本抄は、 覚如上人の撰述である。 覚如上人については ¬慕帰絵¼・¬最須敬重絵詞¼ を参照されたい。 本抄の題号については、 ¬慕帰絵¼ 第十巻第一段に、 「四十八願簡要の願々を選てめのこたきに註釈せり。 ……本は無名のあひだ、 今 ¬願々鈔¼ と題号し侍るは是也」 とあり、 覚如上人撰述の当初から 「願願抄」 という題号があったのではなく、 後に本抄の内容に即して名づけられたものと考えられる。 また、 ¬最須敬重絵詞¼ 第七巻第二十六段▽に、 覚如上人の著述として、 ¬執持鈔¼・¬最要鈔¼・¬本願鈔¼ とともに挙げられている。
本抄の内容は、 覚如上人が真実五願の願意について述べたものである。 阿弥陀仏の四十八願のうち、 第十一・十二・十三・十七・十八願の五つの願について、 はじめに願文を示し、 その願意が成就していることを成就文をもって証しとしている。
まず、 第十一願の願意については、 願文に浄土に往生する念仏者はすべて信の一念に正定聚に住すとあり、 浄土に往生できるのは正定聚の機だけであるから、 成就文にあ邪定聚や不定聚の機はいないとあるというのである。 われわれの往生が正業によって決成するのは、 この願が成就しているからであると示されている。
次に、 第十二願の願意が述べられる。 阿弥陀仏が因位の法蔵菩薩の時、 光明無量の誓いをおこし、 すでにその願が成就しているから阿弥陀仏といわれるのであり、 成就文を二文引いて光明無量のすがたを示している。
続いて、 第十三願の願意が述べられる。 第十二願の誓いが光明無量であるのに対し、 第十三願では寿命無量が誓われ、 その誓いがすでに成就していることを成就文を引いて示している。 そして、 第十二願と第十三願の両願が成就していなければ、 たとえ生因を誓った本願が成就しても往生はかなわないと述べ、 その理由が示されている。
次の第十七願の願意については、 法蔵菩薩は名号をもって一切衆生を導こうと、 自らの名号を諸仏にほめ讃えられることを誓い、 それが成就していることを成就文をもって証しとしている。
次に、 第十八願の願意が述べられる。 まず、 四十八願の中でもこの願にのみ浄土往生の因が誓われていること、 造悪不善の凡機が深信を発得するのは、 法蔵菩薩が因位の時に建てた強願とそれを成就した阿弥陀仏のはたらきによるのであり、 深信発得の一念に往生の利益が成就すると示されている。 よって 「至心信楽」 は凡夫自身の心ではなく仏心であり、 成就文の 「乃至一念」 も願力によって成就すると述べられる。 さらに成就文の 「至心廻向」 について、 上の 「信心歓喜」 もまた下の 「住不退転」 も、 すべて如来の大悲によることを示すと解している。 最後に、 浄土往生を願う心の発るのも、 すべて仏願によって発起されたものでなければ、 まったく納得できないと結んでいる。
このように、 覚如上人が五願の願意を明らかにしたのは、 宗祖が 「教文類」 から 「真仏土文類」 までの五巻に真実五願を配当することで浄土真宗の教義を体系的に示したことに立脚し、 それぞれの願について註釈されたものと推測される。 本抄は、 浄土真宗の要義を真実五願をもって、 それぞれの成就文を用いつつ、 説き明かされたものである。
なお、 第十一願の願意を明かされる中で、 覚如上人が信一念の正定聚を強調されるのは、 浄土異流の臨終来迎の義などに対して宗祖の教義を明らかにしようとされたものと考えられる。 また、 第十三願の願意を明かされる中に、 「機法一体」 という語が用いられているが、 これは、 浄土真宗において機法一体を論じる嚆矢ともされ、 同じく機法一体を説いた ¬安心決定鈔¼ との関連が推測される。
本抄の成立は、 本派本願寺蔵本など諸本の根本奥書に 「本云/暦応二歳 庚辰 九月廿四日楚忽草之/釈宗昭 七十一」 とあるように、 暦応三 (1340) 年、 覚如上人七十一歳の時である。 ¬慕帰絵¼ 第十巻第一段には 「願主は江州伊香の別庄に崇光寺管領の成信と号する苾芻、 望申に依て書たびけりとみえたり」 とあり、 近江国伊香の成信が所望したとある。