本集成は、 蓮如上人の示寂後に子息や門弟によって集められた、 法語や行実の記録である言行録の諸本を取載したものである。 これらの言行録は、 本聖典に収録したものだけでも十四本を数えることができ、 数多く制作されたことがわかる。 構成は一条ごとに記されているものが多く、 収録条数は諸本によってそれぞれ異なっている。 その内容は多岐にわたって記録されているといえるが、 諸本の間には重複する箇所も多い。 また、 本集成に収録したもの以外にも、 蓮如上人の言行録として伝存するものがあり、 諸本の成立状況は複雑に絡み合っている。 すなはち、 一つの言行録について、 素材となったもの、 後に影響をあたえたものを考究する試みはこれまでにもなされてきているが、 各言行録の関係性は今日でも明白であるとは言えず、 この点については今後の研究が待たれるところである。 これら言行録の集大成として位置づけられているものが、 ¬蓮如上人御一代記聞書¼ である。 その詳細については ¬御一代記聞書¼ の解説に譲るが、 ¬空善聞書¼ ¬蓮如上人一語記(実悟旧記)¼ ¬蓮如上人仰条々連々聞書¼ などとの関連箇所が非常に多い。 このことは、 ¬御一代記聞書¼ が各言行録を素材として編纂されたことを窺わせるが、 これに含まれない蓮如上人の法語や行実の記録も伝えられており、 それらの内容は本集成によって知ることができる。
 蓮如上人の言行録の編者については、 門弟の空善や蓮如上人の第七男の蓮悟などの名前を挙げることができるが、 積極的に蓮如上人の言行録の編纂につとめ、 その第一人者ともいうべき人物は実悟である。 明応元 (1492) 年に蓮如上人の第十男として誕生した実悟は、 ほどなくして加賀の二俣本泉寺に住していた蓮悟の元へ移り、 そこで養育される。 そして、 後に同じ加賀に清沢願得寺を開くが、 加賀一向一揆の内部抗争である享禄の錯乱において焼失してしまう。 実悟自身は第十代証如上人から勘気を蒙り、 各地を転々とすることになる。 天文十九 (1550) 年には赦免され、 その後、 永禄年間には河内に土居坊、 世木坊を興し、 さらには古橋に願得寺を再興した。 天正十二 (1584) 年に九十三歳で示寂するまでに数多く書き残した蓮如上人の言行録や本願寺の故実に関する著作は、 当時の状況を知らせる極めて貴重な資料であり、 真宗史上において遺した功績は多大である。
 その著作については、 ¬日野一流系図¼ や ¬真宗聖教目録聞書¼、 あるいは蓮如上人の和歌集など多種多様であるが、 中でも最も豊富に著されたのが蓮如上人の言行録である。 このように、 蓮如上人の言行を多く伝える一方で、 蓮如上人が七十八歳の時に誕生した実悟は、 蓮如上人が示寂された時にはわずか八歳であったことや、 生まれてまもなく蓮悟の養子となっていたことから、 その言行について実悟が自ら知り得た内容は少ないとされる。 つまり、 実悟が編纂した蓮如上人の言行録の内容については、 多くが周囲の人々より教示されたか、 あるいは既に編纂されていた言行録によって知見したものであるといえる。 実悟は享禄の錯乱以前に ¬一語記¼ を編纂し、 その後に ¬仰条々¼ を完成させている。 さらに続けて ¬天正三年記¼ ¬蓮如上人塵拾抄¼ ¬山科御坊事其時代事¼ ¬本願寺作法之次第¼ ¬蓮如上人御一期記¼ ¬拾塵記¼ 等々を編纂するなど、 蓮如上人の言行やその周辺の事情を記録することに努力している。 実悟がこれほどまでに言行録の編纂に尽力したのには、 蓮如上人の没後に、 内紛や大名との摩擦などにより本願寺のあり方が大きく変化していくことを嘆き、 蓮如上人在世時への回帰を強く指向したことが動機にあったともいわれている。