「御文章」 は、 蓮如上人が親鸞聖人一流の教義の要を広く門徒に伝えるため、 平易な消息の形式でしたためたものである。 親鸞聖人が関東の門弟に与えた消息に示唆を得て述作されたものといわれ、 蓮如上人在世当時の俗語・俗諺も用い、 すべての人に聞くだけで領解できるよう配慮して著されたものである。
「御文章」 の呼称については、 古来から 「御文」 「消息」 「勧章」 「勧文」 「宝章」 と呼ばれているが、 石川県西光寺蔵蓮崇書写本の自筆端書 (文明五年九月二十七日) に 「右此文どもは…」 と記されていることなどから、 蓮如上人自身は 「文」 といわれていたようである。 それを本派本願寺では、 第十四代寂如上人が貞享元 (1684) 年に、 二度目に開版した 「五帖御文章」 の奥書を 「此五帖一部文章者信証院蓮如対愚昧衆生所令和述之消息…」 と記して以来、 「御文章」 という雅称で呼ぶようになった。
「御文章」 がはじめて制作されたのは、 ¬金森日記抜¼ や ¬蓮如上人遺徳記¼ によると 「御文ハ寛正ノ初ノ頃初テ作リ出シテアマタ遊サレケル。 最御作リ候御文、 道西ニ下サレ候」 とあって、 寛正の始め頃であるとされる。 また今日 「筆始めの御文」 と呼ばれる 「寛正二年三月」 の年紀を持つ 「御文章」 が伝わることから、 「御文章」 制作の最初は寛正二 (1461) 年頃であったことが知られる。
蓮如上人の自筆 「御文章」 は六十三通ほど確認できるが、 その多くは聖人の手控えとみられ、 直接門徒に授与されたものは少ないが、 これらの中には道場において一同が拝読できるように掛軸装にしたものもある。 これは京都府本派本願寺や京都府大谷大学、 京都府常楽寺等に所蔵されるもので、 変体仮名を用いた平仮名文で書かれており、 「抑も男子女人」 「信心獲得」 などの法義を簡明に伝えた法語や箇条書の制条などがある。 それが第九代実如上人や第十代証如上人になると、 それぞれの署名と花押を添えた証判本として、 巻子本や冊子本という形で全国に流布していくのである。
蓮如上人は、 生涯を通して約二百数十通もの 「御文章」 を著されており、 年紀が明らかな 「御文章」 では寛正二年三月から、 明応七 (1498) 年十二月十五日に法敬坊と空善に授与された八十四歳までの約四十年の間、 「御文章」 の制作を続けられたことがわかる。
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