六歳」 との奥書がある。 これによると寛元五 (1247) 年、 宗祖七十五歳のときに、 伯父日野範綱の子であり、 洛中の弟子である尊蓮 (信綱) が書写したことがわかる。 これが書写の記録として最も早いものである。
以上述べてきたことから、 本書の起筆や完成の時期を確定することは容易ではない。 また板東本の元となる初稿本をもって撰述年時とする見方や、 あるいは宗祖は晩年にいたるまで加筆訂正をされているので ¬六要鈔¼ にある如く完成されていないとの見方もある。 しかし現在では、 元仁元年をめぐる数年間に執筆されたとする説が支持され、 尊蓮の書写をもって、 本書の一応の完成とする見方もある。